すみれをボーダーに勧誘したのは何も唐沢がはじめてではなかった。社会に出て人脈を築くうちにそれとない接触がないではなかったが、それよりもよほど個人的な事情が絡んでいた。
 数年前のあの日、家族を失い呆然としているすみれのもとを訪れる者がいた。そこにすみれだけが残されたことを知っているのは、来馬のおじのほかには誰もいないはずだった。
「彼らの失踪した原因を知りたくはないか」
 男は城戸と名乗った。今にして思えば、原因を知りたかったのは城戸のほうだったのかもしれない。それから間もなく、三門市を未曾有の悲劇が襲った。
 すみれは今でも、自らがボーダーにいる現状が正しいものなのかどうか思い悩んでいる。城戸と長い付き合いであるという忍田や林藤たちと関わるのも苦痛に感じていた。

 事務員からかかってきた内線に出たすみれは、その来客者の名前に特段の驚きを覚えなかった。いつか接触があるのであれば、今日がもっとも相応しい。それはサイドエフェクトを借りるまでもないことだった。
「わかりました、お通ししてください。どうせここまで来るのにコーヒーを何杯も飲まされているでしょうから、お茶の用意は大丈夫ですよ。定時を過ぎたのでもう上がってください……ええ、お疲れさまでした」
 すみれは回線を切ると、受話器を耳に当てたまま短縮番号を押した。物理的な距離も近い隣の支部にはすぐにつながった。
「こんにちは、ゆりさん。支部長はいらっしゃる?」
 支部長の林藤が電話口に出たのと、唐沢が執務室に現れたのはほとんど同時だった。すみれはふたりに向かってにっこりとほほ笑み、唐沢に手振りだけでソファを進め、椅子を回して背中を向けた。
 そして単刀直入に言った。
「林藤さんは私の両親についてご存じですね?」
「……おいおい、ちょっと待ってくれ」
 電話の向こうがにわかに慌ただしくなったが、それは鈴鳴支部でも同じことだった。唐沢が革張りのソファで身動ぐ気配が伝わる。突然の個人的な話題に戸惑い、礼儀として部屋を出るべきか迷い、やがてソファに座りなおす。一連の動作は極めて合理的な判断のもとで行われたが、唐沢も承知していた内容かどうかはわからない。
「今夜、そのことについてご相談したかったのですが、予定が流れてしまって残念です」
「……知っていたのか?」
 短い言葉に含まれた意味は多様だった。
「いいえ、私は何も」
「城戸さんは?」
「何も仰っていません」
「そうか……俺も、話せることは大してない」
「わかっていますよ。ただお伝えしたかっただけです。ではまた、週明けの会議でお会いしましょう」
 すみれは歯切れ良く別れの挨拶を済ませると、林藤の反応を気にすることなく受話器を置いた。
「きみは恐ろしい女性だな」
 唐沢は上着を羽織ったままだった。癖のように内ポケットを探り、すみれから「ここは全館禁煙です」と伝えられると残念そうに手を下ろした。
「お客さまをお待たせして申し訳なくは思っていますが、あまり嬉しくない評価ですね。理由をお聞かせ願えますか?」
「これから先の話だよ。林藤支部長はもう先日のような手は使いにくくなった。きみとあの人の関係の変化はすぐに本部に知られてしまう」
「仕事には万全の態勢で臨むのが私の信条ですので。むしろそう何度も同じ手を使われてはバランスが崩れますよ」
 すみれは執務机に手をついて立ち上がった。唐沢の上着を預かるか少し考え、ハンガー掛けもないことを思い出す。
 すみれの肩書きがどうあれ、この支部長室が手狭なことは明らかだった。鈴鳴支部全体も同様で、本部のようにいくらでも部屋が生えてくることもなければ、玉狛支部のように最新鋭の設備が整っているわけでもない。来馬家がてらいなく不動産を寄越してきた理由のひとつには、市街地の物件としての活用のしにくさにあった。すみれがボーダーに転職してきて最初に手がけた仕事が改装工事の発注だった。
 その一方で、全国各地からスカウトされて集まった若い顔触れには本部の強い期待が透けて見えた。玉狛支部に対する楔として、あるいは将来に渡って裾野を広げる試金石としての役割を求められている。
 鈴鳴支部がどうあるべきか、それはほとんど外部の圧力によって転職を決めることになったすみれに思わぬやりがいをもたらしていた。
「これでも私は愛着を持っているんですよ。たとえ鈴鳴が来馬支部と陰で呼ばれていようとも、部下たちにはのびのびとボーダー活動に励んでほしい。そこに他意はありません」
「だからと言って、同僚を牽制するためだけに自分の傷口に手を突っ込んで掻き回すのは、見ていて気持ち良いものじゃないな」
 穏やかに咎める声を聞きながら、すみれは向かいのソファに座った。
「どうでしょう。私はそんなに被虐嗜好があるように見えますか?」
「もしあるとするなら、もっと早くに言ってほしかったと思っているよ」
 唐沢がゆったりと脚を組み替えた。
「きみがもう嫌だと根を上げるまで、代わりに俺がいじめてあげたから」
 営業部長の唐沢としてではなく、たまたまバーで隣り合っただけの男の顔をして、唐沢がすみれを見た。すみれは正面に座ったことを早くも後悔し、彼を執務室に通したことまでをも後悔し始めた。先ほどから、業務に個人的な感情を持ち込んでいることはわかっている。
「……今日は何のご用事で」
「これから来馬さんに会ってくる。その手土産のひとつでもと思ってね。来馬さんも、ご家族がボーダー勤務で何かと心配されておられるから」
「辰也さんは」と、すみれは親類筋にあたる青年の名前を口にした。わかっていても、その話題は避けたかった。
「辰也さんは、隊長職を不足なく務めています。隊の枠を超えて仲間からの信頼も厚く、これはご両親の教育の賜物でしょう。心配することは何もありません」
「それで、きみについては? 当然、きみのことも話題に出る。なんと伝えてほしいんだい?」
 わかっていながら、唐沢が憎らしいほど涼しい顔で水を差し向ける。
「私は……」
 すみれは唇を噛んだ。円滑な仕事上の関係を思い起こそうとして、それを個人的な感情によってことごとく邪魔をされた。
「……おじさんは、私が不動産の管理部門にでも務めていると思ってます。ついでに辰也さんの面倒なんかを見たりして」
「だろうね。まさかきみが、軍事部門で年上の男たちを相手にガン飛ばしているとは思ってもいないよ」
「来馬の家とパイプのあるあなたのことは、ずっとどうにかしなければと考えていました」
「きみが慎重な性格だということは十分承知しているが、俺のような悪い男を放置するのはあまり得策とは言えないな」
「……あなたが悪いひとなんて」
 唐沢が楽しげに笑いながらすみれの隣に席を移しても、追い払う気力は出なかった。ひとつ分の距離を置くには狭すぎて、酔った男たちよりもたちが悪い。
 素面のままふたりきりで話すのはこれがはじめてかもしれない。
 少し前から、階下で帰宅した学生たちの声が上がっていた。地域住民から差し入れられた物資を運んだり、廊下で悪ふざけをして怒られたりしている。
 鈴鳴支部はあたたかで居心地が良い。実家のように過ごしてほしいとみんなで相談して決めたことだ。
 今は誰もいないリビングの飾り棚、そこに並ぶロックグラス。いつかそれを使いたいと待ち望む自分がいることにすみれは気づいていた。階下の音に耳を傾けながら、戸を開けた瞬間の古びたにおいを記憶から手繰り寄せる。
 まずはグラスをきれいに磨いて、それから親指の先だけゆっくりとそそぎ入れる。きっと年を経て磨かれた美しい色合いを、光に透かせて見せてくれるだろう。ロックで楽しむのはそのあとだ。何事も、続きが待っているときほど喜びが胸の奥にまで染み入るものはない。
 すみれは膝の上に両腕で頬杖をつき、隣を見上げた。
「あなたの弱みは何かしら」
 唐沢がかすかに眉を上げた。グラスのなかで響き合う豊かな香りを楽しむときの、あの寛いだ眼差しで。
「きみがそれを聞くのかい」

天使のわけまえ・了 1 / 2 / 3