「おれは寝るから、あとはもうお前の好きにしろ」
 などと言うことを夢うつつに伝えていたらしい。藤原は東がキッチンを使って朝食の支度をしている姿を額に手をあてて呆然と見つめた。昨夜のうちに彼の約束にない訪れを出迎えた記憶もないし、もちろん泊まりの許可を出した記憶もない。しかし東はまるで部屋の主のような顔をして「おはよう」と藤原に声をかけた。
「は……、なに」
「疲れていたんだろ、よく眠れたみたいじゃないか」
 目線だけで促され、ソファに投げっぱなしだった携帯電話で時間を確認すればいつもよりまだ早い時間で、それにしてはたっぷりと睡眠をとった後のように体が軽かった。藤原は通知欄に東からの着信を見つけてため息をついた。
「だからって、ほんとうに好きにするやつがあるか」
藤原の方こそ昨日のことはほとんど覚えてないんだろ?」
 意味ありげなことを爽やかに笑って言って、東が食卓に皿を並べた。
 藤原の手狭な城に唯一あるこのテーブルを食卓と称せたことはあまりない。ひとりで迎える朝に限って言えばまったくないと断言しても間違いではなかった。部屋の隅に寄せられた段ボール箱は日焼けの跡を色濃く残して備え付けの家具と化し、玄関から続く短い廊下の電球は力尽きてからもうどれほど経ったか定かではない。
 その侘しい藤原邸に素晴らしい朝の香りが満ちている。
 フライパンの上でこんがりと焼かれたトーストの上には目玉焼きとベーコンが乗せられ、付け合わせのサラダはコンビニでドレッシングごと売られているカット野菜だった。そこにインスタントコーヒーがついているだけのシンプルな朝食にもかかわらず、藤原は無性に食欲がそそられた。
「早く食いたいって顔だな」
 藤原は隠すように手のひらで頬をこすり、「顔洗ってくる」と言って東の朝っぱらから蜜を垂らしたような眼差しから逃れた。昨日の自分がいったい何をしでかしたのかどうしても思い出せなかった。

 ひとり暮らしのリビングで誰かと向かい合って手を合わせる瞬間の気まずさと言ったら他にない。藤原は慎重に揃えた指先をテーブルの上に置いた。藤原には出勤の時間が確実に迫っていたが、東は勝手に朝刊を広げてのんびりと寛いでいる。下まで降りて郵便受けを確認したのか、そもそも冷蔵庫の中身は空っぽだったはずだから、早朝から外へと出掛けて買い揃えたのか。
 藤原は目の前の状況をどこから受け止めればよいのかわからなかった。
「……お前、自分の研究はどうしたんだよ。発表の準備がどうとか言ってなかったか」
「大学は午後からだ。サンプルデータを急遽もらえることになってな、時間がぽっかり空いたんだ」
 それだけに後の予定が詰まっていて、しばらくは昼も夜もない生活が続きそうだと言う。その最後の休息を同い年の男の飾り気のない部屋で過ごすことに何の戸惑いもないらしい。
「その新しいデータ、うちからか」
 トーストの端を噛むとベーコンの塩っぽい油分が染みていて、ますます空腹の胃を刺激した。水分をコーヒーで補いながらもうひと口と藤原が食事を進めていると、東がやわらかな顔で自身の唇の端を撫でた。
「垂れてる」
 そのままテーブル越しに指が伸びてきそうになって、藤原は顔をしかめて乱暴に唇を拭った。半熟に溶けた黄身で指先が染まっている。
「データはもちろんボーダーからのものだ。長く交渉していてな、まさか提供してもらえるとは思っていなかったからありがたい限りなんだが、しかしこのタイミングでなあ……いや非常にありがたいんだが」
 東は藤原の立場を慮ってか感謝の言葉を二度ばかり念押ししたものの、目の前に横たわったまま頑として動かない研究者の宿敵、つまり自分ではどうすることもできない論文の締め切りを思いやって遠い目をした。ただしその片手にはマグカップがしっかりと握られていて、どこか余裕も感じられる。ボーダーと大学院の二足の草鞋を勤め上げる東にとってこれくらいの修羅場は慣れたものなのだろう。
「教授が喜ぶネタも入っていたはずだから、大学側としてもこれを機に一層の連携を図りたいところだろうな」
「気が早すぎる……上がそう簡単に許すとは思えない」
「俺もそう思っていた。が、どうかな。今回の件を前に線引きも変わったんじゃないか」
 藤原と違い、東はひと口が大きい。トーストをさくさくと平らげると、気になる記事があったのか新聞に目を落として丹念に文字を追っている。長く垂れる前髪を気にして、時折り後ろに掻き上げてはなだらかな耳の縁をあらわにさせている。
 藤原は、穏やかな朝の光景を象徴するようなその姿をしばし見つめた。
「今日のお昼すぐなんだろ、そのデータの受け取り。直接うちに来るのか」
「いや、もう公開を前提にメールで送られてくるはずだが……」
 ふと気付いたように東が顔を上げた。藤原は気まずく顔をうつむけて、パン屑を手のひらから払い落とすと今度は皿に残ったサラダをフォークでつついた。他人の作った手料理をあっさりと食べきってしまうことが、急に後ろめたく感じられた。
「……そうか、ボーダーのことを言ってたわけではなかったのか」
「担当はおれじゃない」
「それは知ってるが……」
 正面に座る東も落ち着きなく目をうろつかせているのがわかる。藤原は観念してフォークで穴だらけになったレタスの芯を口に放り込んだ。酸味のあるドレッシングの味が少しだけ食べ慣れなかった。
「たぶん、お前の欲しがってたデータはおれが前に加工したやつだと思う。本部長に相談しながら非公表情報を段階的にどこまで開示できるか雛形にした覚えがある」
「なるほどな、まさにサンプルデータだったわけか」
「だから数値としては古い」
「だか世間には目新しく映る。ボーダーからの提供と言うだけで注目を浴びるはずだ」
 東は新聞を畳んで端によけると、藤原の空になった皿を満足そうに眺めた。
「さて、俺は藤原に感謝を示すべきか?」
 藤原は顔をしかめた。
「まさか」
「だよなあ」
 東は笑ってマグカップを持ち上げ、軽くなっているのに気がつくと立ち上がった。
「おかわりいるか?」
「ん」
 藤原は自らのマグカップを指で押して、少しばかりげんなりとした。ろくに家で食事もとらないくせに、食器ばかりは事欠かない。使う人間も買い揃える人間も家主を除いてはただひとりだ。
「……お前、昨日は何しにおれの家に来たんだよ」
 キッチンに立った東が、笑いをこらえた目つきで藤原を見下ろした。藤原はそれを不快な顔で見返して、リビングの椅子から立ち上がった。珍しく悠長に朝食をとったため、そろそろ出勤の準備を始めなければ間に合わない。
「いや、悪い。ほんとうに覚えてないんだな」
「おれが覚えてないなら大した用ではなかったんだろ」
「それはどうかな……俺だって藤原に用事があって来たわけではないんだ」
「暇だから来たのか? 珍しく手が空いて?」
 信じきっていない藤原の声に、とうとう東の笑い声が重なった。ボーダーの制服に着替えていた藤原は、クローゼットの内鏡の前でネクタイを締めながら小さく映り込む東を睨んだ。
「言いたいことがあるならさっさとしろ」
「そうか? なら言ってしまうが、用事があったのはお前だよ、藤原。お前が先に電話をかけてきたんだ」
 藤原は眉をひそめた。
「……まさか」
「ほんとうだ。それで何があったかと飛んできてみれば藤原が……」
 そこで急に言葉を切って、東はまた笑い出した。そのそばで薬缶が鳴っている。藤原は大して広くもないリビングを大股で渡ってコンロの火を止めた。まだ笑いの気配を残したままの東は、ふたつのマグカップにインスタントコーヒーの粉と熱湯を手早く入れる藤原の手もとを穏やかに眺めている。
藤原が寝てしまうまで、俺の研究のことをあれこれと心配していたんだ。ボーダーの開示手続きがどうのと……さっき話したこととあまり変わらないな。言ってることは意味不明だったが」
「……おれは担当じゃない」
「わかってる。お前がいなくてもそのうち公開されるデータだったんだろう」
 藤原は薬缶を置いて、横に立つ東を見た。東は何でもない顔をしてマグカップに手を伸ばしている。その素直さが藤原には腹立たしかった。素直に世の中の思惑を受け入れていくさまが。
 東は送られてくるデータの内容をすでに熟知しているはずだ。ボーダーに在籍していれば数値として把握しておらずとも肌で実感している、所詮はその程度のものでしかない。それすらボーダーは慎重に対応しているとも言える。いくつもの厚いフィルターの奥から透かし見て、社会がいったいどのような反応を起こすのか、あるいは波風ひとつ起こさないのかを冷静な眼差しで推し測っている。東がこれから必死に書き上げる論文はその試金石でしかない。日頃からより機密性の高いトリオン実験に取り組んでいる東ならば先刻承知していることだ。
 ボーダーの戦闘員として狙撃手の道を開拓したように、東にとっては大学院での研究も後進のための地ならしに他ならないのだろう。はじめからその考えに殉じているわけでもあるまいに、そのためだけにいらない汗を流して働いているようにも見える。何もかもをその手に引き受けて、いっそ貪欲とすら言えた。
「……だとしたら、データが上から降ってくるまでいつまでも大学に篭っておけばいい。お前が長く留まっているほどボーダーにとっても都合が良さそうだ」
「その場合は藤原が窓口になってくれると楽ができるな。抜け駆けして出世なんかするなよ」
「は、ふざけるな」
 狭いキッチンの中で身じろぐ度にお互いの肩にぶつかりながら、ふたりは湯気の立つマグカップに口をつけた。換気扇が頭上で回っている。
「おれは、お前の名前で載る論文が読めたらそれでいい。だからあとは後輩に譲ろうとか、そんな後ろ向きなことは考えるなよ」
「ああ……」
 東がまた笑って、藤原はさすがにそろそろ気がついた。
「……今の、昨日も言ってたのか」
「どうだろうな」
 横から手が伸びて、きれいに結ばれた藤原のネクタイが引かれる。まるで乾杯するように大きさも形も違うマグカップがふたつの体の間で響き合う。傾けた顔が重なり、絡んだ髪の先まで朝の香りに包まれているようだった。
 短い余韻が途切れても、東が何かを確かめるようにまた唇を寄せてくる。
「このコーヒー、少し薄くないか?」
 藤原は隣の足を軽く蹴った。
「お前のは朝から濃すぎるんだよ」
 コーヒーをひと口飲み下すごとに、家を離れる時間がじりじりと迫っている。藤原は無性に、段ボール箱の中身をひとつひとつ手に取って調べたくなった。何か必要なものが入っているわけでも、大切な思い出が詰まっているわけでもない。少なくとも揃いの食器はどれだけ探しても見つかることはないだろう。
 この家に存在しないものがあることに、ため息のような喜びがあった。

地で眠る魚 続々・了