鳥が空を飛んでいる。あれにもトリオン器官が存在するのだろうかと考えて、藤原は午後の日差しの眩しさに目を細めた。
 学生服に袖を通すのも久しぶりのことのように思えた。遠征先の近界から日本に戻った藤原たち若年組は、牧羊犬に追い立てられる純朴な目をした家畜のようにそれぞれの学校へと送り出されていた。つい先ほどまで誰にも知られることのない極秘任務に着いていた彼らは、校門の脇に立った瞬間、年相応の子どもの顔つきに戻って集団に身を溶け込ませている。
 教科書のページがめくられるかすかなざわめきのなか、眠気を誘う教師の話し声を尻目に藤原は大人たちの願いも虚しく教室を素通りしていた。公立よりも融通が効くからという理由だけで決めた進学先は予想通り頻繁に休む藤原を腫物のように扱ったりはしなかったが、代わりに学習意欲の乏しい生徒に対して関心も払わなかった。階段を登る藤原の後ろ姿を咎める声に勢いはない。
 このままずるずると過ごしてしまえば、せっかく三年まで進級に漕ぎ着けた労力と時間を無駄に終わらせるかもしれない。学歴の欄が他人よりずっと短い行で終わったところで、身内以外の誰がそれを気にするだろうか。あるとすれば藤原と同じ、社会のレールから外れて生きている人間だけだ。
 ぴんと指で弾かれた吸い殻が、フェンスにもたれて座り込む藤原の足もとに落ちた。屋上の端で固まって貧乏くさく煙草を回し飲みしていた不良たちが藤原を見てニヤッと笑った。
 この場でよく顔を合わせている下級生の三人組だ。喧嘩を売っているのか親密さを表そうとしているのか、藤原は判断のつかないまま気だるげに顔の前で親指を下に向けた。即座に中指が立て返される。
「お、喧嘩か?」
 遮るもののないコンクリートの上にもうひとつの影が伸びる。双方を挟んで転がる吸い殻が第三者の手によって拾われた。
 影の向こうからうめき声が上がった。
「げ、東先輩……」
「あんたはお呼びじゃねーんだよ」
「はは、つれないな」
 吸い殻を几帳面にハンカチに包んでポケットに隠した東が屋上で授業をサボる面々に気安く声をかけ、下級生たちからしっしと手で邪険に追い払われている。
 藤原はそれを他人事のように眺めて、これもまた彼らなりのコミニュケーションの一環なのかもしれないと思った。東は誰に対してもフラットで、だから誰からも信頼されている。純真な好意が目に見えて表れていなくとも、そこに悪意は含まれない。
 東は無気力に足を投げ出して座る藤原の隣に腰を下ろすと、手にしていたプリントの束をその膝の上にどっさりと乗せた。
「おも……」
「これは先週の分な。次の連休までに提出すれば、今学期の出席日数はどうにかしてくれるそうだ」
 期限までのハードルが高いような、見返りを考えれば充分に低く設定されているような、見捨てられていないとわかるだけの情けは周囲からかけられていた。藤原は追加で渡された手書きのノートを素っ気なく受け取って、それで首筋を煽いだ。ぬるい風が襟元を揺らす。
「いつもどーも、東サン。お前もサボりか」
「いや、小休憩」
「何が違うんだよ」
 笑って答えない東が、藤原の隣から立ち去る気配もまたない。
 誰かに指摘されるまでもなく、難関大学への進学を目指す優等生の足を引っ張っている自覚が藤原にはあった。東とて何が楽しくて藤原の面倒を見ているのか、珍しい劣等生の存在を物見高く眺めているのだろうかと思う。
 あるいはそこに、親愛の情を感じるときもある。
「今回はどこに行ったんだ?」
「さあ……どっかのクソ暑い砂漠地帯」
「だからか」と、東の手が伸びて、藤原の着崩れした白シャツの襟を引っ張る。指が喉もとに触れ、離れていった。
「日焼けしてる」
「……最悪だ」
 髪にまだ細かい砂つぶが絡んでいるようで不快だった。
 藤原は先日までのうんざりとした日々を思い返してため息をついた。遠征艇外での活動は安全面での理由によってもっぱらトリオン体で行われるが、ときにはトリガーを解除して友好的な態度を示さなければならない場面もある。その時間が無意識に長くなっていたのであれば油断としか言いようがなく、まさに最悪だった。
 一度門を渡ってしまえば気の緩みは生命の危機に直結する。失われる命が自分ひとりのものとは限らない。
 最上たちはいったい学校になんと説明しているのか、藤原は家の都合で頻繁に海外へ渡航していることになっていた。同級生の間では、親の金で遊んでいるとも起業家として世界を飛び回っているとも勝手なことを言われている。どちらもそうした卒業生の例が過去にないわけではなかっただけに、無駄に信憑性高く扱われていた。暴力沙汰を想定していないあたりに、育ちの良さも垣間見えた。
 彼らもまた不良と称するには慎ましかった。しばしば屋上の空気を共有する下級生たちの口から吐き出される有害物質が前途洋々たる青春の空にぽかりと浮かぶが、灰皿代わりの空き缶には炭酸ジュースのラベルか貼ってあるだけだ。アルコール摂取によって得られるいっときの快楽は、引き換えに払わされる対価とは釣り合わないと考えているらしい。嫌いな教師の授業をフケても自作の単語帳をめくるのに余念のないところはどこまでもこの学校にふさわしい生徒の姿と言えた。
 藤原は、酒や煙草や、もっと低俗なものまでいくらでも大人の娯楽を見てきたが、それに溺れる者も賢く利用する者もどちらに対しても理解を示すことできないでいた。
 藤原の鼻先まで流れた紫煙がふわりと形を結び、やがてそよ風にかき消えた。背後の校庭から体育の授業を楽しむ生徒たちの笑い声がどこか夢物語のように聞こえる。
 砂埃が舞い上がる。光と風に目が眩む。
 太陽に焼かれるようだった。暑いわけではない。額に汗がにじむわけでも、喉が渇くわけでもなく、ただこの体が太陽の熱に焼かれているようだった。
 太陽によく似た、白く燃える光源。あの星の生命の源が今でも藤原の体内を燃やしている。
 空高く舞う鳥が番いを探して鳴いている。虫が薄く透き通った翅を広げて屋上のフェンスを平然と越え、それよりもっと小さな輪郭を持つ生きものたちが目に見えないコンクリートの奥深くで脈づいている。
「サンドフィッシュ」と、藤原の口が考える前に動いた。日焼けした肌がちりちりと痛んだ。
「サンドフィッシュを釣ったことあるか?」
 唐突な問いかけに沈黙が落ちた。受験までの貴重な時間を屋上で無為に過ごす東が、勉強以外のことに少しだけ頭を使っているのがわかる。
「……トカゲの一種としてなら聞いたことがあるが、お前の言ってるのはそのことじゃないんだよな。まさか、砂漠で泳ぐ魚を見てきたと言うんじゃないだろうな」
「あれは魚だった……たぶんな。現地の人間は魚だと言い張っていた」
「食ったのか」
「鶏肉みたいな味がした」
「……やっぱりトカゲじゃないのか、それは」
 疑うようなことを言いつつも、東は興味がそそられたようだった。釣り竿を振る真似をして、どうやって砂地に釣り針を潜らせるのかと首を捻っている。実際には銛を使った危険な追い込み漁で、狩りの最中には人死も出るという。
 だから年に一度の祭事の場で神からの贈り物として供された。その後に起こった揉め事はあまり思い出したくもない。はるばる遠征に出かけた先で凄惨な身内争いに巻き込まれ、まったく人間はどこで生きようとも等しく同じ習性を持っている。それが多少の環境変化で変わることはない。
 そうした具体的な遠征先での思い出話も記録用に撮影した映像の神秘的な光景についても、学校の同級生でしかない東に語って聞かせることはできない。
 藤原がこの空白の期間をどう過ごしていたのか、東が知ることは永遠にない。
「本物の砂を泳ぐ魚か。いつか釣ってみたいな」
 鳥が空を飛び、屋上には人間が片手で数えられるほど。これらのトリオン器官からトリオンを吸い取ればいったいどれほどの動力源になるだろうかと考えて、藤原はゆっくりとノートの表紙に書かれた手書きの日本語をなぞった。まだ頭がうまく切り替えられていない。
 その手もとが陰る。首筋に顔を寄せられて、藤原はふっと息をもらした。
「なに。……近い」
 藤原は東の胸を押して引き離した。膝にプリントの束を乗せたままでは満足に動くこともできず、簡単に逃げることもできない。口笛が聞こえて、今度は東が笑いながら下級生たちに向かって手で追い払う仕種をした。
 それを真に受けたわけでもあるまいが、彼らは午後の最後の授業に出るために腰を上げ、藤原と東の前を通り過ぎざまに口々に冷やかしの言葉を投げていった。
「東先輩、この間の模試判定でAもらったらしいすね」
「問題児の世話をしながらそれはやばくね」
「頭良すぎでしょ、マジでおれらと同じ人間すか? 藤原っちも実は勉強できる系だったりする?」
 急に名前を呼ばれ、藤原は軽く舌打ちした。
「……気安く呼んでんじゃねえよ」
 藤原の低い声に、見合わせた三人の顔がニヤっと崩れる。
「こえー」
「お前ら、煙草のにおいは消して戻れよ」
 東の忠告に対しては「ういーっす」と行儀よく揃えた返答を最後に、下級生たちは階段を降りて行った。
 屋上から人影が減っても、藤原はさすがにもう貴重なトリオンを逃がしたとは思わない。
 東が自らの唇をとんと叩いた。
「煙草、お前は吸わないんだな」
 静かになった屋上で藤原がため息をつく。他人の残したにおいにまで気を使ったことはない。学生服のどこかに校則違反の証拠がまとわりついていたとしても、それは藤原の責任ではない。
「前から知ってるだろ」
「いや、屋上によく上がるから不思議に思っていたんだ。教室は嫌いか?」
「……ひとを不登校みたいに」
「お前は不登校生徒だろ」
 やんわりと断言されて、藤原には確かに否定しきれないものがある。教室で授業を受けることは嫌いではなかったが、同級生と何を話せばいいのかわからない。休み時間の潰し方も、世話になっている林藤から申し訳なさそうに呼び出しを受けたときの言い訳作りも、藤原にはいつまで経っても馴染めなかった。
 自分でも不器用だと思っている。彼らの屈託のない顔を見るよりも、何も見えない屋上のほうが藤原の心を和ませた。
「大した話じゃない」
 しばらく黙って、藤原は、それだけではないだろうと辛抱強く待つ隣の気配に観念した。
「……屋上の、ここからの景色が無性に見たくなるから」
 藤原はフェンスに背中をもたれかかせたまま、膝の上のノートをぱらぱらとめくった。東の几帳面な字が並んでいる。学年が上がりクラスの別れた藤原のためだけにいまだに続けられているこの習慣は、まるで思春期の男女の交換日記のようだった。藤原がこの街を離れている間に起こったささいな出来事の断片が、駅前の駐輪場が整備されたことや、クラスでの流行のカラオケ曲など、取るに足らないくだらないものばかりが綴られている。
 東はこれを書き付けているとき、いったい何を思っているのだろうか。
「日本のこの街だけにある美しさが、俺は好きだから。別に教室が嫌いなわけじゃない」
「……そうか」
 隣に座る東が立ち上がって、強情に背を向け続ける藤原の代わりとでもいうように、学校の屋上から望める穏やかな街並みを見渡した。校庭の梢を揺らす風が空をめぐり、やがて肩口を吹き抜ける。
 そこには取り立てて騒ぐほどのものではない、日本のどこにでもありふれた風景が広がっている。いまさら藤原が目を向けなくとも、まぶたの裏に焼き付いている。
「俺にはわからないな。藤原みたいに日本を出てみれば、その美しさってやつも見えてくるようになるか?」
 東の冗談めいた言葉に、藤原は即座に反応した。
「出るべきだな」
 それは心から純粋な、掛け値なしの賛同だった。
「東にはこんな狭い街よりも、もっと広い外の世界の方がよく似合う。さっさと三門市を出ていくべきだ」
「……お前な、たった今ふるさとを絶賛したばかりのくせに、何を言ってるだ」
「俺は好きでこの街に居座っているだけで、それとお前のあいだには何の関係もない」
「友だち甲斐のないやつめ」
 東が笑う。彼の目はもう街の方を見ていなかった。
「意外だよ。藤原は卒業してもこの街に残るつもりなんだな」
 藤原の方こそ思いもしないことを言われて顔を上げかけ、もたれかかるように頭の上に肘を置かれてそれもかなわなかった。
「てっきり海外に渡って二度と日本には戻って来ないつもりなんだと。……そうか、卒業してもこの街に帰れば、お前に会えるんだな」
「わざわざ会いに来なくていい」
「俺が好きですることさ、お前には関係ない……そうだろ?」
 加えられる重みが増して、藤原は抗弁するのも諦めた。目線が見慣れた筆跡の上に落ちる。
 東には三門市から出て行ってほしいと、心の底から思っている。それは強がりなどではなく、本心からの願いだった。
 未来はまだ不確定で、この先どうなるかわからない。自分の心を乱す存在はできれば遠ざけていたかった。
 目を閉じれば山の裾野に広がる家並みが鮮明に思い浮かべられる。そこに住む人間の営みだけが、藤原の守るべき大切なものだった。

 警戒を促す音がヘッドフォンから鳴り響いて、藤原は目を開けた。
 空に鳥の影はなく、地上に人間の姿はない。あるのはレーダーに映る膨大なトリオン反応の数だけだ。
「こちら東、狙撃位置に着いた」
 戦場の隊員から送られる視覚データを、司令室にいる藤原は黙って受け取った。そこから眺める街の景色は昔と変わらず、しかし両者の間には決定的な違いがある。
「目標を捕捉」
 破壊された街並みをトリオン兵が闊歩する。その鼻面を弾丸の雨が降り注ぐ。
 敵兵のトリオンを正確に削っていく技術には誇らしい思いもある。
「残兵の反応あり」
「予定ポイントへの誘導ルートの計算が完了しました」
 コントロールパネルを指で叩く。後方で演習を監督する上司に代わり、藤原はマイクをオンにする。
「地上班は部隊を展開、作戦を開始せよ。狙撃班は持ち場で待機し敵後続部隊の警戒にあたること。以上」
「木崎、了解」
「東、了解した」
 しかしその場所に藤原はいない。藤原自身の目で見ることはもうできない。
 心臓を強く叩く憤りだけがこの場にあった。
「……鳥の目がほしいな」
 隣に座る沢村から一瞬だけ視線を投げかけられ、藤原はかすかに首を振った。何かを否定することはあまりにたやすく、こぼれた残骸を集める作業には虚しいものがある。
 今の東であれば、あの屋上からどこまでも見通すことができるだろう。日を照り返す屋根瓦の一枚、路地を横切る人間の表情ひとつ捉えることができるはずだ。見落とすことはないだろう。
「警告、警告。ゲート発生。新たなトリオン兵の――……、地区Dにおける、トリオン反応の消失を確認しました」
 羨む思いが擦り切れてしまうほどに、狙撃手の目はどこまでも見えすぎている。

地で眠る魚 続々々・了