藤原は自分より若い人間が嫌いだ。残念ながらすべての生き物は生まれ落ちてから死ぬまで老化する逃れようのない定めを負っているから、その対象は藤原自身が年齢を重ねるごとに拡大している。
 それにも関わらず、藤原は未成年が圧倒的な割合を占める偏った人員構成の組織に所属している。しかも彼らを監督する立場でもある。毎日が非常にストレスだった。
 各部隊の隊長から送られてくる活動報告書に目を通し、さらに個人戦や実戦任務でのログと照らし合わせながらその内容に漏れがないかを詳細に把握する。直近の団体戦の傾向をまとめながら、戦闘員と近しい立場にあるオペレーターが見逃してしまうような些細な癖や近視眼的な戦術を先んじて読み解き、各ポジションの合同訓練や面談を通して全体に還元する。戦闘員の思考の偏りを正し、組織の戦力の底上げを図る。それが藤原の仕事であり、数あるうちのひとつにしか過ぎなかった。ボーダーが正式に発足して数年、効果的なメディア戦略もあって戦闘員は爆発的に増えていたが、運営部門の担い手はいまだ猫の手も借りたいほど不足していた。
 深夜に跨る会議のために忍田が席を外した薄暗い室内では、藤原のみがまだ仕事をしていた。オペレーターに任じられたばかりの経験の浅い隊員が記入したらしき項目に、より具体性や客観性を求めるコメントを打ち込んでその部隊の隊長宛てに手を抜くなと返却し、藤原は椅子の背もたれに深く沈んだ。凝り固まった首の裏を押さえてひとつだけ照明の点った天井を見上げた。
 今日も一日、年下のことばかりを考えて過ごしてしまった。もう間もなくやってくる明日もそうで、この先同じストレスを抱え続けて生きていくことになるのだろう。ボーダーを辞めると言う選択肢が存在しない限り、あるいは未だ謎多きトリオンの解明が進まない限りにおいて、藤原の憂鬱が晴れることはない。
 机の端に投げ出されていた携帯電話が急にふるえ出して、藤原はぎくりと体をこわばらせた。社内用端末が鳴ったのかと思ったからだ。三門市の防衛を務める人間に休息は必要だが、攻め入る近界民側がそのような事情を考慮するはずもない。休暇中であっても昼夜を問わず呼び出しを食らうことは少なくなく、だからボーダーは一向に人手が増えないのだといつも職場内でぼやきあっている。もちろん、取り扱う機密性の高さから懐に新たな部外者を招き入れる危険性を承知した上での取るに足らない愚痴だった。
 表示される見知った名前を見て、藤原は気だるく電話に応じた。どうせ帰る先は本部内の仮眠室だ。ここで少し時間を浪費したところで大差ない。仕事を理由に無視するよりも組織内の数少ない同年代の戦闘員とコミニュケーションをとる方がはるかに能率的だと藤原は冷静に断じた。
「なに」
「……おっと、不機嫌そうだな」
 通話先の後ろが騒がしい。大方、どこかの居酒屋で風間あたりが酔っ払っているのだろう。藤原はちらりと壁時計に目を走らせた。短針はちょうど十を指している。職場に残るには遅い時間だが、未成年も含めた飲み会の最中としてはさほど非常識なものではない。彼を慕う者の幅広さを考えれば二十歳を過ぎた者ばかりの可能性もあった。
「お前はご機嫌そうだな、東」
「はは、これだけでわかるか」
「そこにいるのはうちの連中だろ? お前の若々しさはガキどもからトリオンを吸い取って成立しているんだろうな」
「……この前、訓練を見てやっている中学生からお父さんと言い間違われたばかりなんだが」
 藤原が何かを返す前に高い笑い声がして、「やだ、東さんそんなことあったの?」やら、「それ知ってます。お互い気まずそうで、あの東さんでも流せないことあるんだってうちの子が感動してました」などと、聞き取れないものも含めて場は相当に盛り上がっているようだった。何人いるんだ、とつい藤原の頭は職業病に取り憑かれてシミュレーションを始めていた。仮に今、緊急出動がかかったとして即座の招集に応じられる人員はどれほどいるだろうか。もし警戒区域内の複数地点に門の反応があれば、主要戦力がひとところに固まっている現状は危ういようにも感じられる。その間の防衛ラインを堅持させるのが今ここにいる藤原の役目となり、にわかに携帯電話を持つ手に力が入った。これはただの仮定で、どうしようもない僻みだとわかっていながら。
「……お前、何の用でかけてきたんだよ」
 藤原が言い終わる前に、東が小さく叱りつける焦った声が届いた。
藤原さあーん」
 耳にはっきりと聞こえる加古の酔った声に、藤原は反射的に通話を切っていた。
「うわ……」
 通話時間が表示された画面を見つめて、藤原はひとり静かな部屋で慄いていた。
 藤原は自分より若い人間が嫌いだ。それは組織内で随分と周知されていると思っていたが、それを軽々と無視してくやってくる学生の鈍感さに恐れをなしていた。
「……勘弁してくれ」
 加古とはしばらく顔を合わせたくなかったが、彼女が隊長を務める限りそれはありえなかった。

 藤原は自分より若い人間が嫌いだが、それ以上に東を疎んじてもいる。
 電話が切れた後、東は素面の堤に多めの会費を渡して居酒屋を後にした。先に帰ることを惜しまれはしたが、年長者がいつまでも場にいては気遣われるだろうと言ういつもの配慮のつもりだった。この後は二次会をするなり帰宅するなり、あるいは示し合わせてこっそりと抜け出すなり、公序良俗に反しない限り好きにやってほしい。
 東もまた自分の欲望のままに、まだ明かりのついている本部の扉をそっと押し開けていた。藤原の疲れた横顔がディスプレイの光に照らされている。そこでようやく差し入れを買って来るべきだったかと思い当たったが、考えを巡らす余裕もあまりなかった。促されるままに他の隊員たちの前で電話をかけて、自分はそれで何をしたかったのか。立ち止まって結論を出すには何もかもが遅すぎる。
 東が後ろからディスプレイを覗いてみれば先日の団体ランク戦のものが流れていて、ちょうど罠に嵌められた香取が落ちるところだった。舌打ちがイヤフォンをつけた藤原の口からこぼれた。前方の画面にか、後方の存在にか、どちらに対しても藤原は態度をゆるめない。
「なに」
 電話越しと同じ愛想のない声が背後に立つ東を咎める。東は特に断ることもなく隣の椅子を引いて座ると、藤原の片側のイヤフォンに手を伸ばした。夜の空気に拡散して、共通の利益を求めて手を組んだ即席の部隊間連携について解説する自分自身の声がかすかに漏れ出す。藤原はイヤフォンを取り返すでもなく、反対の耳だけで頑なに仕事に集中するふりをしていた。
「かわいいだろう、うちの加古は」
 藤原は東へ目線も寄越さないまま鼻で笑った。
「今のセリフ、録音して聞かせたいな。幻滅するやつが出てくるんじゃないか」
「誰も誤解しないさ」
「だろうな。お前は誰からも無駄に信頼されてるよ、お父さん」
 東はふと笑って、未だに自分の声が流れ出るイヤフォンを軽く手前に引いた。つながった先の耳を押さえて藤原が東の方を向く。その肩を掴んで引き寄せた。椅子の座面同士が固くぶつかって、唇同士がこすれ合う。乾いた皮膚はすぐに離れていき、また引き寄せても抗わない。
「……気が狂いたくなるほど背徳的だな」
 額をすり合わせて目を閉じれば、藤原の耳もとから聞こえる若い少女の実況の声だけで場の展開が容易に思い浮かべられる。そこに加わるもうひとりの解説と、自分自身の冷静な声。
「今のも録音しておくか?」
 藤原、と息を吹きかけるようにささやけど答えはなく、今度は濡れた音がその場に落ちた。

 藤原は自分より若い人間が嫌いだが、昔からそうであったわけではない。近界民の存在が公けにされる前からボーダーに所属して、その頃は年上も年下も関係なく笑い合っていたように思う。藤原自身もまだ学生で、むしろ同年代との距離の取り方に思い悩んでいたはずだ。何も知らないまま日常に対する不平を口にする、同級生たちとの距離感に。
 東とは高校のクラスメイトの関係だったが、向こうは教師の覚えもめでたい優等生で、藤原は素行不良の劣等生だった。周囲からの扱いは明らかに違い、その格差は今でも変わらない。東は大学院まで進み、藤原は高校を卒業してそのまま組織の活動に没頭した。だが武器種の専門を問わず広く隊員から尊敬を集める東に比べて、藤原は今ではただの後方支援職員のひとりに成り下がっている。
 藤原はかつて、東を指導する立場をとっていたことがある。ほんの短い間だが、はじめて東を見下ろすことになったそのときも、それで優越感を覚えることはなかった。指導することが当然で、むしろ早く戦力になることを期待していたほどだった。東だけではない、入隊を許されたすべての者に同等の力をつけることを強く求めていた。藤原と同等の力を、それ以上を。もう誰ひとり欠けさせないために。
 藤原の体内トリオン量が急激に減少し始めたのはその頃だ。今では満足にトリオン体を維持することすらままならない。戦闘への感性は鈍り、日々新しい戦術が生み出される現場に必死に食らいついていくことだけで精いっぱいだ。若く柔軟な発想が藤原の頭を飛び越えて開発部に直接持ち込まれることも増えている。
 だから、藤原は自分より若い人間が嫌いだ。藤原よりトリオン量が豊富で、経験が浅いために死を恐れない。藤原にはもうそれができないでいる。隣に立つ自分よりも若い友人がいつかいなくなってしまうことを知っているから、それを防ぐ手立てを失っているから、もう恐れないことは不可能だった。若い人間が力をつける度に嫉妬と苦しみを覚え、だがら藤原は彼らを遠ざけている。緊急脱出のない時代は終わったのだと冷静な頭ではわかっていながら、一度心臓に巣食った恐怖は容易に剥がれることはない。
藤原、ここからどうしたい?」
 ベッドの上から藤原を見下ろして、まるで後輩隊員の自発性を促すように東が聞いてくる。高校時代から並んで同じようにひとつずつ歳を取り、藤原より遅くからトリオンを扱い始め、藤原よりも遅くまで前線に立っている。どんなに若い隊員よりも、同年代の誰よりも、藤原は東が疎ましかった。
 藤原は目を閉じて、清潔な枕の上に頭を預けた。必要な備品を不足なく整えることも、防衛任務につくことも、どちらも組織を支えるために重要な仕事だ。だが今の立場だけでは満足できない、ないものねだりをこの年齢になってもまだしている。
「……東は、お前はどうしたいんだ」
藤原が知らないはずないだろう」
 手を伸ばされて、頬に触れられる。多くの仲間の頭を撃ち抜いてきた指が藤原のまぶたをなぞる。
「なあ、俺はお前がいるからボーダーに入ったんだ」
 それがもっとも鋭い棘を持つ言葉だと果たして東が知っているのか、藤原にはわからなかった。誰かを守るために武器を取って、今はただ守られるためだけに存在している。トリオンさえあればと願わずにはいられない、放課後の教室で夢見ている学生たちと藤原は何ら変わりがない。
 東とは何でもない日常の不平を言い合う関係だけでいたかった。それすら過ぎ去った今となっては、心臓の横に空っぽの器官を抱える藤原にどうすることもできなかった。
 まぶたから指の感触が離れて、重みでベッドが沈んだ。一度合わされた照準から逃れるすべを藤原はとっくに手放している。

地で眠る魚・了