雲翳の薄闇に小さな明かりがふくらむ。浅野は窄めた口先から紫煙を吐き出して、濡れそぼつ実家の庭木を傘の下から眺めた。
 住宅街の片隅に緑深い雑木林が広がっている。
 生憎と爪の先ほども樹木に対して関心がなかったが、たった数年ばかり人の手から逃れただけの自然の思いがけない逞しさを賛美する心は持ち合わせていた。枝葉は日の光を求めて奔放に伸び盛り、苔むす蹲踞は久しぶりの潤いを浴びて濃やかだ。むせ返るほど匂い立つ土の豊穣な香りが癖の強いタールの人工的な臭気を打ち消していた。
 この光景を見た浅野の祖父はぶつぶつと文句を言ってうるさかろうが、それすらもう懐かしい。磨りガラスの薄く開いた縁側からおりんの澄んだ音色が聞こえた。
「二宮さん」
 浅野は物言わぬ遺灰となった祖父と向き合う父親の気が済むのを待つ間、戯れに若いボーダー隊員に声をかけた。不機嫌そうな顔が煙雨にけぶる視界の先で振り返る。
 浅野家の庭先には、傘を片手に煙草を楽しむ道楽息子の他にもうひとり、まるで葬式帰りのような黒い背広姿の男がいた。ジーパンの膝下を無様に濡らす浅野よりもよほどこの場に漂う感傷が似合っている。浅野は火のついた煙草を持ち上げて、心にもないことを彼に聞いた。
「きみも一本どうかい」
「……結構です」
「なんだ、遠慮するなよ。それとも流行りの嫌煙家気取りか?」
 吐き出した煙が湿った空気にまとわりつかれてずっしりと地面に垂れ落ちる。霧雨降り頻る中を傘も差さずに外へ警戒の目を向けていた二宮が、口を強く引き結んだまま浅野を見た。
 睨みつけられたといってもいい。両手をポケットに差し込んだまま眼光鋭く見られると、心に疾しいところのある浅野は首の竦む思いがしないでもなかった。浅野が深くため息をつくごとに美しく伸びたその背中がわずかに揺れる、それを後ろから密かに楽しんでいた。
「そう邪険にしてくれるな。爺さんも今頃になって自分の我儘を恥じてるはずさ、生前に随分と無茶を言っていたんだろう」
 浅野は傘を傾けて、実家の軒先からでは全容を拝むことすら難しい巨大な要塞へと目をやった。数年前まではそこになかったものが、今ではそれだけがこの地域の人間の営みを代表している。外観からだけでは生気すらとても感じることのできない、地球外技術とやらによって堅固に聳え立っている。
 浅野邸を含めたあたり一帯が立ち入り禁止区画に指定されたのは、科学技術の発展著しい今世紀に入ってから今さらのように起こった超常現象によるものだった。あの悪夢のような数日間を幸いなことに浅野の家族は揃って生き延びることができたが、もとから心臓の弱かった祖父は避難した先の病院であっという間に体調を崩して亡くなった。最期に残した言葉はあれだけ捻くれた祖父のものとは思えない単純なもので、人間の本性とやらが今際の際に表れるというのであれば酷く残念な思いがある。
「畳の上で死にたいって願望は、そう珍しいものじゃないだろ。きみたちも志願するにあたって遺書とやらを書かされたんじゃないか?」
 火口が赤く輝く間、葉を打つ雨の音だけが浅野に相槌を送ってくれた。
「それとも若いきみにはわからんことかな」
 そう言う浅野にも理解しがたい感覚だった。地元の名士として敬われても、祖父は人智を外れた存在に対しては何することもできないままにこの世を去った。残ったのは得体の知れない民間軍事組織への多額の寄付金を遺贈する旨と、生まれ育った家に帰りたいとの些細な願いだけだった。
 案外、ボーダーに対して冷めた気持ちを抱いているのは浅野ひとりで、父も祖父もかねてより彼らの水面下での活動を承知していたのかもしれない、と黙したまま庭から離れない二宮を見て浅野はふと思った。我が身を賭してまで守るべき何かがまだこの街に残っているのか、浅野には見当もつかなかった。
 根もとまで短くなった吸い殻を地面に捨てて丹念に火種を踏み締めていると、二宮が物言いたげな顔つきになっていた。無愛想な男だが、これでいてわかりやすいのかもしれない。
「近頃は肩身が狭いんだ。実家の庭先でくらい好きにやらせてくれ」
「今はボーダーの所有地です」
「ほお、適用される法律の妥当性について論じ合うか? 親父はまだご先祖さまに用がおありのようだから、時間はたっぷりとあるぞ。きみたちにとっては残念なことにな」
 浅野は上着のポケットを片手でまさぐって、箱から押し出した煙草を一本口に咥えた。そして火をつけようと全身あちこちに手をやり、しまいに情けない顔で二宮へ歩み寄った。
「きみのそれ、特別仕様の体なんだろう。指先から炎は出せないのかい」
 すぐに返事はなく、それでも一向に構わない様子で頭上に傘を差し向けられた二宮がため息混じりに答えた。前髪から垂れる水滴が浅野の肩を濡らした。
「……映画の見過ぎだ」
「それこそ凡百な答えだな」
 また睨まれて、浅野は喉を鳴らして笑った。
「結構。……思い出した、ここに入れていたんだ」
 浅野は傘の柄を二宮に押しつけて、空いた手の方に近い上着の内ポケットからライターを取り出した。ついでに目の前の胸を風除けに借りて煙草を吸いつける。ようやく味わうことのできた一服は肺に沁み入る心地もひとしおだった。
 せめてもの気遣いで紫煙を風下に向かって吐き出していると、無言のうちに傘持ちを引き受けさせられた二宮が顔をしかめて右耳に手を当てた。短い言葉で何かを独りごつ。
 仲間内で連絡を取り合っている、ということは浅野が短い間ながらに観察して得た確信だった。ボーダー管轄区画への特別立ち入り許可の下りた浅野親子が唐沢から直接紹介された防衛隊員はリーダー格の二宮のみだったが、同じ隊の人間が何人か付近で警戒任務に当たっていると聞く。背広が仕事着の護衛となると、ますますハリウッド映画のようだった。
 ボーダーにとっては迷惑この上ないだろうが、浅野は祖父の供養のためというよりも彼らへの当てつけをこめて父親に付き合って里帰りしていたが、今では愉快な気持ちを抱いている。浅野が何かをする度に素直な反応を示す若い男の様子がよい暇潰しになっていた。
 雨の止む気配はまだない。大の男ふたりがひとつの傘に収まるには少しばかり心もとないと今さら気づいた二宮が傘を浅野の方に傾けて、浅野は笑いそうになる口を煙草のフィルターで埋めた。
「きみのそれは雨に濡れて寒くないのか。見かけは人間そのものだが」
「……あなたに答えてやる義理はない」
「秘匿情報というやつか? しかし似せすぎるのも不便だな。目に水が入って邪魔かろう」
「ボーダーのことを聞きたいなら本部を通せ。探りたいなら見えないところで……おい、やめろ」
 火のついたライターを体に近づけても、二宮に逃げる素振りはない。ただひたすら不愉快そうだった。浅野は二宮の肩に肘を乗せて、その耳もとでぱちんとふたを鳴らして火を消した。他人の嫌悪に歪んだ顔を肴にのむ煙草は筆舌に尽くしがたい。
 傘の柄が持ち替えられる。二宮の指がさまようように動いて、浅野の唇に触れた、と感じる前に吸いかけの煙草を引き抜かれた。浅野は突然訪れた口寂しさに舌先でそこにあった名残りを舐めとった。
「おっと、もしかして禁煙中だったか? それなら悪いことしたな」
「さっきからぬけぬけとくだらんことばかり……黙って早く用事を終わらせろ。いつまでもこんなことに付き合ってられん」
「はは、真面目だなあ」
 さっと風が吹いて、反射的に二宮が手首を返して火口を庇った。手のひらが高温にさらされたようにも見えたが、彼が気にする様子はない。
「あんたたちは危機感がなさすぎる。危険地帯を生身でうろつき、自殺願望でもあるのか」
「親父のことを言ってるなら確かにそうだな、可能性はありえる。あのひとはあの日、この場所にいなかったから」
 二宮の指の間でじりじりと煙草の先が短くなる。崩れた灰の固まりが音もなく地面に落ちた。
 途切れることのない糸雨が庭木の向こうに見える住宅街の様子を都合よく滲ませて、まるで何も変わりないかのようにそこにある。雨天の日に道行く人影はもとより少なく、それがゼロになったところで大して違いはない。
「その煙草は爺さんの形見みたいなものでね」
 二宮の眉がぴくりと動いて、浅野は悪戯っぽく舌を出した。
「中学のときに覚えさせられたんだ」
「似た者一家か、くだらん」
 長い指がまた迷子のように行き場をなくし、わずかな苦悶の末に浅野の唇に今度こそはっきりと触れた。浅野は唇だけで煙草を受け取って、火口を赤く点らせた。
「きみものむかい?」
「弔いならひとりでやってろ」
「いいね、それうちの家訓と一緒だ」
 紫煙を吐き出しながら適当なことを言った浅野はしかし、挟んだ指先から煙草をうっかり取り落としてしまった。思わず後ろに引いた体を押さつけられる。雨の音が意識から遠ざかって、それにも関わらず湿気を帯びた匂いが近づいた。
 まつ毛に溜まった雫が浅野の頬に伝い落ちる。
 吐息を唇に感じた気がした。
 相手の体温を確かめる間もなかった。熱いのか冷たいのか、少なくとも煙草の香りはしなかった。
 浅野は腕を両脇にだらりと垂らしたまま言った。
「手が早えな、おい」
「……頼むから、こんなときくらい黙ってろ」
 顔が離れて、傾いた傘も何事もなかったかのように持ち直された。二宮が不機嫌そうに舌打ちした。
 他人の唇を無断で奪っておいてなお彼は不遜だった。
「まずい」
「うまいの間違いだろ、失敬なやつだな」
「こんな苦いものを平気で吸ってるのか」
 あんな顔をして、と言わなくてもいいことをぽろりとこぼし、性格の悪い浅野を喜ばせた。二宮の顔がますます歪む。
「さてはきみ、煙草童貞だな?」
「あんたは下品なことしか言えないのか……」
 そこでふと言葉が途切れた。
 傘が風に拾われてふわりと浮き、浅野の濡れた膝下の感覚も、浮いたように消えてなくなる。
 表情の改まった二宮が数歩後退り、半身をよじって右耳に手を当てた。
 何を言われずとも、浅野にも正しくそれが見えていた。雨粒に直接顔を打ち付けられ、自覚するまでもなくあの日のことがよみがえる。
「ああ……まったく嫌になるな」
 陰鬱とした雲翳の空が裂ける。一筋の薄闇を開いた先にあるのはなお深い暗闇だった。
「おい……、勝手に動くな」
 地面に転がる傘を拾い上げようと屈み込んで、浅野は鋭く咎められた。
 二宮はじっと空を睨んでいる。そこから白い異形が産み落とされるが、即座に体が半分に分かたれた。何かが住宅街の上を躍動していた。
 浅野は制止を無視して傘を拾い上げた。そして雨風を避けるように俯いて、取り出した新しい煙草に火をつける。冷えた指先にぬくもりが点った。
 家の中から何事かを問う父の声がした。浅野は安心させようと顔を上げて、しかし何の言葉も思い浮かばなかった。
 まっすぐに伸びた背中に視線が吸い寄せられる。
 浅野が深く息を吐き出しても、喪服と見紛う黒い背広がもう揺れることはない。傍らに浮遊する奇妙な物体を従えて、二宮は楽団の指揮者のようにその場を支配していた。旋律が天に向かって張り詰められ、ときに気を失いそうになるほどゆるめられる。
 背後に庇われる浅野もまた、彼の手のうちにある。彼の思うままに晴雨の間隙を望むことができる。
 浅野は思わず目を閉じて、舌と鼻で煙草の味わいを存分に楽しんだ。あの日もそうやって、人生最期の瞬間を噛み締めていたことを覚えている。雨に冷えたこの体は、そこから惰性のように続く残り香にしか過ぎない。
 縁側の磨りガラスが開き、浅野の父親が呆然と空を見上げた。
 雨と煙草と線香の香りが混じり合い、白く爆ぜる光の下で小さな明かりがふくらむ。浅野は幸運にもこれまで戦闘の被害を免れ得た実家の庭木を傘の下から眺めた。
「煙草が……最後の一本ともなれば、お前はともにする気になるか? それとも爺さんのように、勝手に逝ってしまうか」
 「まずい」と無遠慮に言い放った男の手から非現実的な光景が生み出される。祖父がボーダーに託した願いは何だっただろうかと考えて、浅野は煙に思考を鈍らせながらぬかるんだ土の上にぼんやりと立ち尽くした。

 シガレットケースから煙草が一本抜き取られる。その手もとで高く鳴った音はよく知る安物のライターとは火を灯す前からものが違い、浅野は半笑いのまま咥えた煙草の先を揺らした。
「お前、形から入るタイプかよ。期待を裏切らねえなあ」
 所作はまだもの慣れず、しかめられた顔つきはとてもこのご時世に好きこのんで喫煙家の仲間入りを果たした者のする態度ではない。
 断りもなく喫茶店の向かいの席に座った男は、大して吸いもしないうちに細く煙の立ち上る煙草を灰皿の隅に立てかけた。
「……あんたを探していた」
 ウェイターにコーヒーだけ注文した二宮がぼそりとつぶやいて目を伏せた。今日は背広姿ではなく柔らかいタートルネックのセーターを着ていたが、だからといって初対面で得た印象はそう簡単には崩れず、浅野は読みかけの文庫本を閉じて机の下で膝を組み替えた。
「町内放送でもかけてくれれば俺の方から出向いてやったのによ」
「ふざけるな。あんたが普段から三門市にいないことくらい知っている」
 隣の席から流れる副流煙に二宮が顔を背けた。それに面白がった浅野が便乗して正面から吹きつける。
「ご存じの通りボーダーに実家を接収されたからな。ここに居座る意味もない」
「その前から勤務地は市外だったはずだ」
 浅野は珍しく純粋に笑みをこぼした。
「本気で調べたのかよ。やるなあ」
 二宮の前にコーヒーがサーブされて、吸い殻で山盛りの灰皿が取り替えられる。贅沢の極みのような吸い方をした二宮のものも一緒に片付けられた。
「煙草の味が忘れられなかったか?」
 浅野は唇を舐めてみせ、歪められた顔をたっぷりと楽しんだ後にさっそく新しく置かれた白い灰皿を汚した。
「悪かったよ。きみこそまだ未成年だったんだろ」
 揉み消された煙草の残骸がゆっくりと傾く。
「……知ってたのか」
「そう。唐沢さんとあれから親しくなってな、きみのネタなら簡単に売ってくれたよ」
 それと引き換えにというほどではないが、浅野が出入りする経済団体の個人的な関係先をいくつか紹介してやった。それを生かすも殺すも彼の腕次第だが、浅野が自ら口利きしただけの利益をもたらしてくれると踏んでいる。それだけビジネスにおいては信頼の置けそうな男だった。
 学生時代にスポーツをやっていたと言う割りに、彼は煙草の吸い方もうまかった。
「それは唐沢さんから教えてもらったのか? それとももっと品の良いやつを捕まえたか」
浅野さん」
 二宮から初めて名前を呼ばれて、浅野は笑みを深めた。
 シガレットケースのふたが再び丁寧に開けられて、一番端のものが抜き取られる。二宮はやはり苦渋の決断をした後のように歪んだ顔のまま、まるで自分の意志ではないと示したそうに浅野へ煙草を差し出した。
 これを買うためだけに二十回目の誕生日を待ったのだろうかと考えると、そのいじらしさに浅野の喉の奥がひと息ついた後のように快く乾いた。浅野は渡された煙草を指先でくるりと回して口に咥えかけ、しかし急に肘をついて身を乗り出すと二宮の唇にそのフィルターの先を触れさせた。淀んだ空気に眼差しが混じり合り、ふるえる唇が薄く開けられる。
「ほら、さっきやったんだから吸いつけ方くらいわかるだろ?」
 特殊な技術を用いずとも人間は簡単に火を灯せる。浅野は自前の安っぽい音の余韻を聞きながら、揺らめく穂先の向こうでまだためらいに満ちた若い男の顔を眺めた。
「それを一本吸い終わったら、お前が俺を探しにきた理由ってやつを聞いてやろうじゃないか」
 浅野は笑って同じように自分の煙草に新しく火をつけると、ふと関心を失ったように手もとの本を開き、そこに目を落とした。
 店内の客が入れ替わり、その度に新鮮な空気が外から吹き流れてはまた濁る。
 しばらくして、ほのかに甘い香りがテーブルの上にほどけた。

星をまもる犬たち・了