もう一度この場に立つ日が来るとは思ってもいなかった、と言えば大きな嘘になる。つい先ほどまで、私は数年に及ぶ大切な思い出を遠い霧の向こうへと追いやっていたからだ。この本部基地から臨む三門市内の眺望に代表されるような一見些細なことに始まって、トリガー機能に関わる重大な欠陥から目の前に居並ぶ重役たちのたまに見せる愛嬌までも、朧げな記憶となって私の中の深いところに沈んでいた。それらを明るい水面まで汲み上げたのはたった一言、白いカプセルの中でつぶやいた「トリガー・オン」の言葉だけだ。そこで取り戻した記憶を胸に抱えて、私はしばらくカプセルの外へと出られなかった。
 広い会議室の端で忍田さんから辞令を手交され、私はできるだけ丁寧に見える物腰で顔を上げ、組織のエンブレムを背負って立つ男にほほ笑みかけた。遅れて頬にかかる黒い髪にはまだ慣れない。
「近界民から全身全霊を賭して市民の安全を守り、平和に尽くすことを誓います。……城戸司令、私を再び受け入れてくださって感謝します」
 城戸さんは目を伏せて、私にかけた声は乾いていた。
「我々は君が職務を忠実に全うすることを期待している」
「はい、もちろんです」
 私は城戸さんの重たい空気に引きずられないよう努めて明るく声を上げ、そっと顔を見合わせる根付さんたちの様子に、むしろ軽薄な印象を与え損なったことを悔やんで苦笑してしまった。少しばかりわざとらしすぎたのかもしれない。
 だから、ほんとうは言うべきでないと、言わないようにしようと決めていたことを口にしていた。
「これからは兄に代わって私が防衛の使命を果たします」

 会議室を出ると、ちらほらと知った顔の混じった隊員たちが廊下で待っていた。私の辞令交付式はついでのことで、本命はこれからの会議だろう。
 私はどうぞ、と手で扉を示して、本配属となった職場へと足を向けた。
 そこへ声が追いかける。私のような取り繕ったものではない、本物の明るい声だ。
春井
 振り向けば、まるで昨日も会ってお喋りしたかのような寛いだ笑みを浮かべた嵐山くんが、携帯電話を掲げて軽くそれを振ってみせていた。私たちの久しぶりの再会であることを忘れてしまうような屈託のなさだった。
「おかえり!」
 その後ろを風間さんが一瞬だけこちらに視線を送った後に通り過ぎて、彼に比べると遥かにのっぽな東さんが手のひらをひらりと私に向けながら事情を知らない若い隊員たちに一言紹介してくれている。三輪くんは一番最初にさっさと会議室に入ってしまっていた。
 その光景が懐かしいと思えることに、私はただ胸がいっぱいだった。
「……ええ。ただいま、嵐山くん」
 また後でな、と言う嵐山くんの言葉の意味を知ったのは、警報が鳴る中で慌ただしく業務の引き継ぎを受けながらOJTをこなし、這う這うの体で初めての定時を迎えてからだった。
 メッセージアプリに付された数字の大きさに驚いて、携帯電話の画面に表示される懐かしい名前の並びをスクロールしていくうちに、また新しい通知が届く。それは過去に退会したグループチャットへの招待で、呼び出し人はいつも最適なタイミングで最大限の効果を引き出す彼だった。
「相変わらず私の予定を聞きもしないんだから……女心がわかってないわね、迅くん」
 私はこぼれる笑みを抑えて、先輩職員に退出の挨拶をした。待ち合わせのお店は昔と変わっていなかった。

 あの日から私服をできるだけ暗い色に揃えている。それは私なりの心の整理の付け方で、誰かに何かを伝えたいためではなかった。
 それでも、実の兄が近界民による大規模侵攻で亡くなった職員のひとりで、私がその跡を継ぐようにボーダー本部通信室へオペレーターとして復帰したことは周知の事実だった。
 任務で近界に渡ったことのある経歴を踏まえて施されていた記憶処理が本配属直前に解かれ、数年越しに触れた機器はマイナーチェンジされていたもののすぐに使いこなせるようになったことで同僚たちを殊のほか喜ばせた。私以外にもオペレーターを希望する若い新人が何人か入隊する予定で、急な欠員の出た職場の仕事分配をどうするかに頭を悩ませていた彼らは復職者を手放しで歓迎してくれた。
 ボーダーに所属した一度目と今回との違いを挙げてみれば、正式な職員となってフルタイムで働くことと、夜勤があること、それから責任の重みを強く意識するようになったことだろう。
 どちらも同じオペレーター職の括りには入るが、私がかつて担っていた役割は一部隊の情報支援で、対象は多いときでも十数人程度だ。リアルタイムで現場や本部から送られる情報を適切に加工して、必要なものを必要な量だけ各隊員に振り分ける。多すぎず少なすぎず、遅すぎず速すぎず差配するのが腕の見せどころで、私のモチベーションでもあった。
 それが今は、全隊員に発信する情報の精度を広範に渡って高めることが求められている。規模も違えば仕事内容もまるで違っていた。
「そんな感じで、これまでお気楽な大学生をやっていただけにちょっと大変ね」
 乾杯した烏龍茶に口をつけて、少しだけ愚痴をこぼす。まだお互いに成人していないこともあってか嵐山くんが当たり前の顔をしてドリンクバーから飲み物を取ってきてくれたが、国立大学のコンパで酒の味を覚えてきた身としては少しだけ気まずい思いがある。三門市内の大学生が品行方正なのか、ボーダーの風紀が厳しいのか。トリオン体になってしまえば関係ないのにと、未練たらしくメニュー表に目を走らせた。
「おっと、鉄板は遅くなるからやめといた方がいい」
 こんなところで迅くんが無駄にサイドエフェクトを発揮した。
「そうなのか、だったら追加のおかわりにちょうどいいな。俺はロースカツとステーキ定食にしよう。春井はどうする?」
「私はこのシーフードドリアにしようかな」
 嵐山くんが懐かしそうに歯を見せて笑った。
春井はいつもドリアだけだったな!」
「あれ子ども向けかってくらい少なくないか。デザートにぼんち揚げ食べる?」
 男子の食欲と私の小さな胃袋を比べられても困る。ぼんち揚げは丁重に断って、代わりに壁に貼ってあるポスターを指差した。
「期間限定のジェラートを頼むつもり。それにしても、ファミレスってなんだか久しぶりだわ」
 家族連れで混み合う店内には見覚えのある制服を着た学生たちも混じっていて、行儀悪く両手で頬杖をついて向かいに座る迅くんと嵐山くんを眺める。目の前にいるふたりが学ラン姿でないことの方が不思議な感じがした。きっともう彼らにとってはそれが当たり前の日常となっていて、私は些細な時間の流れをこれからも絶えず実感するのだろう。
「柿崎くんは残念ね。でも今度のランク戦に対してすごく気合が入ってるみたい」
「あいつは仲間思いの気のいいやつだからな。若い隊員のために闘志を燃やしているんだろう」
「うんうん、メガネくんたちもそう簡単に負けてやんないよ。なんせこのおれを勧誘してきたほどだからな」
「それは思い切ったことを考えたな!」
 ファミレスへ向かう前に、今は大事なランク戦に向けて隊内でミーティングを重ねたいのだとわざわざ柿崎くんから断りの連絡があった。
 兄へのお悔やみの言葉はすでに直接もらっていた。会いに来てくれたのが記憶処置の解除前だったのがとても彼らしいと思う。知っているはずだけどよく思い出せない、ぼんやりとした記憶のあるまま柿崎くんと兄との思い出話を少しだけして、少しだけ涙があふれた。
 高校を卒業して、大学生になってもまだ三門市に留まってボーダーを続けている隊員は珍しい。そうでなくとも私たちの代は全体の数が今ほどいなかった。私がかつてA級部隊のオペレーターであった事実と同様に、これから兄を知る者も少しずつ減っていくのだろう。それは寂しいことだけれど、だからこそボーダーに戻って良かったと心の底から思った。
 そうでなければ、私の記憶は寂しいと思うことすら許されなかったのだから。

 最近のボーダー事情や、なんとあの二宮さんがB級に降格していたことなどを嵐山くんの天然ボケと迅くんの冴え渡るツッコミを交えながら教えてもらっていると、私の携帯電話が震えた気がした。鞄の中に手を入れて、そして表示された名前に変な声が出る。それだけで同席するふたりには相手が誰かわかったのだろう、もう目が笑っていた。
 机の上に滑らせた携帯電話のスピーカーを震える手でオンにすれば、同い年とはとても思えない落ち着いた声が聞こえた。
ハル? 今日は行けなくてごめんなさい。まだお店にいるのかしら」
 んん、と喉の調子を整える。エビの匂いが口についている気がして、無性に歯磨きをしたくなった。
「みんなでご飯を食べてるところ。蓮さんはもう食べた?」
「まだよ。太刀川くんがまったく……」
「ふふふ、相変わらずなのね。太刀川先輩は学年がひとつ違うのに、蓮さんといつまでも仲良しなのが羨ましいわ」
「からかうのはやめて。……せっかくまたハルとお喋りできるようになったのに、話題が太刀川くんのことばかりではいやよ」
 私の顔が極限まで緩んでいるのがわかった。迅くんが勝手に写真を撮っているので、後で蓮さんに叱ってもらおう。そう思っていたら、迅くんが焦った顔で携帯電話を机の下に下ろした。これもまた便利なサイドエフェクトの使い方だ。
 迅くんたちは女の子同士の会話にほとんど口を挟まなかった。私がお皿の縁についたチーズの焦げ目をフォークでつつきながらあれこれと蓮さんに話しているうちに、嵐山くんのステーキ定食が届けられたかと思えばそれは巨大なハンバーガーを食べ終わった迅くんの前に置かれ、嵐山くんはいつの間にか私と同じシーフードドリアと白味魚のフライを注文していたようだった。いつ見ても彼らの食欲は私の想像を絶する。
「ボーダー勤務だと一緒にカフェランチできないのが残念ね。そういえば食堂のメニューが増えるらしいけど……あら」
「やだ、もしかして移動中?」
 バイクの走り去る音が電話の向こうから聞こえてきて、私は今さらのように焦りを覚えた。会話に夢中でまったく気づかなかったさっきまでの自分を殴り飛ばしたい。
「もう暗いのに危ないわ。電話なんてこれからいつでもできるのに」
「大丈夫よ、もうすぐ着くから」
 蓮さんの笑みを含んだ優しい声。レジ打ち作業に忙しい店員の雑な「らっしゃいませー」の声が二重に聞こえ、ちょっとだけ真顔になった後に私は思わず立ち上がってファミレスの入り口を凝視した。装飾として置かれた模造品の観葉植物に邪魔をされてなかなか来店した客の姿が見えない。もどかしいこの瞬間はボーダーを離れていた時間にも等しく感じられた。
「うそ、ほんとうに蓮さん……?」
 パチンといい音がして、見れば迅くんと嵐山くんが高く上げたお互いの手を打ち鳴らしていた。
「サプライズ成功!」
 店員の案内を断った蓮さんが近づいてきて、男の子たちみたいに片手を上げる。
「サプライズ成功?」
 少し見ない間にますます綺麗になった蓮さんの手におそるおそる触れて、ぎゅっと指を絡ませる。指先が冷えていて、でも生きている人間の体温だった。
「……成功」
 ほんとうはそのまま抱きつきたかったが、蓮さんに憧れてお淑やかな女性を目指していた私には恥ずかしくてできなかった。
ハル?」
 繋いだ手とは反対の腕を伸ばして、蓮さんの美しい指が私の染め直したばかりの黒い髪を梳く。
「……私、蓮さんに憧れていたんだわ」
 そんなことを誰もが知っていたが、三人は私の気持ちが落ち着くまで優しく待ってくれた。

水は渇きによって知り、愛は何によってか知らん・了
(Water, is taught by thirst・ディキンソンの詩より)