しぼんだ風船のようなかすれたチャイムが聞こえて、染井吉野はふっと目が覚めた。寝ていた、と意識した途端、じんわりと太ももの裏に汗をかいた。寝転んだ背中が熱い。カーテンが熱風をはらんで大きく膨らみ、扇風機が無言で首を振っている。
 吉野がぼうっとしている間にもチャイムは二度三度と鳴り、吉野が出るよりも早く、隣人が玄関を開けて対応する声が聞こえた。
 サンダルの軽い音と、女のひとの声。
 ドンドンドン、と吉野の部屋のドアが遠慮なく叩かれた。男前の刑事さんが来てるわよ、とドア越しに叫び、すぐに甘えた声で、最近変な男に絡まれて困ってるの助けてよ、と猫のようにねだるところまではっきりと聞こえて、吉野は天井を寝ぼけ眼で見上げながら、女のひとってすごい、と感心した。隣室で箸が落ちる音まで聞こえると評判のアパートで、吉野の元にときたま刑事が訪れるのは有名な話だった。隣で水商売をやっている女も刑事の知り合いができるのはなにかと都合がいいようで、こうして袖を引いて部屋に連れ込もうとする。
「伊達さーん、カギ開いてるよー」
 さすがにそのまま口八丁で隣室になだれこまれては困るので、吉野は寝転んだまま首だけ伸ばしてさして広くない上り口に顔を出した。
 半分開いたドアから見えたアパートの外廊下には、ブルーの警官服を着た伊達がほとんど下着と言ってもいいような姿の女を腕にぶら下げて立っていた。その口元はちょっと困ったように歪められている。
 伊達は見かけによらず優しく手を振りほどくと、ひとり吉野の部屋に入った。ばたんとドアが閉まり、一瞬だけ蝉の声が遠ざかる。
 じんわりと喉が渇いた。本当に暑い。吉野は体温の移った床が気持ち悪くなって体を反転させると、そのままごろごろと狭いリビングを転がって、頭がローテーブルにぶつかったところでようやく止まった。
 伊達は部屋主の自堕落な姿に呆れたようだった。吉野、と伊達が名前を呼ぶ。
 吉野
 吉野は低い声でそう呼ばれるのが好きだった。
「受験勉強はちっとも進んでないみたいだな」
 それじゃあこれはお預けな、と伊達はビニール袋からアイスを取り出して、吉野の晒された首筋にあてた。
「っめた!」
「差し入れ。溶けるから冷凍庫に入れとけよ」
「え、いま食べようよ」
「バカ、これは勉強やってたやつへのご褒美だ。お前寝てただろ」
 これ見よがしに鼻先にぶら下げられてようやく吉野が肘をついて起き上がると、伊達はからりと笑って屈めていた体を離した。すっと立つ姿勢はいつ見ても気持ちが良いほどまっすぐだ。
 男臭い顔立ち。笑うと少し垂れる太い眉に、暑いからと緩められた襟元から覗く首は筋張っていて太い。伊達はいかにも大人の男というふうで、吉野の憧れだった。
 中学生で一人暮らしをする吉野を心配して、伊達はよくアパートを訪ねてくれていた。警察官の制服はそれだけで大家の心象を改善して、トラブルが吉野の脇を避けて通った。無償で気遣ってくれる大人の存在がありがたいものだということを、吉野はすでに知っている。
 もぞもぞと立ち上がる吉野を放って、伊達は部屋の隅に腰を下ろして仏壇に手を合わせた。それは仏壇というのが申し訳なくなるくらい、白いテーブルクロスの上に写真立てと位牌が置いてあるだけの簡素なつくりだった。
 生前の面識はないはずだが、伊達は決まって必ず、そこに座って吉野の両親と妹に挨拶する。あまりにも真摯に目を伏せるので、その間、吉野はいつも黙ってそっぽを向いている。
 立てた膝に頬を寄せて、吉野はやりかけのノートを開いた。気を失う寸前に書いた這うような文字を急いで消した。合わせた手を下ろした伊達が背中を反らしてローテーブルを覗き込む。
「順調か? 今日はなにやってたんだ」
「世界史。もうガイジンの名前なんて覚えられませーん」
 ふざけて笑って、吉野はピンクのマーカーを引いた。
 ビーナスの誕生、ボッティチェリ。ヴェニスの商人、シェイクスピア。ドン=キホーテ、セルバンテス。古代の栄光を夢見た芸術家。美しいものだけを残して、もうこの世にはいないひとたち。
 吉野にとっては、試験が終わった帰り道にはすっかり忘れていること請け合いのカタカナばかりだ。
「案外、こういうのが社会に出て役に立つんだよ」
 テキストをパラパラと片手でめくりながら、伊達が適当なことを言う。吉野が半眼で睨んだ。
「なにそれ。ぜんぜんそんなことないと思うけど」
「お前だって、バイト先で大人と話すことがあるだろ。知ってないとバカにされるぞ」
「こんなこと話さないよ。店長もお客さんも、べつにこんなこと……」
 あれ、と吉野は不思議に思う。持ち替えたシャーペンのノックを叩きながら、俯いていた顔を上げた。相変わらず外は蝉が鳴いていて、吉野の短い襟足を扇風機のぬるい風が揺らす。伊達は頬杖をついて窓の外を見ていた。
 伊達は吉野がアルバイトに精を出していることを知っていただろうか。高校に入学してすぐに始めて、遠く離れて住む後見人のサインをもらうのに苦労した思い出がある。だからできるだけいい子にして、アルバイト先の人間関係はなるべく良好になるよう努めた。シングルマザーでたくさんの子どもを抱えているという後見人の手を煩わせたくなかったから。
 高校、入学。あれ、とまた思う。
吉野。そろそろバイトの時間だろ」
 目の前の伊達の顔がぼんやりと滲んだ。夏の日差しに淡く白く溶けていって、ふと吉野は肩を揺すられていることに気がついた。
 視界が暗い。冷気がすっと首筋を撫でた。
 いつのまにか腕の間に伏せていた顔をのろのろと持ち上げると、日本人には珍しい色合いの瞳と目が合う。爽やかな夏のブルー。
 だれだっけ、と一瞬考える。
「あむろさん……」
「ごめんね、そろそろバイトの時間かと思って」
 心配そうに吉野を覗き込む安室の顔が、遠い夏の記憶と重なる。喫茶店の外では蝉がうるさく鳴いていた。
染井くん?」
 まだぼうっとする吉野を安室が呼ぶ。
 吉野
 遠くで低い声が名前を呼んでいる。
 夢を見ていた。
 吉野はたったいま夢で会った伊達の顔を思い起こそうとした。現実に生きる吉野にはもう、記憶が薄れて曖昧になっているそれを。先ほどまではあんなにはっきりと思い描けていたはずなのに、思い出そうとすればするほど、その姿はいつか街ですれ違った見知らぬ警察官の背中に上書きされていく。
 背後のボックス席で、暇を持て余した学生が声を上げて笑っている。
 無意識に右手の親指が見えないシャーペンのノックを叩こうとした。
 高校受験に向けて本格的に忙しくしていたあの頃。思えばあの夏の日以来、伊達はぱたりとアパートに来なくなった。だから、吉野、と親しく名前を呼ばれることは久しくなくなっていた。
 本当は、だれかと一緒に高校入学を祝いたかった。カギをかけろ、夜道は歩くな、野菜を食え、たわいないことであれこれと心配をかけられたかった。勉強とアルバイトに明け暮れる毎日で、いつのまにかその思いも押し流されてしまっていたけれど。
 うつろに泳ぐ視線を追いかける目に気づいて、吉野は顔をカウンターの奥に戻した。青い瞳が吉野を見ている。端正な顔立ちがかすかにいつもと違う色を帯びていた。
「もしかしておれ、なにか寝言言ってました?」
 それとも涎でもついているのかと、吉野はわざとらしくおしぼりで口元を拭った。
 安室が一つ瞬いて、グラスを並べる手をそのままにいたずらっぽく笑った。
「そうだね、誰かの名前を呼んでたかな」
「……うわ、はずかし」
 吉野は安室から視線を逸らした。
 伊達さん、と声なく呟く。
 いつかまた伊達と出会えたら。しあわせな夏の日の続きを夢想する。
 いつかまた出会えたら、そのときはありったけのありがとうを伝えたい。辛くて苦しくて、でもそれをだれかに見せられるほど子どもにもなれなかった吉野のそばに、黙って寄り添ってくれてありがとうと。そしてもし許されるなら、どうしていなくなったんだと子どもっぽく詰め寄って文句を言ってみたい。伊達の困った顔をもう一度見たかった。
 吉野は少しゆるんだ頬をかいて、それからアルバイトの時間がいよいよ迫っていることを思い出すと、慌てて荷物をまとめ始めた。
 だから、吉野は気づくことができなかった。
 カウンターの奥で、安室が悼むようにそっと静かに目を伏せていたことに。安室は吉野が思う同じ男を、全く違う表情で思っていた。
 吉野が感謝の気持ちを伝えるすべをすでに失っていると知るのは、きっとずっと先の話で、もしかしたら永遠に来ないのかもしれない。世界はそうやって、大人の隠しごとだらけで回っているから。
 ボッティチェリ、シェークスピア、セルバンテス。淡く弾ける、ひとときの夏の安らぎ。

消えゆく空は呼吸を止めた・了
(タイトルはそれでは、これにてさんより)