出水は訪問者の顔を見て、正直言って貧乏くじを引かされたと思った。後ろでゲームに勤しんでいる国近はヘッドフォンで鼻歌までしているし、その彼女にゲームで負けてジュースを買いに走らされた唯我は今まさに廊下の端で回れ右している。
「太刀川さんならまだ訓練ブースにいますけど……」
 今にも舌打ちしそうな険しい顔に、出水は冷や汗をかいた。ボーダー職員の藤原が書類片手に太刀川隊の作戦室の前に立っていたからだ。
「あいつ、何時間篭っているつもりだ……」
 まさしく、太刀川は片っ端から隊員を攫っては訓練室にぶち込んで飽きもせず、付き合いきれなくなった出水はとっとと難を逃れて戻っていた。自分ではうまく立ち回れたと思っていたが、とんでもないツケが待っていた。
「あのう、渡すだけならおれが預かっておきましょうか」
 その言葉だけでも出水にはかなり勇気のいるものだった。
 ボーダーには男子高校生の間にだけ語り継がれているある伝説が存在する。それはそれは恐ろしい、かつて在籍した鬼軍曹のことについてだ。今では現役を退いてしまったが、その上官は噂に曰く、厳しい指導内容によってあの月見を泣かせ、太刀川の孤月を根本から叩き折り、嵐山を公衆の面前で正座させたとか。特に最初のものについては真偽不明の出どころながら憤る者も多いと聞くが、だからと言って誰も本人に直接ぶつけようとは思わない。怖いから。
 その思春期の青少年たちをふるえ上がらせている藤原が今度こそ本当に舌打ちした。そこまでさせるようなこと言ったっけ、と出水の心は折れかけたが、藤原の目線は廊下の先を向いていた。
「あれ、藤原さんじゃーん」
 スキップでもしそうなほどの陽気さで出水の隊長がようやく戻ってきた。残念ながら救いの神のようには見えなかった。
「随分と村上との対戦に時間をかけていたようだな」
「そうそう、どこまで経験積めるか試してみたくってさあ、来馬に途中で回収されるまではいい線いけてたと思うんだけど」
「村上が潰れたらどうするつもりだ。自分の振る舞いに責任が取れないうちは、勝手なことをやって他支部に迷惑かけるな」
「でも藤原さんだってどっかで映像見てたんだろ? ブースまで直に来てくれたら良かったのに、久しぶりにやろうよ」
 藤原の冷え切った声音も何のその、太刀川はあっけらかんと鬼軍曹まで勝負に誘った。さすがは忍田本部長の直弟子だと出水は慄いた。出水はとっくにその場を離れる機会を失って、助けを求めて視線を送った国近は真剣な表情でゲームに熱中している。あれは気づいていながら無視している顔だ。はじめに敵前逃亡した唯我はもちろん戦力になるわけもなく、目の前の大人ふたりが心もとなく扉に寄りかかる出水に気遣いを見せるはずもなかった。出水は心底、訓練ブースに残った槍バカを羨ましく思った。
「お前にそんな暇があるか」
 藤原が手に持つ書類を太刀川の眼前に押し付ければ、太刀川の顔がぱっと輝いたあと、すぐに肩を落とした。
「白紙じゃん」
「当たり前だクソガキ。お前の宿題を俺のボックスに紛れ込ませるんじゃない」
「でも東さんから英語が得意だって聞いてたし。少しは手伝ってくれてもいいだろ」
「お前な、まさかあいつにまでこんなことさせてるんじゃないだろうな……。だいたい、高卒の俺が大学の授業内容なんてわかるわけないだろ」
「そこは大丈夫だって!」
 鬼軍曹の学歴は高校までなのか、といらない知識を手に入れた出水は、風向きの良くない会話の流れに半歩後退った。ちょっとバランスを崩しかけたところは誰にも見られていないはずだ。
「……は?」
 空気が凍った。ようやく太刀川も自分の失言に気づいて焦り始めたが、もう手遅れだった。
「……高校生を任務外にまで顎で使っているのか、太刀川。お前のだらしなさは知っていたが、まさかそこまで落ちぶれていたとはな」
「使ってない、顎で使ってないから! そうだよな、出水!?」
 ここで話を振らないでほしい。出水は怒れる軍曹に自隊の隊長を売るかどうか一瞬だけ悩んで、それが致命傷となった。
「太刀川、ちょっと顔貸せ」
 非トリオン体でありながら太刀川の長い隊服の襟首を掴み上げ、藤原は廊下を歩き去っていった。その後ろ姿が見えなくなったあたりであちこちの扉から隊員たちが顔を覗かせる。休日の昼間とあって、ボーダー内で過ごす人間も多くいた。誰か助けに入ってほしかったと、出水は目が合った先輩たちの顔をしっかりと脳裏に焼き付けてから作戦室の扉を閉めた。まず文句を言いたい相手はすぐ後ろにいる。
「柚宇さんー?」
「あはは、ごめんごめん」
 まったく悪びれない調子で国近が手を振る。ヘッドフォンを外すと伸びをして、ぽつりとつぶやいた。
藤原さん、今日もカッコよかったねえ」
「はあ?」
 どこがだと、出水の顔には大きく書かれている。女子の言うカワイイにはついていけないが、カッコイイの対象も理解不能だ。今の出水には、藤原から取るに足らない存在として鼻先で軽くあしらわれてしまった悪い印象しか残っていない。
「あの冷たい感じが堪らないんだよう。私にだけ優しくしてほしーい、みたいな?」
「……俺には、どっちかって言えば大きい風間さんがもうひとり増えたみたいに思えましたけど」
 もちろん出水には風間の方が数倍カッコよく見える。風間は異性として見られるような身長をしていないためにその手の噂をあまり聞かないが、その実、男子陣にはかなり人気がある。歯に衣着せぬ言い回しと相手に求めるレベルの高さから入ったばかりのC級隊員には敬遠されやすいものの、彼が忙しい合間を縫って訓練ブースに足を運べば手ほどきを受けたい隊員たちが列をなす。その上に個人ポイントで無双する太刀川の私生活での手抜きをしばき上げられる貴重な存在として太刀川隊から崇められている風間と、周囲から恐ろしい話しか聞かない藤原の先ほどの様子とが、出水には意外にも重なって見えた。たぶん、あれは庇われたのだろう。ノックに応じて扉を開けた先で見た険しい顔つきと太刀川に向けられた舌打ちが、出水にはどうしても忘れられそうになかったが。態度の悪さでは同じくらい張り合える先輩が学年のひとつ上にもいるが、藤原と接点の薄い出水には彼の心温まるエピソードを持ち得ていなかった。
「どうかなあ、風間さんに対してもあんな感じだって聞くけど」
「……マジっすか」
 無表情の風間が藤原に襟首を掴まえられてぷらんと足先を揺らしている光景が一瞬だけ頭に浮かび、それはそれで恐ろしくて出水は慌ててシャレにならない空想を打ち消した。国近はオペレーター間の情報網によって月見の件の真相も知っていそうだが、出水はいたずらに虎の尾を踏む愚行も控えた。その尾が藤原本人のものなのか、女子隊員のものなのかはまさに踏んでみなければわかりそうにもなかった。

 * * *

 いつも深夜の遅い時間帯に訓練室のひとつが稼働していることを、防衛任務の夜間シフトに入っている者なら誰であっても知っている。かつては鬼軍曹と陰口を叩かれ、今ではそれすら周りに許すことなく現場から離れていった元戦闘員。一部では形を変えて当時のことが噂されているらしいが、未成年が多数を占めるボーダーにあってほとんどの隊員には遠い過去の人間か、あるいはいつも不機嫌そうな顔つきの事務員だと認識されている。C級隊員や中学生などの隊運営に携わっていない者には存在すら認知されていないかもしれない。
 彼の努力が顧みられることはもうないのだろう。頻繁にログの点検を行う諏訪でさえこの目で見るまでは個人的な関心もなかった。戦闘員の少なかった初期のボーダーを支え、あるときからトリオンを著しく失ってしまったという職員のことを。
 諏訪は制御室の管理サーバーを立ち上げ、もはや勝手に動く指先が消し忘れのログがないかを確認していった。はっきりと頼まれたわけではなかったが、焦った顔の藤原を見たときからこれを日課にしていた。同じ隊の堤にも話していない、話すほどのことでもないつまらない単純作業だ。
「は、年下嫌いなんすか」
 諏訪は念のため削除履歴にも目を通して、牌山に手を伸ばしながら驚いたある一局のことを思い出していた。あのときは東の言葉にうっかり気を取られて役を見逃していたことに、終わった後から気がついた。
「だよなあ。普通は気づかないよな」
「隊員のほとんどが藤原の年下になるんじゃないか? 察しろと言う方が難しそうだな」
 冬島が、「しかし俺は嫌われていないのか」と嬉しそうに言って、「そーしそーあいじゃん」と太刀川が適当なことを混ぜっ返す。東は穏やかな顔でひと足早く上がっていた。
「あっ、ずりいよ東さん」
「約束忘れてないよな?」
「へいへい。レポート一枚につき十本勝負でしょ、覚えてますよ」
「逆だこの馬鹿者」
「ええー、じゃあ十本できる頃にはレポート一千枚? そんなに書けないって」
「……ん?」
「太刀川、お前がそうしたいなら好きなだけレポートに埋もれておけ。俺は別に止めやしないさ」
 あの東が穏やかにキレていて、諏訪にとっては忘れがたい夜となった。もう明け方に近かったかもしれない。
 藤原の当たりの強さはボーダー内でも有名な話だが、誰に対しても平等に厳しいためにそれが地の性格だと思っていた。まさか年齢で一括りにされていようとは。東の口振りでは、下手をすればそこらの隊員よりも藤原との方が歳の近い諏訪ですら範疇に含まれているのだろう。
「年下嫌いなあ……」
 思い出しても笑ってしまう。藤原は年長者だからといって高圧的な態度を取ったり、監督的立場を濫用して権力を振りかざしたりしない。むしろ活動報告書への油断ならない眼差しを考えれば、もっとも隊員たちのことをよく見ている職員のひとりに数えられるだろう。特に部隊を立ち上げたばかりの隊長ほど世話になっているはずだ。
 諏訪とてそうだった。今ほど組織体制が整っていない頃にあって、ノウハウの蓄積されていない部隊運営には苦労させられたものだ。藤原の手厳しさには泣きを見ることもままあったが、今思えばその藤原だって隊員たちを監督する立場にはまだ不慣れだったはずだ。
 諏訪くらいボーダー内で歳を重ねていると、そうした組織事情の一端も見えてくる。他の若い隊員にまで同じ視野を持てとまでは思わないが、藤原の姿を見つけてこそこそと隠れる早出の学生服の集団を見つけると、先の言葉がよみがえってちょっと笑えてしまう。
 素知らぬふりをしてやるか、日頃の恨みを込めて彼らに聞いたばかりの情報を耳打ちしてやるか、少し悩むほどには諏訪も藤原の手加減を知らない対応には多少なりとも思うところがある。それも自分たちには何の落ち度もない、年齢のことを引き合いに出されていたのではたまったものではない。
 諏訪は第三の選択肢として、もう少しわかりやすい嫌がらせを決行することにした。
「夜勤明けっすか、藤原さん」
「は?」
 自販機の取り出し口に体を傾けていた藤原が人相の悪い顔で振り向いた。もしここが繁華街の路地裏であれば、相対する諏訪の見た目とも相まって不良同士のガン付け合いに見えただろう。諏訪が後ろにちらりと目をやれば、その場に置いていかれた三輪が急に駆け出して行った友人たちの小さくなる背中を見てぽかんとしている。奈良坂までいなくなったのには諏訪も意外な思いがした。
「三輪に何かあったのか」
 藤原はまさか諏訪がしょうもない嫌がらせのために話しかけたとは思いもしていないようだった。
「えっ、……ああ、あいつは同年代とは物の考え方が違うみたいなんで、さすが若くしてA級隊長を張るだけあるなあと」
「……隊内不和か?」
「思春期の悩みとかそんなところじゃないっすかね」
 藤原が眉をひそめて聞いている。その真剣な表情に、あれはやはり東の盤外戦ではなかったかと諏訪は思い始めていた。
 とても嫌いな人間に対してする顔ではない。むしろ心配して、三輪隊の仲違い疑惑に気を揉んでいるようにも見える。諏訪にとってそれは、ボーダーの規模が今よりこじんまりとしていた時代から見慣れたもので――、などと悠長に眺めている場合でもなかった。
「いやほんと、藤原さんが気にかけるほどのもんじゃないんで」
 懸案事項として記録に残されては少々まずく、諏訪は慌てて手を振った。米屋たちが三輪を置いて消えた原因はなんだと問いただされても、諏訪には鬼軍曹の噂しか吐き出せるものがない。
 今思い返してもつくづく生意気盛りだった頃に、ボーダー設立当時のことを知らないまま意地の悪い尾ひれをつけて噂を放流した当人としては、彼らに対する負い目もあった。鬼軍曹とまではいかないまでも、弱音を吐く新人にまで厳しく接する藤原に対して一矢報いたい男子高校生たちの、それは取るに足らない遊びだった。まさか今でも根強く残り、背びれ胸びれまで増えていたとは思いもしなかったが。誰ひとり白状できる者はいないだろう、隊員たちに先輩風を吹かしているあの風間でさえ。
 気の毒な噂の被害者たちには見えないところで手を合わせている。自分たちの名誉のために付け加えておけば、月見の涙も嵐山の反省会もはじめはそれなりに真実に基づいて作られていたはずだ。太刀川の件については忍田のものと混同されたのだろう、訓練ログを見る限りでは太刀川と真っ向勝負のような立ち回りをしそうにない。むしろあの噂だけは他とは異質で、誰かの作為を感じないでもなかった。
 藤原は諏訪が本当に大した用件で話しかけたわけではないと察すると、さっさと会話を切り上げて立ち去ってしまった。相変わらず仕事外では取りつく島もない。
 だがその手にある缶コーヒーの銘柄を見て、やはり東に担がれたのだと諏訪は結論づけた。ボーダー基地ではどこの自販機でも見たことのあるもので、わざわざ防衛隊員が多く行き交うフロアまで降りてくる必要がなかったからだ。
「年下嫌いねえ……」
 諏訪はうなじをかいて、東をひと泡吹かせるネタについて、そのうち藤原から仕入れてやろうと心に決めた。それからメールを立ち上げ、いつものメンバーに召集をかける。急に彼らと酒を飲み交わしたい気分になっていた。
 もしかすると古株の木崎なら藤原の戦闘員時代のことを知っている可能性もあったが、その話題を提供すること自体の良し悪しについては、普段の澄ました顔を崩してまで制御室に飛び込んできた藤原のことを思えば判断の窮するところがあった。
 諏訪はもう、自分たちの楽しみだけで噂話を消費する年齢を超えてしまっていた。

地で眠る魚 続・了