迅はくたくたに疲れていた。たくさんの情報を処理し、大人たちと膝を突き合わせて話し合い、未来に向けた重大な決断をいくつも下したあとだった。
 今日はもうどんなことが起ころうと絶対に目をあけるものかと中学校の制服姿のままベッドに倒れ込み、枕に押しつけた頭のなかで寸時黙考し、すぐにまぶたを押し上げた。
 部屋の隅で他人の気配がした。
 誰かが勉強机にもたれかかっていた。軽く腰を曲げて机の上を覗き込み、備え付けの本棚に並べられた教科書の背表紙を指でたどっている。
 見知らぬ男がそこにいた。季節外れの長い丈のコートを着込み、迅から窺える横顔は日本人離れした目鼻立ちをしているのがわかる。顔立ちだけでない、ただそこに立っているだけなのに、男の何気ない所作からは長く飽かず練り上げられた烈風のごとき気迫が感じられた。
 まるで軍属の近界民みたいだ。と思った途端に迅の体は強張った。眠気が吹き飛び、警戒心が波濤となって押し寄せる。
 この状況に疑問が尽きない。なぜ見慣れない男が迅の私室に侵入しているのか。目的はどこにあるのか。果たして、この事態を仲間たちは気づいているのか。頼みの綱のトリガーは、男の目と鼻の先、机の引き出しのなかにある。
 ふと男が顔を上げ、息を殺してそろりとベッドから起き上がろうとする迅と目が合った。迅の体が緊張で固まった。
 男の目がみひらかれる。
「きみは――」
 その顔を見て、迅の胸のうちに奇妙な感情がわき起こった。懐かしさだ。既視感ともいうべきか、はじめて会った身内に対する親近感のようなものを覚えた。
 いくつもの死線を潜り抜けてきたと思われる男の頬に動揺が走った。
 驚愕。それから何重もの驚愕。男の表情はそれだけで埋め尽くされていた。
 迅の顔にもまるで鏡合わせのように同じ感情が乗せられていただろう、男とまともに目が合った瞬間の衝撃は拭い去りがたい。
「――待ってくれ!」
 迅は思わず立ち上がっていた。すばやく室内に視線をめぐらし、ベッドの陰、天井の四隅、廊下に通じる部屋のドアがしっかりと閉じられているのを確認すると、再び勉強机の脇を見つめた。そこには誰もいなかった。
 何もなかった。男は忽然と姿を消していた。髪の毛ひと筋、長いコートの揺れひとつ残さずに男は迅の私室から立ち去っていた。
 そして迅の目は、常に「今」だけが見えていた。男の未来はそこに何も映っていなかった。
 こんなことははじめてだ。
 男が発したたったひと言、驚きに満ちたあの声を聞いたことさえ夢のように思える。
「……何だったんだ、今のは」
 迅は先ほどまで男のいた場所に立ち、机の引き出しをそろりとあけ、そこにトリガーが収まっているのを確かめた。

「やだ、ボーダー基地に幽霊が出たの?」
「まだそうと決まったわけじゃない」
 翌夕、迅は小南を私立小学校まで迎えに行ったついでに不審な男と鉢合わせしたことについてのあらましを語ってやった。何をどう解釈したのか、小南は侵入者の存在をオカルト的に怖がり、無意識のうちに迅の服の裾を掴んで離さなかった。
「ゆ、幽霊相手にトリオン武器は有効なの?」
「さあ、交戦しなかったからわからない」
「迅のくせに使えない!」
「まあまあ。幽霊にしろ近界民にしろ、まだこっちの情報が足りてない。侵入経路すら辿れなかったから、しばらくは警戒すべきだろうってのが最上さんたちの見解ね」
「だから今日は、迅が迎えに来てくれたんだ」
「そう。林藤さんじゃなくて悪かったな」
「そんなこと言ってない……」
 小南はきゅっと唇を噛んだ。その目は不安に揺れていた。
「一番危ないのはあんたじゃない。昨日はうっかり寝首をかかれそうになったんでしょ」
「まあ、そうなんだけど」
 迅は内心で首を捻っていた。
 正体不明の男がボーダーの防衛機能を突破して基地に侵入し、一瞬のうちに姿を消したことは重大な事案だ。しかも詳しく調査しようにも痕跡が何も残っていない。男を目撃したのは迅だけで、まだ基地の内部に留まっている可能性すらあった。
 仮に侵入者が近界民であった場合、トリガー技術は圧倒的に相手が上だ。迅のサイドエフェクトを弾く能力も有しているとなれば打てる対策は限られる。
 にもかかわらず、男が成し遂げたことはこれまで何ひとつとしてなかった。玄界の戦力を削ぐことも、情報を抜き取ることもせず、あるいは戯れによる遊びの的にすることもなかった。
 資源を割いて玄界に人員を送り込んできた相手は、ただ迅の前に姿を見せ、ボーダーに警戒を促しただけだった。
「おれは、どうにもあのひとと敵対するのはまずい気がするんだよな。未来視が使えないからこれはただの勘にしか過ぎないけど」
「どんなやつだったの、その幽霊男は」
 基地までの道すがら、赤信号で立ち止まり、迅は小南をちらりと見下ろした。小南の目はいつの間にか闘志で燃えていた。
「あたしが迅の代わりにそいつをはっ倒してあげる」
「幽霊にこぶしは効かないんじゃない?」
「迅はまだ試してないんでしょ! それに、ボーダーではあたしのほうが先輩なんだから。あたしがトリガーを使った肉弾戦のやり方を教えてあげる」
「そう言って、このあいだもひとりで突出して怒られてなかったか」
「……あのときとは状況が違うもの」
 迅の裾を握りしめたまま小南はぷいとそっぽを向いた。迅は笑いをかみ殺しながら横断歩道の向こうに並ぶ人込みを眺めた。横切る自動車や軽トラックに混じって、あらゆる人間の未来が見える。
 あの男には何も見えなかった。短いあいだの邂逅だったが、今振り返るとまるで幽霊と出会ったような心地がした。それも生前をよく知る幽霊だ。そこに未来はなく、ただ男の過去だけが横たわっている。恐れよりも切ない親しみがあった。
「少なくとも一般兵には見えなかったな。軍人でも上の階級だと思う」
「指揮官タイプってこと?」
「本人も相当の手練れだ。まともに正面からやり合おうとは考えないほうがいい」
「しかも丸腰で交渉したくもないってことね。あんたのサイドエフェクトは封じられているわけだし。幽霊が仲間を引き連れてなくてラッキーと思うべきかしら」
 男が単独で行動していることも不可解な点のひとつだ。斥候と考えるには男の立場を推し量ると不自然に思える。
 あれから夜通し眠たい目をこすりつつ見張ったが、侵入者と同様に、ボーダー側にも何の成果も得られなかった。
 男と交渉の余地があるのかすら見当がつかない。未知のトリガー技術を持ち、軍人のようだが組織的な動きは見えず、敵意の有無も不明。基地に残った最上たちは今頃さぞかし頭を悩ませているだろう。
 小南がふと思いついたように言った。
「迅に会いにきたのかもしれないわね」
「おれに?」
「だって迅のサイドエフェクトが使えないなんて偶然とは思えないもの」
「それならおれも有名になったもんだ。いやあ、人気者のエリートは忙しくて困るな」
「調子に乗らない!」
 そのとき、迅は昨夜の男の驚いた顔を鮮明に思い出していた。
 信号機が青に変わり、人込みが動き出す。小南が背中に負った通学かばんを揺らしながらとんとんと前に出て、歩道で立ち尽くす迅をくるりと振り向いた。
 迅は茫然として足が動かなかった。
「あたしがとっ捕まえて尋問してあげる。たぶん、そいつはあんたのことをはじめから知ってたんじゃない?」
 迅の目は、小南の頭上を通り越し、街角の軒先で動かない人影をはっきりと捉えていた。季節外れの長い丈のコートが街の景色から異様に浮いていたが、それを誰も気に留めていない。
「迅、どうしたの? ――あの男がいたの」
 小南がするどく尋ねた。迅がはっとしたときにはもう、小南は身をひるがえして迅の視線の先に駆けて行っていた。
 待て、と呼び止めようとして、昨日もそうしたことが不意によみがえる。
 迅は男を引き留めようとした。虚空に向かってただ手を伸ばした。男が言いかけた言葉の続きを聞きたかった。
 男の未来が見えない理由を馬鹿正直に聞き出したいという思いに駆られていた。
 迅が小南に一瞬気を取られているうちに、もはやそうであることを半ば確信していたが、男は視界のどこにもいなかった。
 街で男を見つけたとき、男もまた迅を見つけていた。男の顔にはもう驚きはなかった。

 「幽霊には塩!」と叫ぶ小南をなだめ、反対する最上たちを説得し、迅は自室に一脚だけある椅子に座って男を待った。すでに男の狙いは明らかだった。
 男は迅の前にしか現れていない。その場に居合わせた小南ですら男の姿を見つけられなかった。
 果たして、待つというほどのこともなく男は現れた。迅は男を見つけた。まるでずっと前からそこにいたように男は悠然とベッドに腰かけて迅を見ていた。初対面のときとは位置関係が入れ替わっているが、男に動じたところはなく、隙もなかった。
「いらっしゃい、おじさん……それともお兄さん? どっちにしろ、ずっと見張られてるくらいならきれいなお姉さんが良かったな」
 先に迅が口火を切った。男の未来は相変わらず見えなかった。
「もう知ってるだろうけど、一応自己紹介しておくよ。おれは迅悠一。将来有望な男子中学生にして、この世界の民間組織の切り札。見ての通り、ここはお兄さんみたいなこわもてばかりがいる軍隊じゃない。おれの大切な仲間の女の子が怖がってるから、次からは今みたいに前触れもなく登場するのをやめてほしいんだ」
 男は大して表情を変えることもなく迅の口上を聞いていた。緊張感はなく、部屋の外を警戒する素振りもない。やがて何かを言いたそうにし、迅はすばやく口を閉じて耳をそばだてた。
「ジン・ユーイチ?」
「そう。それがおれの名前。そっちは?」
 しばらく返事がなかった。というよりも、迅と同じように、じっくりと迅の言葉を吟味しているようだった。男は面白そうな顔で迅を上から下まで眺めた。
 中学生と軍人では体格に差があったが、キャスター付きの椅子に座ったことでベッドにいる男との視線の高さは縮まっていた。迅は真正面から男と視線が交わった。
スゼー
 不意に男が破顔した。どきりとするような笑い方だった。
スゼーだ。我らが唯一の炬火にして敬愛なる神に仕えるスゼーが同胞に挨拶しよう。神のご加護のもとに会えて嬉しいよ」
 男はその場に座ったまま握ったこぶしで自らの胸をたたいて厳粛に顎を引き、すぐに儀式張った空気を解くと、ぽかんとする迅に屈託なく笑いかけた。
「驚かせてすまなかった。そのご友人にも謝罪しよう。できれば直接伝えたい気持ちはあるのだが、まあ無理だろう。この状況も俺の望んだところではないのだから、どのような顛末となるかは推して知れる」
「そりゃご丁寧にどうも……。あんたが――スゼーが望んだことじゃないっていうのは?」
「きみが俺を知らなかったように、俺もきみを知らなかった。軍人ではないと言っていたが、きみのその度胸の良さは見込みがある。かなうなら俺の部下として取り立てたいくらいだが」
「悪いけど傭兵になるつもりはないよ」
「そのようだ」
 スゼーは寛いだ様子でベッドに深く座り直した。
 迅は困惑した。相手の友好的な態度にではなく、むしろそれをはじめから思い描いていた自分に困惑していた。
 まるで未来が見えているようだ。男に迅への害意はなく、ボーダーをほしいままにする企みもなく、この出会いは偶発的なもので、そして必然であったとまるで最初からわかっていたようだ。
 迅は自分の心の動きに戸惑いつつも、スゼーに向かって袋を差し出した。中身が軽く音を立てる。
 スゼーがまた面白そうな顔をした。
「それは?」
「おれからの……そうだな。同胞に対する友愛のしるし」
 スゼーはためらうこともなく袋に手を突っ込むと、取り出したぼんち揚を興味深く眺めた。
「おれの好物なんだ」
 迅がひとつつまんで食べてみせると、スゼーも真似をして口に入れた。ぼりぼりと気の抜けた音が室内に響いた。どことなく滑稽だが、軍人やら傭兵やらの話題で盛り上がるよりも自分にはこちらのほうが似合っていると迅は思った。
「どう――って、またか」
 味を気に入ってもらえたか尋ねようとして、迅はがっくりした。いつの間にかベッドの上はからだった。男はまたしても無言のうちに消えていた。
「謝罪はするけど約束はできないってことか……」
 迅は部屋のドアを三回たたいて合図を送った。すぐに外側からあけられる。
「終わったか」
「そう。小南は?」
 予定ではトリオン体の小南が廊下に待機しているはずだが、姿を見せたのは林藤だった。林藤が無言で両手を上げると、脇の下からぶるぶるとふるえる小南の顔が覗いた。完全に怯えきっている。
「えっ、なにごと」
「いやー、その……なんだ」
 林藤がぽりぽりと顎をかいた。ここ数日謎の男の襲来で慌ただしかったためか、顎ひげが伸びていた。
「幽霊」
 ひと言、小南が言った。唇が青ざめ、頬からも血の気が失せていた。誰かのちょっとした冗談を真に受けたにしては度が過ぎていた。
「念のため確認しておくが、おまえが見たっていう男は今回も現れたんだな」
「そうだけど」
 迅は首を傾げた。
「モニターで部屋の様子を見てたんじゃなかったっけ」
「映ってなかったんだ」
スゼーが?」
「そうだ。おまえがベッドに向かってその名前を呼びかけていたのは俺も最上さんも聞いていた。だが、男の姿も、もちろん声も拾えなかった」
 そこまではまだ想定範囲だが、迅は嫌な予感がした。林藤の背中にしがみつく小南をちらりと見た。
「……もしかしてトリオン反応も」
「なかった」
 林藤がわざとらしいほど重々しく頷いた。小南はもう泣きそうだ。
「まじかー……」
 迅は天を仰いだ。男の正体がさらに混迷を深めたのもそうだが、モニターに映る自分が仲間たちからどのような目で見られていたのかを思うと、どうしようもなく居心地が悪かった。
 まるでひとり芝居をしているように見えたはずだ。幽霊だと怖がってくれる小南の存在が、今は心にしみるほどありがたかった。

「やあ、いい街だな」
 川沿いの静かな道を歩いていたときのことだ。通りすがりに外国人風の男に何気なく声をかけられ、迅はとっさに「そりゃどうも」と返事をし、数歩進んだあとで勢いよく振り向いた。
 スゼーはまだそこにいた。季節外れの丈の長いコートを着込み、視線は迅の横を通り過ぎて川向こうの街を見渡していた。
 まぶしそうに目が細められる。スゼーの目は雲間に沈む太陽を見ていた。
 迅はとっさに声を上げそうになって、ぐっと唇を引き締めた。向こうから来る自転車を避けるように土手を滑り降りると、橋のたもとの陰に入った。スゼーものんびりとした足取りで後ろからついてきているのがわかる。
 迅は覚悟を決め、さっと体を捻ってスゼーを捕まえようとした。相手は軍人だ。つい先刻までの迅であれば軍人相手にそんな無謀なことを仕掛けようとも思わなかった。生身では体格も力量も格段に劣り、未来視が使えないのであればなおさら分が悪い。
 だが、迅はスゼーに手を伸ばした。そして、見事にその体をすり抜けていった。
「うわ、そりゃないだろ……」
 迅は自分の手と、迅を悠然と見下ろすスゼーとを見比べた。
「あんた、幽霊だったのか」
 スゼーは面白そうに片頬をゆがめた。死者にしては感情豊かで、恨みの情念のようなほの暗さは見えなかった。
「幽霊? なるほど、大多数の人間にとってはそうとも言える。しかし、きみにとってはそうでないことを願おう」
「おれもあんたの存在を仲間に証明したいさ」
 迅はため息をついた。ボーダーの方針では、男の処遇は迅に一任されることになった。そもそも他の誰にも見えないのだ、もはや迅の手に委ね、迅の言葉を信頼するほかない。
 スゼーがとなりに並んだ。警戒心はなく、気のゆるみもない。野うさぎから軽い反撃を受けたとでも思っていそうで、しかもそのことをもう忘れている。
「何やら悩みごとがあるようだな、少年」
 誰のせいだと言ってやりたかったが、迅は相手の親しげな態度に諦めた。
 ふたりの眼前を川が静かに流れていく。その先はボーダーの基地に続いている。
「こんなところで軍の隊列を離れてひとり遊んでるように見えるけどさ。スゼーには信頼する仲間がどこかにいるんだろ?」
 意外なことを聞かれたようにスゼーの眉が上がった。
「もちろんだ。おのれひとりでは敬愛なる神をお守りすることはかなわず、そのために俺の帰りを待ち望んでいる多くの仲間がいる。きみは違ったか? きみの大切な仲間は俺の存在をほら話として受け入れないか」
 迅は首を振った。
「おれの言葉が不安視されるのには慣れてるからいいんだ。過去の経験を覆してくれるほど信頼できるひとたちもいる。それでも、あるいはそう見られてるって思うことは、いつもとはまた違うつらさがあって」
「幽霊と会ったばかりに災難が降りかかったか」
「そう。こうやって幽霊と話せるおれは何者なんだろうってね。たまに自分の頭を自分で疑うことがある。いつ発狂してもおかしくない。まったく、エリート少年って立場にも参るよ」
「力を持つ者は、いつの世もそうやって孤独を味わうものだ。だがきみは幸運だ。となりにこの俺がいるのだから、少なくとも今はひとり孤独ではない」
 揺るぎなく自信に満ちた態度のスゼーに、迅は手をひらいてみせた。目を見て話せる相手の体をすり抜けていく感覚は、うまく言葉に表現できないほど奇妙なものだった。
「おれたちは握手もできないのに? 幽霊が味方になったところでどうしようもないでしょ」
「それを決めるのはきみ自身だ」
 スゼーは薄く笑い、人差し指で顎を撫でた。
「そのために同胞への友愛を示してくれたのではなかったかな」
 混じり気のない信頼に、迅は軽くひるんだ。それこそが迅を惑わす原因だった。
「この世の未練ばかりじゃなく、友愛のしるしであれば幽霊も食事をとれるんだな。幽霊に慰められる霊媒師ってのは、近界の端っこまで探しまわってもおれくらいのものか」
「いい腕をしているということだ。あるいは詐欺師にもなれる」
「言ってくれるね」
「だが、きみは霊媒師でも、ましてや詐欺師でもない」
 不意に、低い声が言った。
「きみはトリガー使いだ。そして俺のような人間を見慣れているはずだ」
スゼーほどの腕利きの軍人は、早々知り合いにいないけど……」
 スゼーはふと笑った。これまで見たなかで一番やさしい穏やかな笑みだった。
 迅の足が無意識のうちに一歩退いた。
「何をそう恐れている? きみはすでに知っている。きみが俺を見た瞬間から、俺が何であるかをわかっている。とぼける必要はない――きみはいつものようにその力で、未来を見ているに過ぎないのだから」
 迅の顔が緊張で固まった。するどく胸を突かれ、呼吸が苦しくなる。
 仲間の信頼に応えるのが苦しかった。この現象が未来視の一環だと誰もがわかっていた。その仕組みは明らかでないが、スゼーが迅を見つけ出し、語りかけ、打ち解けた笑みを見せるのは、すべて今ではなく未来に起こることなのだろうと予測がついていた。それしか考えられなかった。
 認めたくない思いが迅にはあった。
「でも、それはだめだ。そんな未来は……そんな運命論は受け入れられない」
「なるほど。きみはただ未来を見るのではなく、いくつもの未確定の未来を見ているのか」
 わずかな言葉のかけらを拾い上げ、納得したようにスゼーは頷いた。
「……てっきり、もう知ってるものかと」
「前に言わなかったか? 俺はきみのことを何も知らない。きみの名前も、所属も、願いについてもきみ自身に教えられるまで知らなかった。そういえば、あの女の子は今でも怖い思いをしているのかな」
 小南のことだ。小南は幽霊の存在にびくびくとしながらも、用もないのに迅にまとわりついては周囲を警戒している。その純粋な思いが忍びなくて、迅はこっそり基地を抜け出していた。
「怯えてるよ。それから、おれのことをすごく心配してくれてる」
「そうか。だが、いずれは幽霊ではないと教えることもできるだろう」
 スゼーは長いコートの裾を払った。鍛えられた体が橋の暗がりに浮き出た。その顔は確信に満ち、軍人としての誇りがあった。
「我らが神は無駄を好まない。薄闇に灯る炬火は同胞への道を示した。これほどはっきりと過去の幻影を捉えたのは、俺が将官となってはじめてだ。きみの未来にもそうあることを願おう」
 迅はうなだれて首を振った。まぶたの裏で血がどくどくと騒いでうるさかった。
「どうした、きみには俺たちの交わる道が見えないのか」
「そうじゃないんだ……」
 迅はスゼーを見た。故郷の星を守る未来の軍人の顔を見た。
 そこに見たかったものは何もなかった。
「おれにはスゼーの未来がどこにも見えない」
 スゼーは軽く目をみひらき、しかしすべてを承知していたように動じなかった。
「そうか」
「まっさらだ。こんなこと、今まで……」
 言いかけて、迅は口をつぐんだ。心当たりはあった。それだけがしこりとなってずっと残っていた。
 だからこれが未来視だとは認めたくなかった。
「見えないか……なるほど。興味深いな」
 スゼーは破顔した。迅の心中に反して晴れやかな笑みだった。
「きみに礼を言おう」
「……そんなこと、おれは望んでない」
「それが運命であれば俺は受け入れるまでだ」
 太陽が雲間から再び姿を現した。ちいさな波に反射して川面がきらきらと光を弾いている。
「ジン・ユーイチ」
 スゼーが親しみを込めて迅の名前を呼んだ。ふたりの目が合った。迅がそこに見たのは、これからなすべきことを知っている男の目だった。
「きみの幸運を祈る。未来でまた会おう」
 風が吹き、迅の髪が揺れた。季節外れの丈の長いコートはもうどこにもなかった。

 その星には沼地に神がいる。選ばれた人間だけがその水面にたいまつを差し入れられる。炎は濃い緑藻に絡んで激しく燃え盛り、自らの星に対する託宣を、揺らめく過去の火影を通して人々にくだすという。
 スゼー将軍はその儀式のさなかに部下の裏切りにあって殺された。その星の資源を狙う敵国の計略だった。
 スゼーは凶刃に倒れながらも、愛する星を救う者の名を、神に代わって布告した。
「同胞たちよ、暗闇を恐れるな。我らが唯一の炬火は永遠に陰らず、どのような悪しき風の前にも、敬愛なる神に仕えるこのスゼーが未来永劫に渡って立ちはだかろう。――金蘭たる同胞よ。触れえぬ俺の瑞星よ。ここに友愛のしるしを残していく」
 迅は目をあけ、黒トリガーから手を離した。ひとりの男がそのすべてを懸けて託した願いがそこに詰まっていた。
 未来は迅の見たままに進んでいた。そこに親しんだ軍人の笑みを見ることは一度もなかった。ふたりの交わった道はこの瞬間を極点として、永遠に離れ続けていった。
「遅くなって悪い、スゼー。ようやく会うことができた。ここでおれたちは会っていたのか」
 陣営の外では、援軍として到着したボーダーの同盟国による反撃ののろしが上がっていた。
 そして迅の眼前では、ボーダーの基地に流れ込むふるさとのきらめく川のように、蛇行しながらも前に向かってのみ進むこの星の未来への道が恐ろしいほどにひらけている。
 そのしるしは、今や誰の目からも明らかだ。

ショウ・マスト・ゴーオン・了