「春休みに会えるか」
遠い距離を隔てて聞く声はいつもと違って聞こえる。レポートと試験に追われる日々を騒々しく乗り越え、今度はサークルと飲み会で曜日感覚を失いつつあったあたたかい春の昼さがりに、遅い目覚めでぼんやりとした寝ぼけまなこのまま
千種は親友からの電話を受けた。
「休みっていつまでだっけ……」
「来週で三月が終わる」
鈍い反応にも構わず、続けて一方的に日時と落ち合う場所が告げられる。駆け足で過ぎ去る春休みを涙をのんで惜しんでいた
千種は、重いまぶたを上下させ、それから急いで待ったをかけた。
聞き慣れた駅名が聞こえたからだ。
「三門に戻れって?」
「俺がそっちに行く暇はない」
「多忙な親友の予定も少しは気にしろよ」
居丈高な命令口調は、シャンパンを片手にふんぞりかえっている様子が目に浮かぶようだ。彼の好みはシャンパンではなくジンジャーエールで、もちろん、ふんぞりかえってなどいないだろうが。
千種はベッドに転がったままカレンダーを確認し、「その日はバイトがないから日帰りなら」と一旦は安請け合いをしておきながら、あっと声をもらした。
「悪い、無理だ」
「なぜ」
「遊ぶ約束がある」
「俺より優先するほどか」
「仕方ないだろ、お前より先に誘われたんだから」
間を置かず「相手は誰だ」と重ねて問う言葉に揺らぎはなく、寝起きの頭では釈明よりも面倒がまさる。二宮、と
千種は通話口に向かってよくよく言い聞かせるようにして言った。
「いいか、おれたち別の大学に進学してもうすぐ一年経つ。こっちには二宮の知らない友だちだっているんだ。誰かと聞かれたってわからないと意味ないだろ」
「お前の声でわかる」
「いやいや、そんな」
「俺の知ってる相手だな」
回線を沈黙が満たした。図星だ。
「おい」
「……今、お前にドン引きするのに忙しいからちょっと待ってろ」
「そんなものあとにしろ。それで、誰だ」
「誰っていってもなあ」
寝返りをうちながら答えたくない気持ちとしばらく葛藤した末に、
千種はしぶしぶ打ち明けた。
「高三のクラスメイト。街で偶然会ったから話して……まあ、盛り上がって。今度遊ぶことになった」
「クラス委員の女子か」
「参考までに聞きたいんだけど、今のでどうやったらそこまでわかんの?」
「一年前、卒業式のあとでそいつに告白された」
「うわ」
うわあ。街で偶然会ったときの彼女の反応や、髪をいじりながら周囲を気にする様子を思い起こし、
千種はほとんど驚嘆する思いで天井を見上げながらうわあとつぶやいた。この感覚は高校時代に戻ったようで懐かしささえあった。
「春休み、会えるな?」
「キャンセルの連絡しとく」
用件が終わると余韻もなく切れた携帯電話のブラックアウトした画面をしばらく眺め、
千種は急遽入った予定への楽しみが、消えたデートよりも上回っている事実をしみじみと噛みしめさせられた。それは立入禁止区域に近い深夜の公園で、ブランコに揺られながら宇宙の深遠についてとりとめもなく語り合ったあの日の感覚に近い。
高校を卒業しても続く関係を当然のように信じている友人を思って、ふと笑ってしまった。
気分は最悪だった。
春休みが終わって混み合う大学図書館前の、そこだけ遠慮するように空いている二人がけベンチの端に
千種は片膝を預けた。先に座っていた女子大生が顔をあげ、軽く目を見張る。
「
千種くん。どうしてここに?」
「おれも大学生なんだけど」
「うちの学生じゃないでしょ」
千種は肩をすくめた。
「細かいこと気にするなよ、加古。星輪のお嬢さま学校じゃないんだから」
「ボーダーと提携してるから管理が厳しいの。でもいいわ、あなたと私の仲ってことで見逃してあげる」
通りがかりに入学したばかりの新一年生たちが、長い髪をかきあげる加古にそれとなく目をとどめ、そのうちの何人かは見とれて交通渋滞を起こしていた。ブレザーの制服姿でない高校時代の知り合いが珍しく、
千種もしげしげと彼女の全身を眺めた。
「前からそうだったけど、卒業してますます美人になったな」
「あら、私を口説きに来てくれたのかしら。二宮くんに悪いわね」
「おれもその話がしたかった」
早速の名前に便乗して
千種がとなりに座ると、加古は眉を上げてから足を組み替えた。
「本人に内緒で二宮くんの調査でもしてるの? 親友のあなたに教えられそうなことは何もないし、他の同期にあたっても同じ答えが返ってきそうね」
「あいつ、おれ以外に友だちがいるのか?」
「あなた以外に恋人がいるかと聞かれたら、いいえと答えてあげられるんだけど」
「こっちは真面目に相談してるんだ」
「残念ね、私もいつだって大真面目なのに」
しれっとした加古の昔から変わらない態度が懐かしく、
千種は遅々として進まない会話にもかかわらず、思わず顔がほころんだ。
自分を曲げることが大嫌いな二宮に、唯一最後まで食らいついていったのがいつも加古だった。むしろふたりが衝突すると彼らを容易に引き剥がせる者は少なく、真剣な討論がときにはねじれて低次元な言い争いに陥ることもしばしばだった。見た目はお似合いでも相性最悪だと散々言われていたが、関心がなければ互いに見向きもしないところはよく似ている。
「あれだけ馬が合うのにな。お前らがいまだに仲良くなれてないのも惜しいよ」
「あら、
千種くんは男女の友情が成立すると思ってるタイプ?」
「二宮と友情が成立するやつって?」
加古は唇に指をあてて考えるふりをした。
「あなたくらいね」
「ほらな」
がっくりと項垂れた。高校時代、二宮に肩入れするとはじめから見通されて彼らの喧嘩の仲裁に呼ばれることはなかったが、不機嫌な二宮から愚痴を聞かされる損な役目はいつも
千種に回ってきた。クラスが違っても、放課後に気になる相手と過ごしていてもだ。夕暮れのひと気の少ない教室で、それとない雰囲気になったところを眉間にしわを寄せた二宮が乱入してきた経験は数知れない。
「この際だからひと言いいかしら」
「嫌な予感がする」
「あなたのこと好きだった女の子を何人か知ってるんだけど」
「過去形で語られる内容に希望ってあるのか?」
脈のあるうちに知りたかった内情だ。そうでなければタイムカプセルと一緒に地中深く埋めておきたい。十数年後ならいざしらず、一年後の今はまだ思い出と呼ぶには生々しすぎ、
千種の頭の片隅を、クラス委員の何かを期待する目つきが通り過ぎていった。
「そうは言ってもね。彼女たち、いつもあなたと一緒にいる二宮くんをじっくりと観察して、新しい恋に目覚めるか、今の恋を諦めるかしていったのよ。どの子もみんな揃ってね」
「日本人に足りないのは積極性だな」
「そんなものが今よりあったら、二宮くんが押しつぶされて死んじゃうじゃない」
「そろそろ本題に入っていいか?」
どうぞ、と加古が楽しそうに促すので、
千種は封筒を差し出した。
「三門に戻ってきたのはこれで二週連続。前は二宮から遺書を預かった」
「……そう」
加古の美しい指先が白い封筒の端に触れた。遺書と聞いても表面に浮き出た驚きは薄かった。春休みの終わりに
千種が二宮から初めて切り出されたときよりも、はるかに落ち着いた所作だった。
この話題に慣れているのかもしれない、と気づかされる。
「本人は?」
「ボーダーから連絡があるまで何もするなと。だからまだ読んでもない」
「私に会うのも禁じられてたんじゃない?」
「加古の名前は一度も出なかった」
「あら残念」
それきり加古が黙ってしまったので、不意に不安が形になって現れた。
「あいつ、死ぬのか」
「死なないわ」
はっきりとした答えが返ってきた。だが
千種がそっととなりを窺えば、加古は唇を噛んで軽く目を伏せていた。
「死なないの。だって、死ぬときなんていつも突然だと、私たちみんなが知ってることでしょう?」
「……そうだな」
死はいつでも身近に存在する。覚悟なんて必要ないほど何もかもが突然にやってくる。
その事実を
千種たちは骨の髄まで思い知らされていた。自分たちの青春の上からでたらめに穴をあけていったあの日の雨のように、異形の怪物たちによって乱暴にめくられた新しい世界のように。
千種は封筒をゆっくりと自分の方へ引き寄せた。加古の指があらがうことなく離れる。
「だからきっと、死ぬようなことにはならないの」
ごめんなさい、と謝罪する声は弱く細いながらも誠実だ。ボーダーの人間らしい反論を寄せつけないあしらい方。
慣れているのだ。加古も、きっと二宮も、すでに慣れた道を歩いている。
「これ以上私からは」
「いや、充分だ。ありがとう」
千種は封筒を仕舞うと立ち上がった。遠くで数人の学生がこちらを見ていた。そのなかには知った顔もいる。加古の友人たちだ。心配ないよと彼らに伝えたかったが、
千種はそれよりも意味のあることを口にした。
「会えるうちに言っとくよ。おれ、加古のこと好きだよ。今も、たぶんこの先お互いの顔と名前を忘れたあとも」
加古は顔をあげると、わかっていると言いたげに微笑んだ。
「奇遇ね。私もあなたのこと好きよ、付き合いの長い二宮くんよりあなたの方がずっとね。最期の言葉を残そうとは思わないけれど」
「そんなものいらないよ」
「
千種くん」
「言えないならそれでいいんだ。ボーダーの秘密主義はおれも知ってるから」
「彼のこと許してあげて」
「努力する」
これまでもそうしてきたように。二宮がボーダーに入隊すると決めてからも、
千種は以前と変わらない生活にこだわり続け、共有する時間や経験はあの大規模侵攻を境にして格段に減った。周りが思っているほど自分たちはずっと仲の良い親友だったわけではない。その努力を二宮は決して認めようとはしないだろうが。
千種は軽く手をあげて加古に別れを告げた。
生きようとすることは死ぬことにもっとも近い行いなのかもしれない。ただ漫然と生きるよりも、生の質感に触れるほど死はいっそう身近に感じられる。
「不要になった?」
携帯電話を握る手に力を込めて、
千種はくり返しそう尋ねた。降り続く五月の雨が春の花をすっかり洗い落とし、季節は初夏を迎えようとしていた。
「遺書はもういらない?」
いつものようにその電話は唐突だった。霧に揺らめくかそけき道を慎重に見計り、抱え上げたものと失ったものをひとつずつ数えあげ、ともすれば流されそうになる日常ごとに身を削られながら、それでもその場に立ちすくんで考えているうちに再び電話は鳴った。用件は変わらず単刀直入に、二宮はただひと言、「渡した遺書は不要になった」と。
「三門から離れる予定は当分ない。だから、もう捨ててもらっていい」
「捨てるって、びりびりに破って? それとも灰も残らず燃やそうか?」
千種は苛立ちを隠せなかった。親友に遺書を残したいと思うほどの覚悟を、真に迫った決意を、こんな電話一本でなかったことにはできない。なかったことにしようとする二宮への理解と許容を心が簡単には受け入れられない。
怒りがあった。たぶん、三門を離れて初めて感じた二宮への怒り。そして、二宮の都合にこんなにも簡単に振り回される自分への怒り。
千種が意図して込めた棘のある言葉にも電話の向こうで動じる気配はなかった。
「処分方法は任せる」
「ふーん、つまり、お前にはもう必要ないんだな?」
「……そう言ったはずだが?」
「じゃあ、おれが中身を読んでも問題ないのか」
淡々と応じていた二宮の声がそこで途絶えた。
千種は固く握りしめた拳を額に押しあて、通話口から流れる沈黙をじっと我慢した。
「まだ、開けてなかったのか」
「二宮」
千種は言った。相手が何か反応する前に、激しく渦巻くこの感情を、冷静な諌めの言葉に置き換えようとした。
その試みが成功した手応えはなかった。
「二宮、おれが友だちの遺書を読みたいと思ってるなら大間違いだ」
耳に聞こえる呼吸音が自分のものか相手のものか、わからなくなりはじめていた。電話は遠い。会って、話して、それでも遠く感じた。
「……泣くな」
「こんなことで泣くか」
「悪かった」
「おれが泣くのはお前が死んだときだけだ」
「もう遺書のことは忘れろ」
簡単に言うな、と口にする前に
千種は深呼吸して簡単に飛び出そうとする言葉を喉の奥に押し込んだ。
「でも、いつか必要になるんだろ。今でなくとも、お前にとってまた必要になるときが来るんだろ」
「
千種」
自分を呼ぶ声に、気後れしたような歩み寄りを感じ、
千種は親友の態度と反比例するように激しい感情を瞬間的に抱き、ゆっくりとそれを静めた。
思いきり深呼吸する。
決意はすでについている。悩みも動揺も後悔も尽きないが、二宮がボーダーに入ると決めたその日から、こうなることは予想がついていた。
ただ
千種が弱かっただけだ。人間としての弱さに反吐が出る。
「お前の遺書は、おれが預かる。次も、その次も。ずっとだ」
「……わかった」
「約束だ」
「約束する」
「おれが最優先」
「ああ」
「おれ以外にも友だちつくれよ」
「……つくっている」
千種は笑った。
「今のはおれも声でわかったよ」
笑いながら、許すとはどういう感情だろうかと思う。遺書の必要がなくなった二宮は、自分と同じただの大学生に戻ったということなのだろうか。ボーダーの隊員として故郷に迫り来る近界民をなぎ倒し、夜になれば安全な自宅のベッドで眠りにつく。その生活が保証されたということなのだろうか。
それは何の情報も持たない
千種による楽観的な憶測でしかなく、死の影が遠のいたことに心から安堵するのは難しい。それを上回って余りある、失うことへの恐怖を思えばなおさらだった。
「また来たの」
二度目の市立大学図書館前は緑の影が濃かった。加古のあきれた眼差しに心地よさを感じ、
千種は降参するように両手をあげた。
「おれも地元で進学すればよかった」
「せっかく母校の実績づくりに貢献したんだから、そんなこと言ってると先生たちが泣くわよ」
「そうなんだよ、今おれも泣きたいところ。大学入って、おれの知らないあいだに加古に彼氏ができたなんて」
加古は片眉をすっとあげた。
「あら、
千種くん私のこと狙ってたの?」
「美人だって言っただろ。おれは誰にでも親切にするような男じゃないよ」
「冗談はほどほどになさい。そうやってきれいな言葉で遠ざけてばかりいるから、かえって女の子に放っておかれないものなのよ。この男と違ってね」
「へえ、もしかして彼氏って俺のこと?」
ベンチに座ってへらへら笑っていた男が照れるなあと顎髭をかいた。その目の前で加古が腕を組んで仁王立ちしている。
「ごめんなさいね、私、教授から逃げ回って他人に迷惑かけるような人はタイプじゃないの」
男は辛辣な加古にもめげる様子がなかった。
「速攻で振られちゃったじゃん、どうしてくれんの」
「悪い、責任とっておれが加古のこと幸せにするから」
「あなたたち、冗談はほとほどにって言葉が聞こえなかったのかしら」
苛立たしげに組んだ腕を指で叩き、加古が横目で
千種を見た。
「また二宮くんの身辺調査?」
「その言い方、私立探偵みたいでかっこいいな」
「お望みなら浮気調査にしてあげる」
「その場合の依頼人って?」
「あなたじゃないの?」
「最高にかっこ悪いな」
「電話鳴ってるぜ」
加古の怒りの矛先から運よく逃れていたへらへら男が、今度はにやにや笑っていた。
千種が電話に出ると、挨拶もなく厳しい口調で質問が飛ぶ。
「なぜ太刀川と一緒にいる」
「太刀川って?」
誰、と聞く前に目の前の男が「俺」とみずからの携帯電話を持ってアピールし、その手首を取った加古が「あなたは教授に早く謝罪のメールを入れましょうね」と声だけ優しく諭していた。
「なるほどね。お前の友だちと親睦を深めていたところ。二年の前期で卒業の危機ってやること早いな」
「そいつはただの知り合いだ」
「いま伝言頼まれたんだけど。教授に根回ししといてだって」
「馬鹿に耳を貸すな」
「いや、加古は才女だろ。才色兼備。おれと太刀川くんは失恋仲間」
「……加古もいるのか」
「楽しいキャンパスライフで羨ましいよ」
「単なるボーダー関係者だ」
「太刀川くんも?」
名前を呼ばれて再び存在をアピールしはじめた太刀川の靴のつま先を加古が踏みつけるふりをしてみせた。次はあの細いピンヒールだ、と自分がされたわけでもないのに
千種は鼻頭にしわを寄せて痛がった。
「加古が激おこみたいだから留年回避を手伝ってやったら」
「なぜ俺が」
「おれの友だちだから?」
「お前には関係ないだろ」
「いや、太刀川くんが。おれと友だちになってくれそうだから」
だよな、とふたりに目だけで問いかければ、加古からは勝手になさいとギリシャ女神の如き超然とした笑みを向けられ、太刀川には興味津々な顔つきで協定締結のための手を差し出された。
千種はその手にハイタッチするとそのまま手を振って彼らと別れた。後ろから声が追いかける。
「
千種くん、三度目の待ち合わせはいらないの?」
「今度は飲みに行こう。太刀川くんの連絡先あとで教えて!」
肩越しに振り返ると、加古たちはまだ太刀川の単位のことで揉めていた。あそこまで彼女の手を煩わせる存在も珍しく、実際に、最後までしおらしい姿を寸分も見せなかった太刀川と友人になりたい気持ちに偽りはなかった。
二宮の感情を揺らす存在は声を聞いているだけでわかる。
「三門に帰ってきてまでやることがそれか」
「ホームシックなんだよ」
向かってきた自転車を避けるために携帯電話を握り直し、二宮、と
千種は明るい声で尋ねた。
「高校の裏門に棲みついていた猫のこと、覚えてるか?」
記憶力のいい友人は間髪入れずに答えた。
「白黒の。一年の討論大会で話題になっていたな」
「学校が閉鎖してるあいだに姿を見かけなくなって、それっきりだ」
「餌付けする人間がいなくなったからだろ」
「かもな。そいつがうちのキャンパスの植え込みに引っ越してきてると言ったら驚くか?」
電話越しにため息が聞こえ、
千種は小さく笑った。
「……ただ似てるだけだ」
「いなくなった理由を考えるとき、何が簡単に自分を納得させられるか想像すると、おれにとって『似てる』だけでは足りないんだ。いま話してるお前もおれの知ってる二宮か? それともボーダーの用意したまがい物?」
そのどちらでも、あるいは
千種にとっては足りないのかもしれない。電話越しの会話はもどかしく、だが会って話した末の遺書はもはや恐怖の代名詞ですらあった。
遺書。白い紙に落ちる黒い文字、ただの言葉の連なりとは割りきれない重み。そこにあるのは過ぎ去ったこの世への感謝、謝罪、あるいは未来への果たせない約束だろうか。
「
千種。事実の確認がしたい」
「トリオン技術の応用で、すでにクローンを開発しているとか?」
「俺たちは結婚できない」
「……は?」
突拍子もない発言に喉の妙なところで唾が絡んだ。
千種がしばらく咳き込んでいるあいだに、電話の向こうでも雑音が混じった。
「どこからかけてんの」
「ボーダーの作戦室だ。それで、お前は結婚したいのか?」
「二宮以外となら考えてもいい」
「だが法的な権利は生まれる」
千種が言葉の意味を理解する前に声は続いた。
「俺がお前に遺書を……書面を預けずとも、結婚すれば連絡が入る。何かあれば、お前に必ず知られることになる。隠し通せるものは今の立場より少なくなるはずだ」
まったくなくなる、と言い切らないあたりが二宮の本気度を物語っていた。
「……おれにボーダーを信じろって?」
「それくらい自分の頭で考えろ」
「ふーん、二宮はさ」
「何だ」
「これまでボーダーの友だちを紹介してくれなかったのはわざとか?」
「お前とは友人の定義が違う」
「じゃあ親友は?」
千種は軽い口調で問うた。
「お前にとっての親友は何?」
半ば想像したとおり、返答はなかった。結婚の話題を素で持ち出した人間がするとは思えないほど長く続く沈黙のあいだに、
千種は大学の敷地を抜けていた。遠くにボーダーののっぺらぼうな建物が見え、
千種はそこにいるという二宮に向かって意味もなく手を振ってみる。
宇宙と交信する基地は謎めいていて魅力的だ。だがそこに生きる人間はもっと単純なものでできている。
「おれはお前を信じるよ。結婚だとか法律がどうとか考えずに、おれはお前を信じる。そっちの方がずっと簡単だろ?」
「……気に入らねえ」
短く不機嫌な訴えは、ほとんど同意に等しかった。まったくだよ、と
千種も笑った。
この世のしがらみがたまらなく嫌になるときがある。侵略をくり返す近界民も、それを冷静に退けるボーダーも、親友とのあいだにそびえ立つすべての障壁も。
遺書を渡されてから二ヶ月近く経つ。世界が新しい一面を見せてなお宇宙は変わらず収縮し、あるいは膨張し、際限のないエネルギーに満ちている。
時間の狭間に生きることは誰にも許されない。
二宮、と電話口に向かって呼びかけたとき、心地よい沈黙が破られるのを惜しく思った。もっとさりげなく彼を許したかったし、許しを乞いたかったが、言葉はすでに
千種のもとから離れていた。
「お前に何があったか知らないが、何もなかったことにはもうできない。平気なふりはできないんだ」
おれが誰かを憎むようなことにだけは、絶対にしないでくれ。驚くほど意味を持たない空疎な希望、顔を背けたくなるほど恥知らずな懇願にもかかわらず、低く体に馴染んだ声が「当然だ」とためらいもなく約束するのを耳に届けてから、
千種はゆっくりと電話を切った。耳の内側ではまだ二宮の言葉がこだましていた。
「当然だ。そのためにここにいる。お前は違うのか、
千種」
違わない。スタートラインはとっくに背後へと遠ざかっている。流れる景色に目が追いつかないだけで。
携帯電話の画面が明るく灯り、
千種はまぶたをあげた。一件のメッセージが入っていた。新しく増えた予定に小さく笑みをつくる。
千種にとって親友の定義は簡単だ。人生の索引に刻まれた友人リストは長く、自分でも把握できないほどにどこまでも長く続いていたが、みずからの遺書に宛てる名前はひとつきり。
互いにとっての親友はただひとり。それを知る人間が今日また増えたのだから、
千種が彼のために残す祈りの言葉はこれからも多くの人の目に触れていくだろう。より多くの人が、宇宙の深遠に囲まれて立つちっぽけなふたりの存在を目撃する。
二宮が生きているかぎり、
千種が生き続けるかぎり。
星間よりの伝言・了