彼に恋をしていたわけではない。
左手の薬指を盗み見ようと思ったこともなければ、いつものバーではち合わせする曜日や時間帯を気にしたこともない。会うことができれば嬉しいが、待ち合わせするほどの関係でもない、それを望むことすら考えもしなかった。
それでも、ふっと酒気が抜け、これまでに共有してきたひとときがこの瞬間から色褪せたようにしぼんでしまったのを感じた。
はじめに声をかけたのはどちらからだったか。ひとつ間を空けて座る席の距離感は心地良く、静かな音楽と夜の空気に身を委ねながら切れぎれに続く会話はお互いのプライベートな話題にまでは踏み込まず、しかし日頃の疲れを癒すには充分なものだった。先に彼が来ていれば隣を誘われることも多くあったし、気分が良ければこちらから一杯奢ることもあった。
これは恋ではないが、友情ですらなかったようだ。今ではあの気楽なやり取りすべてが虚しく思われた。
すみれは、横からすべるようにして差し出された紙切れ一枚にも触れることに躊躇いを感じていた。自分たちが紙切れ一枚の関係として清算されたことを未だに受け入れ難かった。
ダウンライトの光を浴びて、棚に並ぶガラス瓶の肩が鈍く輝いている。
すみれは頑なに前を向いたまま、通りがかったバーテンダーに新しいカクテルを頼んだ。それを追いかけるように、美しい木目調のカウンターテーブルに落ちた影がすっと動く。
「それから俺にはこれと同じものを」
「かしこまりました。おふたりとも珍しいですね」
「まあ、たまにはね。そんな気分のときもあるさ」
軽く掲げられたグラスの残りは彼にしては度数の低いもので、そのことにはじめから違和感を覚えるべきだったのかもしれない。
「……唐沢さん」
すみれは隣に座る男の名前を呼んだ。たった今、それが本名であることを知ったばかりだ。彼もまた、名乗ってもいない
すみれの名前を知っているだろうし、もちろん知っているのはそれだけではないだろう。
すみれが三門市有数の資産家である来馬家と縁続であることを、彼は当然のように把握しているはずだ。
まったく悪びれるところのない声が「何かな」と続きを促した。低く落ち着いた、まだ宵の口といった色合いだ。今さら飲み物を変えたところで手遅れになりつつある
すみれとは数段の差がある。とろりとした睡気が額に差して、
すみれはこめかみを軽く押さえた。
これは酒の席でする会話としても場違いだ。
「今のは……本気の提案ですか? 私を騙そうとしているわけではなく?」
「もちろん。気になるなら今ここでその番号に電話をかけてもらっても構わない。疑われたことできみにマイナスの評価がつくこともない。これは俺の個人的な希望ではなく、組織としての正式な案件だ」
ふたりの前に新しいグラスが用意される。
すみれには真紅に染まったカクテルを、唐沢にはそれよりも濃い色のものをボトルから直接そそいで差し出すと、顔馴染みのバーテンダーはそこに流れる空気を察してごく自然に離れていった。
もしここで
すみれが声を上げれば、すぐに店側は配慮を示してくれるだろう。その安心感につけこまれ、今でもつけこまれ続けている。
すみれは唐沢から心理的に追い詰められているわけではない。これが怪しい勧誘でないこともその通りなのだろう。
すみれはそこではじめて、手もとに渡された一枚の名刺に目を落とした。巷にありふれた、なんの変哲もない白い一片。そこにはたった数年のうちにこの街で絶大な信頼を誇ることになった組織の名前が記されている。
異境防衛機関、ボーダー。彼がその信頼を築いた立役者のひとりであることは疑いようもない。どれほどの資金がボーダーに流れているのか、三門市に住んでいれば誰でも肌で感じることができる。彼の肩書きが何を示すものであるのか、
すみれには痛いほどわかっていた。
こんな展開が待ち受けていたのであれば、あの顔の怖い男から直接指名されたほうが幾分かましだっただろうかと、
すみれは詮ないことを考えた。それともやはりこうして気づかないうちに距離を詰められ、裏切られたとの思いを抱えて身動きが取れなくなっていたのだろうか。
「突然のことで悪かったね」
すみれの葛藤に勘付いたようなタイミングで、唐沢が再び口を開いた。いつものように引き際を良く弁えた、居心地の良い距離が取り直された。酔いに任せてぽろりと本音をこぼしたあとの、すぐに引かれた見えない線のように。あれも今日このときのための演出だったかと疑い始めると何もかもが煩わしく思えた。
「急いで回答をもらうつもりはないよ。焦らずにじっくりと考えてほしい、きみのこれからの人生を左右することだから……」
「いいえ」
続く言葉を遮り、
すみれはきっぱりと否定した。
「いいえ、時間はいりません」
すみれはカウンターに肘をつき、顔だけを横に向けた。隣でぼってりとしたグラスボウルを傾けていた唐沢と目が合う。美しく磨かれた内面に赤い艶が波打っている。脚の細いワイングラスは、いかにも彼に似合いすぎていて不愉快だ。
その余裕ある態度に、
すみれの拒否反応も織り込み済みだということがわかる。彼はいつもことを急かさない。年代別に飲み比べて楽しむときも、彼は静かに五感を研ぎ澄ませ、周りに流されることなく味わっていた。
すみれはその様子を眺めながら飲む時間が好きだった。香りと味と、落ち着いた話し声。光を受けててらりと輝く琥珀色のアルコールこそ彼には相応しいと思う。
ひとり取り残された広いリビングで、飾り棚のなかに静かに収まるロックグラスをただ見つめるままの
すみれを連れ出したのは唐沢だった。彼にはそうという自覚すらないはずだし、
すみれは再び誰かとひとときの安寧を共有できただけで満足だったはずだ。足を向ける先さえ変えてしまえばまた別の誰かの隣に座っている。それは女性かもしれないし、男性かもしれない。唐沢である必要はない。
何も知らずに酔っ払っていたあの頃がすでに懐かしい思い出のようだった。もうボトルをシェアすることもないのだろう。貸し借りのすべてはビジネスにつながり、店内で気さくに飛び交う紙切れと同じ重みしか持ちえない。
彼は言葉通り、長期戦を想定している。魅力的な条件よりも、誠実な対応が何よりも
すみれの心を動かすと理解している。
そのことがたまらなく嫌だった。
「もう答えは出ています」
間を置いて、背の高いワイングラスがカウンターに戻される。嫌悪、不愉快、恥辱、そうした感情をぶつけられる準備がひと呼吸の間に整えられる。彼は駆け引きに手慣れすぎている。
すみれは唐沢の目が自身から離されたその一瞬の隙をついて、明快に結論を伝えた。
「引き抜きの件、お受けします。いつからボーダーに出社すればよろしいですか?」
うす暗い照明の下でかすかに跳ね上がった眉を見て、溜飲が少しも下がらなかったことこそが今日一番の
すみれの悲哀だった。
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