来たわ、と園子が窓の外を見ながら喜色を帯びた声を上げた。日が暮れて店内の客がはけてきた頃、園子と蘭は待ち人の到来に落ち着きなくそわそわとしていた。
 グラスの氷が音を立てて溶ける。
 コナンは席の隅でオレンジジュースの残りをストローでずぞぞっと吸い上げながら、二人の視界に入っていないのをいいことに、小学生に似つかわしくないしかめつらしい顔をした。
 面白くない、とはコナンの心底にある素直な感情だ。決して認めはしないが。ちょっと浮かれた顔をする蘭をコナンは横目で盗み見た。
 カランと喫茶店のドアベルが鳴る。
 店員がいらっしゃいませ、と告げる前に、園子が立ち上がって声をかけた。
「ハイ、染井くん! こっちこっち」
 デイバックを肩にかけた男子学生が足を止めて園子たちを見た。少し伸びた前髪が遅れて揺れる。
 染井吉野。黙っていると冷たい印象を与えるが、軽やかに笑いかける園子に控えめな微笑を送る姿は、無関係な他人の目をひくほど甘やかだ。いまだに見慣れない黒い制服にコナンは目を細めた。
「珍しいですね、鈴木先輩。この時間に会うのは」
「ついさっきまで知らなかったのよ。このガキンチョに教えてもらうまではね」
 くいっと顎で指されて、お嬢様にあるまじきぞんざいさにコナンは空笑いした。なかなかつかまらないらしい染井について、夕食どきの喫茶ポアロで見かけることを何気なく漏らしたばかりに、園子に締め上げられたのはまだ記憶に新しい。
 しかしコナンのその作り笑いも、染井と目が合った瞬間に凍りついてしまった。すぐに興味がなさそうに目線を逸らされてしまったが、コナンは何かの見間違いかと染井を凝視した。
 少し姿勢を崩した立ち方に、無造作にテーブルに置かれた指。詰襟に寄せられた顎は男にしては頼りない。その輪郭線はすべて工藤新一がよく知るもののはずなのに。
 コナンは人畜無害な小学生のふりをしながらも、目の前のどうしようもない違和感に戸惑いを隠せなかった。数年来の年下の友人が、少しまともに顔を合わせないうちに劇的に何かが変わったとでもいうように。
「そんなことより、ご飯食べに来たんでしょ? 座ったら?」
「って言ってますけど、良いんですか? 毛利先輩」
「もちろん。実は園子を誘ったのは私の方なの。コナンくんがここで染井くんを見たって言うから」
 園子が奥へ詰めた席に座り、染井がもう一度コナンを見た。
 そのどこまでも静かで平坦なまなざし。
 あっ、と喉の奥で声を詰まらせる。この目だ。コナンは向けられた視線に身を固くしながら思う。この目がいつもと違う。
「確か、毛利さん……毛利先輩のお父さんと一緒によくいる子ですよね。おれもここで飯食ってるの見たことあります」
「私が遅くなるときはポアロでお父さんとご飯を済ませてもらってるから。新一の親戚の子で、最近うちで面倒を見てるの。コナンくん、このひとは染井くんといって、私たちの一つ下の後輩よ」
「……よろしく、おにいさん」
 コナンのぎこちない顔に、向かいに座る園子が不審がった。手持ち無沙汰に咥えたストローをピッと跳ねさせる。
「どうしたのよ、いつもの威勢がないわね。染井くん、こいつには気をつけなさいよ。何でもかんでも知りたがりの手に負えない坊主なんだから」
「なんですかそれ」
「そのまんまよ。小学校のお友達と探偵団つくって遊んでるってわけ」
「探偵って、なんだか工藤先輩みたいですね。顔もどこか似てるし」
 染井の呟きに蘭が身を乗り出した。
「あ、やっぱり染井くんもそう思う? 新一と同じで推理が得意だし、これって工藤さん家の血なのかな」
「『闇の男爵』でしたっけ。先輩のお父さんの本」
「そうそう。あれも推理小説よ」
「コナンくん、なんかおれについて知りたいことでもある?」
 急に話題を振られてコナンは面食らった。素早く笑顔を取り繕いつつも、やはりその目が落ち着かない気持ちにさせた。
 本当は以前と違う様子の染井を問いただしたかった。だが、蘭も園子も全く気にしていないようで、そのことについて単なる知り合いの親戚の子であるコナンにはなにも言えなかった。
「えーと、それじゃあ、おにいさんと蘭ねえちゃんたちの制服が違うのはどうしてなの? さっきは先輩後輩って言ってたけど」
「ああ、そんなこと。中学は先輩たちと同じ帝丹だったけど、おれだけ別の高校に行ったから」
「あーあ、染井くんのブレザーすごく似合ってて好きだったのに、もったいないわー。もちろん、その学ランもステキだけど」
 染井の顔を気に入っている園子が調子よく言う。
「ちょっと、またそんなこと言って。園子には京極さんがいるじゃない」
「彼氏とイケメンは別腹よ!」
「あれ、鈴木先輩、彼氏できたんですか」
 高校生のノリで話題があちこちへ逸れていくのに、コナンはほっと息をついた。
 当然、コナンは質問の答えを知っていた。むしろ染井がいま口にした以上のことまで。
 染井は中学在学中に家族を亡くし、金銭的な理由で地元の公立高校へ進学を決めた。成績の良かった染井は教師陣に惜しまれたが、学校や学年が違っても変わらず新一とは共にいた。例えばこの喫茶店や、あるいは人の気配が減った新一の家で。
 ただし、新一が高校生探偵などとメディアに取り上げられるようになってからは会う機会も減っていた。新一は絶対に染井を事件現場へ連れては行かなかったからだ。
「はーい、お待たせしました。スペシャルディナーセットです」
 カウンターの奥から現れた店員の榎本梓が、染井の前に手早く食事を用意した。そういえば、染井が喫茶ポアロで何か注文しているところを、コナンになってからは見かけたことがなかった。
「えー、なんですかそれ。美味しそう!」
「園子ちゃんは帰ったらご飯が待ってるでしょ。他のひとには内緒の特別メニューよ」
 ね、と梓が人差し指を口元にあてる。
「おれこの後バイトがあるんで、すみませんが先いただきます」
 染井が箸を手に取ると、どうぞどうぞ、と蘭が手ぶりで示した。
 梓が空いたお盆を胸元に抱えながら、残念そうに肩をすくめる。
「どうせならここで働いて欲しかったんだけどね。マスターも、もう一人アルバイト雇おうかって言ってるし」
「おれ、料理できないですよ」
「簡単なものから教えるよ? 一人暮らしにも役に立つし」
 黙って染井について考え込んでいたコナンははっと顔を上げた。
 それは、ととっさに言いかけて歯噛みする。
 コナンは染井が喫茶店のアルバイトを断る理由を知っている。それをあまり言いたがらないことも。
 ここにいるのが新一でさえあったなら、いつもそうしているように、誰に気付かれることもなく話を流すことができるのに。
 だが、そうではない、とコナンは冷静に自身を否定する。江戸川コナンとしてでもいくらでも口出しできる状況だった。染井のいつもと違う様子に気を取られて、その機会をふいにしただけで。
「なんてね。染井くんはうちの大切な常連さんだから。いつまでもご贔屓に」
 幸いにも梓は可愛らしいウィンクひとつ残してキッチンへ戻っていった。
 染井は少し困った顔で梓を見送って、話題が蒸し返されないうちにでもというように、そういえば、と切り出した。
「おれになにか用でしたか? わざわざ待っててくれたんですよね」
「あたしは染井くんに久々に会いたかっただけよ」
 先ほどの梓を真似て、園子が少し不恰好なウインクをした。
「イケメンは目の保養、心の潤いって言うでしょ」
「はは、ありがとうございます」
「……なんか、前より交わし方が手慣れてきたわね。学校でかわいい女の子からたくさん告白でもされてるんじゃない?」
「残念ながら、好きな相手からはモテないので」
「えっ、いるの!? 好きな女の子!」
「って、友達が言ってるのがカッコよくて真似してみました」
 確かに手慣れてる、とコナンは呆れた。後輩のその方面での成長に嬉しいような、悲しいような。
 遊ばれてむくれる園子に蘭が、もう、と目で咎めた。
「はいはい、ゴメンナサイ。用があるのはあたしじゃなくって、蘭だから。あれ、持ってきてるんでしょ?」
「うん。染井くん、私が染井くんを待ってたのはね、これを見せようかと思って」
 蘭の嬉しそうな顔にコナンは今日ずっと感じていた虫の居所の悪さを思い出した。
 しかし、すぐにそれを吹き飛ばすほどの衝撃を受けることになる。
 蘭が鞄から携帯電話を取り出すと、いくつか操作してから染井の方に向けた。コナンの背丈では首を伸ばしても中身は見えないが、染井の顔はよく見えた。
「あっ……」
 染井が食い入るように液晶画面を見る、その見開かれた目。
「これ、あの、ほんとうに?」
「うん、この間届いて」
 蘭がとっておきの宝物を教えるかのようにささやいた。
「本物の、新一からのメールだよ」
 すぐには、自分の本当の名前が呼ばれたことにも気付かないほどだった。コナンは目の前の鮮やかな表情の変化にただただ息を呑んでいた。
 知っている目だ。
 コナンに、工藤新一に、染井から向けられるいつもの目がそこにあった。
 箸が皿の上でがちゃんと鳴る。
「ちゃんと無事だったんだ……」
 染井は片手で顔を覆った。
 蘭は相変わらず嬉しそうに、園子は少し呆れたように顔を見合わせて笑っている。
染井くんってほんと、新一のこと好きよねぇ」
 染井は手であふれ出る笑みを抑えようとして、それでも隠しきれない目はあたたかな光が差していた。
 ウソだろ、とコナンは思った。
 平然としていたのか、自分は。いつもそんな目を向けられていて。
「それは、もちろん」
 染井がはにかむ。
「工藤先輩はおれのヒーローですから」
 コナンは、あるいは工藤新一は、人知れず顔が熱くなるのを止められなかった。
 オレはここにいる。
 そう叫びたくてしかたがなかった。
 悔しいほど、染井は少しもその目にコナンを映さなかった。

眩いほどの光のプリズム・了
(タイトルはそれでは、これにてさんより)