「あれ、渋沢さん?」
 熊谷の驚きにあふれた顔を見て、透子は激しい違和感に襲われた。
 めまいがする。頭が重い。この週末から寝る間を惜しんで取りかかっていた研究課題に気を取られながらも、迷路のような道を無意識のうちに正しい方向へ選んでいた透子の小さな足が、急に行き止まりにぶつかったように止まった。
 クラスメイトの熊谷友子がすぐそこにいる。
「……え?」
 透子は自らの掠れた声を他人事のように聞いていた。
 熊谷と目が合ったのは偶然だと思った。笑いかけられたのは気のせいだと思った。透子と彼女は幼なじみの関係だが、今この場でそんなことが起きるのはありえない、あってはならないはずだとぼんやりした頭で考えていた。
 なぜならここは他でもない、女子高生の渋沢透子には縁もゆかりもないボーダー本部基地であるのだから。
渋沢さん、ボーダー入ってたの? もしかして訓練生? 教えてくれたらよかったのに」
 小学生の頃から同じ学区で育った同級生が、屈託のない笑顔を広げて近づいてくる。それはさながら武道で間合いを詰めるように、スポーツバッグを肩から提げた大きな影が透子の頭のてっぺんを通り過ぎる。小柄な透子にとって背の高い彼女の歩みは、眠気まなこの巨人が気まぐれに打つ、地響きするほどの寝返りのようなものだった。
 体を庇うように胸の前で組んでいた指の関節が痙攣する。ふるえが指先を白くする。怯えはそこだけにとどまらず、すぐさま全身に伝播した。
 透子はなけなしの理性を総動員して強張った手を何とかほどき、額に長くかかる前髪を押さえつけた。そして中指が、そのつけ根が、冷たく固いフレームにぶつかる。
 眼鏡が鼻先にずれる。上目遣いに見つめていた熊谷の姿が歪む。反応の鈍い透子を心配する熊谷の声が遠く引き延ばされる。
 周囲に感じる気配全てが透子を不審な眼差しで見ているように感じる。
 眼鏡をかけた渋沢透子を見ている。小柄で、膝下丈のセーラー服を着た、いつも怯えた顔の渋沢透子を見張っている。
 こんなはずではなかったのに。たとえ徹夜で疲れきった顔をしていても、今の透子は誰からもそうとは認識されないはずだったのに。
渋沢さん?」
 渋沢と呼ぶその声が、透子を意図せず追い詰める。
「……こ」
「こ?」
 丸くすぼめた透子の口を真似して、膝を屈めた熊谷が同じ音を繰り返しながら俯いた顔を覗き込む。親しみを覚えた相手にだけ向けるその優しさに、胸中を恐怖と羞恥が渦巻く透子に気づける余裕はない。
「こ、来ないでぇ……!」
 透子はか細い悲鳴を上げてその場に蹲った。今度こそ、本物の視線が一斉に透子に降りかかった。
 唖然とした熊谷が透子を見下ろした。

「ど、どうしたの? 誰かに何か変なことされた?」
 熊谷が焦って声をかけるも、幼なじみの女の子は眼鏡ごと顔を両手で覆ったまま、首を横に振るばかりだ。熊谷の心に動揺が生じた。
 熊谷友子と渋沢透子は幼なじみの関係にある。ものごころつく前から共にいて、気づけば自分の後ろに引っ付いて隠れる彼女を熊谷は愛おしく思っていた。怯えた顔を熊谷の背中に押さえつけ、涙と体温がじんわりと浸透する、その濡れた感触をいつまでも覚えている。ぶ厚い眼鏡を外してその下の素顔を見られるのも、長い前髪をかき分けて白い額に触れられるのも、長く熊谷だけが持つ特権だった。
 それはお互いに成長して交友関係の重ならなくなった今も同じで、熊谷に対しては怯えを見せない透子に周囲へのひそかな優越感すら味わっていた。
 戦友の志岐小夜子には死んでも白状することのできない秘密でもある。弱々しい存在を守ること、自分だけが頼りだと縋りつかれること、そこに快感を覚えているとは透子と似た悩みを持つ志岐にはどうあっても気づかれたくはない。
 渋沢透子は大切な幼なじみで、庇護すべき対象で、いつまでも自分の後ろに隠れていてほしい存在だ。
 それがなぜ、全身で拒絶反応を示される事態に陥っているのだろうか。熊谷は「渋沢さん」と呼びかけるしかない自身へのもどかしさに苛立った。その線引きは周囲が求めたもので、お互いが望んだことではない、そのはずだ。
 ボーダーの施設内とはいえ、往来での騒ぎに人だかりができ始めていた。熊谷の鋭い睨みにより多少は追い払えているが、このまま知り合いの正隊員に見つかるのも時間の問題だ。そしてそれが事態を好転させる契機になるとも限らない。
 熊谷は具体的な顔をいくつか思い浮かべながら、透子の隣にそっと屈み込んだ。
 長い髪と手に隠されて、彼女が泣いているのかどうかもわからない。悲鳴の原因が熊谷にあるのかもわからない。
 しかし熊谷は、この場にひとり透子を残して離れるつもりはさらさらなかった。
渋沢さん……、……透子ちゃん」
 透子の肩がかすかに揺れた。その手応えを頼りに、熊谷は少しの勇気を上乗せする。
「そうやってまた、前みたいに呼んでもいいかな」
 たっぷりと間があった。その間に、透子の腕時計がアラームを鳴らした。長い音と短い音の組み合わせがしばらく続き、唐突とも思えるタイミングでふつりと切れる。
 やがて透子は顔をあげた。頬は青ざめ、眼鏡は荒い息によって曇っている。それでもレンズ越しに合った眼差しは昔のままの感情が絡んでいた。
「……うん」と透子がつぶやいて、再び間が空く。今度はそれほど待つ必要はなかった。「友子ちゃん」
 熊谷が差し出した手を、透子はつかんで立ち上がった。指先は緊張で冷えているが、手のひらは昔のままにあたたかい。
 熊谷は自分の女性としては大きすぎる手で透子の小さな手を覆った。弧月を握るのにちょうど良いサイズが今もまた大いに役立っている。熊谷は怯えでふるえる無垢な爪をそっと手のなかで撫でた。
「どうする? 落ち着いて話せるならラウンジでも行こっか」
「わ、わたし……これから約束があって」
「そうなんだ。誰と待ち合わせしてるの? 案内いる?」
 熊谷は単純に、訓練生用のフロアから迷子になったのだと思っていた。あるいは透子の性格を考慮するとオペレーター室から呼び出しを受けているのかもしれない。どちらにしろ、熊谷は今目の前で起こっていることに対して深くは考えない。ありのままを受け入れ、だから渋沢透子とボーダー組織のちぐはぐな組み合わせに頭を悩ませない。
 熊谷と透子の未来には、ボーダーという共通の繋がりで結ばれている。それが心を深く満たしていた。
「大丈夫……」透子は腕時計にちらりと視線を落とした。「案内は大丈夫。鬼怒田さんがこれから迎えにきてくれるみたいだから」
 透子の口から突然飛び出してきた所属する組織の大物の名前に、ようやく捕まえた安堵で頬をゆるめていた熊谷の顔が奇妙に固まった。

 冬島の後ろで束ねた髪が堪えた笑いによって上下に揺れている。
「それで打ち合わせに遅れたのか」
 揶揄いを含んだ声に対して、椅子の背もたれにぐったりと体を預ける透子には返す言葉もなかった。
 オリーブグリーンに塗られた指の爪がクッションを力なく引っかいている。
「本部で換装し忘れるなんて、こんなひどいケアレスミスはカンペを持たずに城戸司令のところへ殴り込みに行ったとき以来ですよ……」
 組織のトップの名前を口にするその唇には紅が引かれてある。
「そう落ち込むな、室長を散歩させた功績はでかいぞ」
「あれ提案したの誰ですか。本人はまったく必要性を感じてませんでしたよ。私としては、いつもお忙しい室長に勤務環境について相談できたから良かったですけど」
 透子の横でキーボードを叩いていた冬島の手が止まる。
「なんだ、悩みでもあったのか?」
「冬島さんにも言えないことはいろいろと。仕事とはいえいつもトリオン体でいれば、それなりの不都合もありますから。……例えば今日みたいに」
 頭が揺れ動くたびにふわふわと巻かれた髪が赤く色づいた透子の頬にかかっている。
 ぶ厚い眼鏡をかけなくとも、目に異物を入れなくとも、今の透子の視界は良好だ。ハイヒールのパンプスを履いた足に痛みはなく、すっきりと引かれたアイラインが生来の気の弱さを覆い隠している。
 心の砦は頑丈で、どんな刃も通さない。
 口紅にしろ、マニキュアにしろ、それらすべては紛いものだ。トリガーホルダーの代わりに透子が手に入れたのは何の変哲もない化粧であり、仮想であり、現実に再現されたごく少量の追加されたデータにしか過ぎない。
 その美しく装われた姿を見て、常に誰かの背中に隠れているような大人しい渋沢透子を連想する者はいない。いたずら好きな男の子たちから、活発な友人によっていつも庇われていた小さな透子ちゃんはいない。
 ここにいるのは経歴不明の謎めいたエンジニア「透子さん」だ。
「年齢詐称じゃん。友だちを騙してるみたいで気まずくない?」
 背中越しに雑談を聞いていた寺島が、椅子のキャスターを回して透子たちのほうを見て、つくづく見て、もう一度見てから同じ言葉を繰り返した。
「年齢詐称じゃん」
 つなぎに無精髭の生やした冬島が、女性としての魅力を充分に備えた透子の頭をぽんぽんと叩いて慰めている。
「それ、女子高生だけどいいの」
「ハハッ、何言ってんだ寺島。ここにそのジョ……なんていないだろ」
「いや、いるけど」
「いませんよ、女子高生なんて」
 冬島によって乱れた明るい色の髪の毛を整えながら、透子が唇を突き出して否定した。冬島が引き出しのなかをかき回し、唯一見つけられた徹夜用のガムを犬のおやつのように与えようとしてあっさり首を振られている。
 寺島は無表情の顔つきで自分の端末に向き直って監視モニターを立ち上げ、小一時間前に激しく揺れ動いた数値が平常の値に戻り、今は何の反応も示していないことを確認する。
 生理的パラメータに異常はない。
「こいつ、本気だ。正気じゃない」
「ちょっと、業務外での私的利用はやめてください。告げ口しますよ」
「これで救助が間に合ったんだから文句言わないの」
「そりゃそうですけど……」
 まだ唇を尖らせながらも、透子の声には明るさが戻っている。
 天井では色とりどりのケーブルが絡み合い、壁一面を大型機材が所狭しと並んでいる。そのひとつひとつが何のために使われているのか、透子は把握していない。同僚の研究テーマを説明されても理解できないことがある。飛び交う専門用語にメモの追いつかない日は多い。
 それでもいつからか、透子のほっと息をつける場所はこの開発室のなかにあった。島の異なる寺島とは背中合わせに、たまに戦闘員の冬島が半袖一枚で隣の席を使っている。そこに他の部署のスタッフが端末を借りに来ることもあれば、ベテランの隊員が寺島へ愚痴を聞かせに居座ることもある。
 透子が彼らを恐れることはない。その必要はない。
「さっきは透子ちゃんの到着が遅くて焦ったよ」
「私も冬島さんが気絶する前に合流できて良かったです」
 軽口を叩いている間に透子の排熱で唸る端末が予定していた動作の全てを正常に終了させたことを知らせ、すぐそばの検査室のランプから明かりが消えた。
 透子は笑顔を作って被験者を出迎えるために立ち上がった。白衣の裾をさばき、パンプスの踵を高く鳴らす。
 トリオン体に白衣は不要だが、それが透子の戦闘服だった。非戦闘職であったとしても、例えば彼女たちのようにそれが体を守るすべだった。
 検査室のドアが横にすべる。人影がなかから進み出る。その年頃にだけ顕在化する、大人と子どもの狭間に立ち、アンバランスでありながら見本のように美しい女性隊員が姿を現した。
透子さん」
 那須玲だ。同じ女性であってもため息をついて見惚れてしまうほどの彼女は透子と同様に常にトリオン体を維持している。透子よりも切実に、トリオン体を求めている。
 彼女の前に立つときの羞恥心は、生身の体が衆人環視にさらされるのとはまた別の居た堪れなさがある。
「お疲れさま。少し休憩してから検査結果について話しましょうか。那須さんは紅茶でいいかしら?」
「ありがとうございます、透子さん。でもそんなに疲れてないですよ」
「残念、数字は嘘をつかないのよ。男ばっかりのこの空間じゃあ息が詰まるでしょ。あっちで一緒にお茶しましょう」
 透子は常にそうであるように、徹底して「透子さん」を演じながら那須に向かってきれいに片目をつむってみせた。
 冬島が那須のために大げさに道を譲り、寺島がちらりと透子を見てから無言のまま自身の作業に戻った。

 職員用の休憩スペースでテーブルに肘をつき、透子はコーヒーカップにふうっと息を吹きかけた。トリオン体で火傷をすることはまずないが、これが透子のいつもの癖だった。
 その向かいで那須玲がきれいな仕種でティーカップを傾けている。ほっそりとした首を優美に伸ばし、なだらかな鎖骨のラインが特徴的な隊服によって露わになっている。那須隊の隊服は男性に人気のデザインと聞くが、それも納得の見栄えである。これがあの対人恐怖症としてもっぱら有名な女性隊員が手がけたとは少しも思えない。
 はじめは研究対象としての眼差しで那須の体調変化を観察していたが、気づけば彼女の所作に引きこまれて透子はうっとりと眺めていた。
 その視線の先で、紅茶に濡れた唇が弧を描く。そこに紅は引かれてない。同じトリオン体であっても那須のそれは本物だ。
 紛いものにはない美しさがある。
透子さん?」
 那須が目を眇めて笑うように透子を見た。
 透子と那須は実年齢でいえば同い年だ。「透子さん」としてであれば透子は彼女に年上ぶってさえいる。
 でもそれは、しばしば失敗に終わっている。
透子さんこそ、仕事に根を詰めすぎていませんか?」
「私は大丈夫よ」
「でも今だってぼうっとされて……」
 透子はまともに那須と目が合って、あわてて顔を伏せた。熱いコーヒーをひと口含んで、トリオン体であることに心から感謝する。
 喉を高い温度が通り抜ける。
「ちょっとね、冬島さんとの共同研究が佳境を迎えているから、それで少し頑張ってるところ。でも大丈夫、これが終われば休みを入れるから」
「それはそれで残念ですね。透子さん、日中は離席されていることが多いから、今より会えなくなるのはつまらないです」
 透子は那須の鋭い指摘にほほ笑みを保つのも難しくなっていた。
 日中は学校がある。防衛任務やランク戦の予定が当然の権利として組まれる戦闘員とは違って、開発員は学業を優先される。平日の放課後や土日のすべてを研究に当てるのにも無理があった。勉学に差し障りがあるからだ。昼は高等数学の基礎を解き、夜は応用を扱っている、そのアンバランスさが透子の身を捩らせる。
「冗談です。わがまま言ってごめんなさい」
 那須は時折り、何もかも見透かすように透子を揶揄うことがある。揶揄いで済んでいるのか、真実の一端をつかんでいるのか、混乱しそうになることさえある。
「那須さんは……」
「はい?」
 完全無欠の美少女が透子だけに笑いかけている。信頼し、甘えている。かつての幼い透子が熊谷に対して無邪気に体を寄せていたように。
 透子はあえてそこから視線を逸らし、椅子から立ち上がった。膝にかかる白衣の裾が透子の今の立ち位置を思い出させてくれる。
 開発室の「透子さん」はまだ健在だ。まだ平気で素顔を晒していられる。誰かの視線に怯えることはない。
「営業部から差し入れのお菓子が余っていたのを思い出したの。那須さんは甘いもの大丈夫でしょう」
 透子は簡易キッチンの吊り戸棚を背伸びして開き、そこに指先を突っ込んだ。スチールの硬い表面がマニキュアを塗った爪にぶつかった。
 明日はチョコレートブラウンにしようと思いついて、透子は引き寄せたクッキー缶を抱えて振り返り、ごく近くで他人の息遣いを聞く。
 純粋な桜色の爪がシンクの縁にあたった。
 高いヒールによってようやく女性の平均身長と同じ高さになった透子の肩に、やわらかな髪が流れ落ちる。
 機能的な隊服に包まれた体が透子の白衣に押しつけられる。ふたりの間を甘い香りをまとうクッキー缶だけが邪魔をする。
「……透子さん」
 耳にかかる吐息に、透子は生理的パラメータの急激な高まりを感じた。
 見えない針が振り切れる。心拍数の増加、血圧の上昇、呼吸の乱れ。それらによってもたらされるめまい。頭痛。
 人間の愚かな脳機能によるトリオン体の誤作動。
透子さんは、くまちゃんといつから仲良くなっていたのですか……?」
 透子は頭の片隅で、寺島の監視モニターが異常な数値を検知しないだろうかと考えた。
 腕時計はずっと沈黙したままだった。

花冷えの踵・了