唐沢がすみれの名前を知ったのは、来馬家に関連した流れではない。有能かつ品格に問題のない人材探しに奔走する人事部から回された社外秘資料のひとつに、プライベートで見覚えのある顔写真が載っていたためだ。唐沢はすぐにそれが誰であるかを悟り、面白いめぐり合わせに興味をそそられた。
 行きつけの店でよく顔を合わせる彼女が、唐沢の同僚となる。その私欲を含んだ未来展望には心躍るものがあったと認めるにやぶさかではなかったが、バーで酔いを重ねる彼女からはついぞ転職の望みを聞くことがなかったし、勧誘の話が進んでいると小耳に挟むこともなかった。唐沢はどこか名残惜しい思いを抱きつつも、そのときは思いがけないふたりの接点について自身の胸のうちにだけ収めた。
 カウンターのあの席に座っている間、そこは完全なプライベートの空間になる。常連客のなかには知った顔がいくつかあったが、それが暗に示された約束ごとのひとつとしていつの間にか守られていた。唐沢がそこで誰と落ち合い、襟もとを緩めてどれほど寛いだ姿を見せようとも、外でその話を持ち出す者はいなかった。
 それが破られたのは、来馬家の息子にトリオン能力があると確認されてからだ。同世代よりも遅い発覚にいくつか懸念される事態はあったものの、本人の希望や家族の協力、そしてすみれの存在により円滑に物事は動いた。管轄外の唐沢が把握するよりもはるかに早く動いてしまった。
 唐沢は来馬辰也の父親と仕事上の面識がある。今さら他人顔で静観するには誰に対しても近づきすぎていた。
 スポンサーの愛息子が防衛隊員として入隊する、ことはそれだけにとどまらない。かねてより独立の機運の強かった旧ボーダー以来の所属隊員たちと、気前の良い来馬家から譲渡された不動産物件が結びつき、水面下で手探りに行われていた調整が一挙に片をつけられた。
 すなわち、主力級の戦闘員を擁した支部の誕生だ。B級ランク団体戦への参加を視野に入れて設立された鈴鳴支部は、精鋭揃いの玉狛支部の存在感を薄めるために作られた。本部と玉狛支部の緩衝材として、鈴鳴支部は独特の立ち位置を求められている。
 鈴鳴支部の支部長代理。それが今のすみれの肩書きだ。仮にすみれが唐沢の交渉に応じていれば、彼女の立場はまったく違ったものになっていただろう。しかし、今はもう組織の派閥争いに巻き込まれている。

 定刻ぎりぎりに玉狛支部の林藤が会議室にすべり込み、すみれの肩を叩いて何事か耳打ちした。細かい内容までは聞き取れなかったが、愛想良くほほ笑むすみれを見た根付がそわそわと指を組み替えた。あの笑い方が厄介な揉め事に加担するサインであることを、ボーダーの面々はすでに理解しつつあった。
 会議が終わり閑散とした室内で、唐沢は煙草の吸い殻を備え付けの灰皿に落とした。その斜め向かいでは林藤が名残惜しそうに短くなった煙草をくわえている。今この場に残っているのはこのふたりだけで、議論の行方は大方の予想通りに進んだ。林藤が持ち込んだ改革案についてはまず根付が懸念すべき問題点を指摘し、忍田が公平な見解を述べ、城戸が根本的な意義を問いただした。鬼怒田は傍観者の態度を決め込んでいた。そして、出揃った各々の意見を踏まえて林藤が同じ立場の人間に、思いつきのような軽い口振りで話を振った。唐沢は、隣から組んだ手の下で諦めたようなため息がつかれるのを聞いていた。
 彼女は全員の望む答えを口にした。
「では、試験的に鈴鳴支部で導入してみましょう。当方は玉狛と違って窓口業務がありますし、県外出身の隊員たちが三門市民の実情を直接知るいい機会にもなります。根付さん、このあとお時間よろしいですか。対応マニュアルのことで確認しておきたいことがあります」
「構いませんが、問題が発生した場合に備えたスポンサーへの根回しはそちらに任せますよ」
「それについては唐沢さんから要請があれば対処します」
 すみれと目が合った唐沢は、別のことに気を取られて応じるのに一拍間が空いた。会議室の明るい照明の下で、すみれの目がまっすぐに唐沢を見つめている。
「……ま、大丈夫でしょう。この程度のリスクを抱え込むのは承知の上で我々と提携することに決めていますよ、来馬家は」
 ボーダー内には縁故入社職員の重要ポスト採用に関して上層部の見識を疑う声も上がったが、やがてそれは正式な支部長昇格がいつになるか噂するものに塗り変わっていた。
 林藤がひと言断って空調のスイッチを入れた。通気口が開き、換気扇の回る音が静かな会議室に満たされる。
「仕事の早い同僚が増えるとこっちとしては助かるな。本部長の下にはいつまでつけておく予定なんだ」
「どうでしょう。これまでと業種が違いますし、当面の間はこのまま忍田本部長が支部長を兼任する形が続くと思いますよ」
「昔の職場は彼女が抜けた穴を埋めるのに忙しいだろうな」
「その点はご心配なく。先方にも悪いようにはしていませんから」
「なるほど」
 うちの営業部長はさすが抜かりない、と称賛する言葉を受け流し、唐沢は腕時計にちらりと目を落とした。明日の朝までに客先用の資料を作らなければならなかったが、これはそのために時間を気にしたわけではない。
「今日の議題には取り上げにくい問題でも起こりましたか」
 唐沢から水を向けられた林藤が、いよいよ指先だけでつまむしかなくなった煙草を持ち上げた。
「会議でか? そりゃ無理だな。俺も四六時中ずっと城戸さんを怒らせたいわけじゃない。放っておいてあとから睨まれても困るんだが」
「ははは、なるほど。揉め事は小火で済むうちに対処しておくに限ります。私でできることがあればいつでも言ってください」
「助かるよ」
 その意味するところを、唐沢は注意深く見定めようとした。眼鏡の下の変わらない表情は、交渉を持つ相手としては手強かった。
 それはこのところ気がかりだった個人的な事情に絡んでいるのであればなおさらだった。
「それにしても城戸さんに怒られるような案件ですか。私にも心の準備をする猶予をいくらかもらいたいくらいですね」
「そこのところは安心してくれ。もっぱら怒られるのは俺の仕事だよ」
「進んで盾になってもらえるわけですか。これは大事の予感がするな」
「いやいや、ごく小規模な……いっそ身内の話だよ」
 林藤が深く息をつくように、煙を長く吐き出した。目線がぼんやりと天井をさ迷い、口火を切るその瞬間を唐沢は先に奪った。
「林藤さん。それは身内の、関係者すべての了承を得た話ですか?」
「……なんだ、意外と義理堅いな」
「営業職には必須のスキルですね」
 空調センサーが素早く煙を検知する。唐沢は沢村からのにおいにまつわる苦情を思い出し、新しい煙草に火をつけるのをやめておいた。
「私はボーダーを極めて機能的な組織だと評価しています。建設的な議論が役職に関係なく活発に行うことが可能で、この点は世界中の企業を見回しても稀有なことでしょう。感情よりも理性が優先される、結構なことじゃないですか」
「しかしな、実際のところ理性が感情を抑制できないことは、優秀な営業マンにはよくよくわかっていることじゃないか。そうだろう? 唐沢さんのことは信頼しているが、問題はあの子のほうだ」
「……あの子、とは」
 親しげな響きに思わず反応してしまった唐沢は、それで会話の流れが決したことを感じた。本日の会議の勝者が口の形だけでひとつの名前を呼び、にんまりと笑った。
「今週末。あいつと飲みに行く約束をしていたんだが、今回の件でしばらく密会を疑われる行為は避けたほうが良さそうだ。代わりに行ってきてくれないか?」
 ようやく聞かされた用件に唐沢はふっと苦笑をこぼし、スーツの前ボタンを止めながら立ち上がった。来馬家をうまく取り込んだ唐沢に対して同僚が不満を持っている、周囲がそのように受け止めているのであればまだ気楽なものだったが、この様子ではそれこそ火傷では済まなさそうだった。
「それは彼女に聞いてやってください」

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