オリガの持つセキュリティーカードのレベルは、天才クラブの名声にひかれてやってくる観光客のそれよりもずっと低い。彼女が宇宙ステーション「ヘルタ」の研究者として正式に迎え入れられてからもう数年は経つが、毎年提出する研究論文の内容が認められてII級スタッフに昇格した今でさえも立ち入り制限に阻まれる区画は多くあった。
「うそ、今日はこっちの通路も通れないの?」
 表示されたエラーコードの文字に、オリガはがっくりと肩を落とした。その脇を顔見知りのスタッフが同情する眼差しで制御装置にセキュリティカードをかざしながら通り過ぎていく。彼らには行く手を阻む不可視の壁は存在しないし、日々の決まった経路を変更する必要性にも迫られていない。
 この日、オリガはすでに一度フロアを変えて挑戦していた。昨日通れた通路が今日には封鎖されている、今日使えた会議室が明日にはシステムから弾かれる。そうした事態が日常的に頻発し、新人の同僚たちですらもう慣れたように応じていたが、オリガはその度にぐったりとした気持ちを抱いていた。自分のためだけに用意されたエラーコードはできればもう見たくない。
 ことに「ヘルタ」が反物質レギオンに襲撃されてからはひどいありさまだった。一本道の廊下の前からも後ろからもエラーコードと同じだけ特有の警告音が近づいてきたときなどには、普段はオリガに親切なスタッフも、まだフラッシュバックする暴力的な脅威に気が滅入り、後片付けに通常業務が圧迫されるなかでの取らざるを得ない対応へ、忌々しげに舌打ちをしていた。
 今もまた、無情な文字列の前に呆然と立ち尽くすオリガの後ろから耳をつく電子音が聞こえる。全景システムに組み込まれたメッセージが「それ」に警告を促している。
 銀河を漂うこの場所にオリガがはじめて足を踏み入れたとき、宇宙ステーション「ヘルタ」の所属スタッフに課された対応義務の一斉通達は、非常に珍しいことに所長のアスターからではなく、「ヘルタ」の真の主人であるミス・ヘルタそのひとの署名によって行われた。だからこそ重々しく追記されたこの禁を破る者はまずいない。
 にもかかわらず、警告音は一向に遠ざからない。むしろのんびりとした歩調で近づいてさえいる。
 この音の持ち主は規則に不慣れな試用期間中の新人か、それとも善良な観光客に紛れて侵入した不届き者だろうか。ごくまれに、不在がちなヘルタのことを侮り、お嬢さま然としたアスターのことを軽視する窃盗犯が防衛課の手によって捕まっている。彼らはスターピースカンパニーの手配書に記載するまでもない小物だが、犯した罪は当人には推し量れないほどむごたらしい。オリガの知る限り、そうした犯罪者は自らのしでかした過ちに気づく前に、正常な精神を失っているからだ。
 オリガは内心で怯える自分に喝を入れ、意識して両眉をつり上げて後ろを振り向いた。
「そこのひと、止まりなさい。警告音が聞こえないの」
 だが、オリガの威嚇は失敗に終わった。振り向いたとたん怯えの表情が顔全面に表れる。
 思わず後ずさった足の踵が行き止まりにぶつかった。
「こんにちは」
 女性にしては低く落ち着いた声がオリガに声をかける。あまりにも凡庸な、その高い声望とは不釣り合いなほど耳に残らない挨拶の言葉を投げかけてくる。
 耳が言葉を受け付けないのはそれだけが理由ではない。相手は観光客でも侵入者でもなく、そんなものを想像した愚かな自分をオリガは呪った。
「あなたは……」
 通路の先に立っていた人物こそ、我らが知恵の領土を壊滅の尖兵から守り抜き、天才ヘルタから並々ならない関心を抱かれている宇宙ステーション「ヘルタ」の英雄だった。
 そして目下のところオリガの天敵でもある。
「きみが応物課から研究対象に指定されているオリガ、……だよね?」
 不運なことに、彼女は目的を持ってオリガと接触を図ろうとしていた。
 星穹列車の新たな乗客、その身に世界の謎を宿した女性。星、と旅の仲間たちから親しげに呼ばれているのを知っている。星。その名前をオリガはしっかりと脳裏に刻み込んでいる。
 彼女はヘルタやアスターから何の警告も受け取らなかったのだろうか。オリガと星が出会うことによってどれほど悲惨な状況が再現されうるのか、彼女たちが予想していなかったとはとても思えない。
 つまり、星はその警告を無視したのだ。「ヘルタ」に忍び込む奇物窃盗犯よりもなおタチが悪かった。
 オリガは歯を食いしばって物言わぬ背後の扉に体を押し付けた。
「ねえオリガ、聞こえてる? それとも人違いだった? あなたはただの扉愛好家?」
「お……お願い、これ以上近づかないで」
 わずかに空いた唇の隙間からこぼれた言葉は情けないほど弱々しい。オリガの怯えの混じった懇願に、星がようやく足を止め、にっこりと安心させるように微笑んだ。ぎりぎりで許容できるふたりの物理的な距離間に、オリガも少しだけほっと胸を撫で下ろす。
「緊張しないで、すぐに終わらせるから」
「……あっ、うそでしょ!」
 すらりとした脚の筋肉が無機質な通路の上を躍動する。一挙に距離を詰められて、信じられないと驚愕に引きつったオリガの顔が全景システムの高性能な映像に残像として残された。
 オリガの体はすでに星の腕の中にあった。星がオリガの体を捕まえたのではない、オリガの体が自らの意思に逆らって、というよりも物理法則に逆らって、星の方に吸い寄せられたのだ。さながら惑星の引力に抗えない宇宙船のように、オリガの鼻柱が星の胸に激突した。
 お互いに痛みでしばし呻いた。
「きみは見た目よりも情熱的なんだね……」
 支えるように星の腕がオリガの背中に回されるまでもなく、ふたりの体はぴったりと寄り添っていた。はたから見ればあらぬ誤解を招きそうな体勢だったが、鳴り響く警告音を聞けばスタッフの誰もが納得の色を示すだろう。
 すべては星の身のうちにある星核が引き起こしたことなのだと。
 もう離れられない、とオリガは絶望した。
 オリガには、彼女にとって不幸なことに、ある種の意思を宿した物質へ強制的に引き寄せられる因子を体内に持っていた。強制的に、物理的に引き寄せられる運命にある。
 この磁石と砂鉄によく似た関係は、まずはじめに故郷の星が滅亡の危機にさらされるさなかで発現した。そして星核の暴走とともに生まれた場所を追いやられると、次にたどり着いた建創者の支部で彼らの所有するありとあらゆる奇物を破損させるにいたった。
 星間を股にかけて散財する心根の優しい資産家と奇物収集に糸目をつけない希代の天才が彼女に手を差し伸べなければ、今頃オリガは莫大な負債を抱えてクリフォトの高貴な理念を力のない目で唱えていたことだろう。
 そのために、オリガは宇宙ステーション「ヘルタ」の地理課II級スタッフであり、応物課の興味深い研究対象であり、スターピースカンパニーから買い取られたアスターの所有物であった。
 星の指が自らの胸に押し付けられた会ったばかりの女性の髪を梳いた。あれほど嫌がっていたオリガの体は今や星の腕の中で静かに収まっている。
「私の星核はここにあるんだね」
 フルスイングの一打で壊滅者を撃退させたという豪快さからは想像できない優しい手つきに、オリガは恥ずかしくなって目を伏せた。
 穏やかな心臓の音が聞こえる。星核が暴走する気配は少しも感じられない。
 気を抜いてもいいのだろうか、とオリガは自問した。「いいよ」と穏やかに返ってきた答えにオリガは安堵しかけた。
 そしてかなり遅れて驚愕した。
 オリガはまだ、どんな言葉も形にしていない。
「……え?」
「きみの声は“時空のプリズム”みたい。知ってる? 模擬宇宙で食べようとして食べられなかった穴だらけのチーズ。誰も食べたことがないなら、私が食べてみたかった」
 知らない、と声に出すにはあまりに恐怖がまさった。星の指先がオリガのつむじを見つけて親密そうにそこをつつく。
「すごくリラックスできる。これが星魂同調の原理なんだね、ヘルタに教えてあげたら喜ぶかも」
 離して、という声にならない叫びは、またしても目の前の人物の耳に容易に拾われた。
「どうやって離れるの?」
 どうやっても、何としてでも、オリガはこの未知の怪物の腕から逃れたかった。
 オリガの頭の中の考えがそっくりそのまま流れ込んでいる、そのことそのものはきっと彼女の責任ではないのだろう。オリガが自ら望んで故郷の星を滅ぼしかけたわけではないように、彼女が望んで星核を宿しているとは思えない。
 それを理解できる理性はまだ残っていても、嬉しそうに頬をゆるめる彼女の奇態に安心できる要素はまったくなかった。
 オリガが奇物や星核から離れるためには、そのもの自体の役割を破壊するしかない。だが救亡の英雄に対して、しがない研究者でしかないオリガに果たしてそんなことが可能だろうか。
 星が優しく眉尻を下げて微笑んだ。そんな顔をされたところで、今さらくらりとめまいを覚えたりしない。
「私が守ってあげるよ」
 すでに手遅れなところまで来てしまっている。
 囁かれる睦言は繰り返される警告音にかき消され、防衛課の隊員を引き連れて乗り込んできたアーランにも届かなかった。
 彼の耳に入らなかったことを、オリガは心の底から安堵した。今度こそほんとうに、間違いなく安堵できた。
 オリガが宇宙ステーション「ヘルタ」から旅立つ選択を自ら望んでするわけではないと、彼女たちに悟られたくなかったからだ。星核に触れる時間が長引くほど、オリガの体内に異変が起こっているのがわかる。裂界の侵蝕現象とはまた異なる、体そのものが作り変えられるこの感覚に心当たりがあった。
 進むべき道はもう開かれてしまっている。きっと今日このときではなく、彼女がよりにもよって飽くなき世界の探求に身を捧げる「ヘルタ」に忽然と現れたその瞬間から決まっていたのだ。
 昔、姫子が言っていた。「あんたは英雄よ」と。故郷の誰もがそれを認めなくとも、ナナシビトはあんたの勇気と行動を讃え続けると彼女は約束してくれた。
 再び今、星核がオリガをひきつけている。人間の形をした星核の恐ろしさを骨の髄まで味合わされている。あの頃とただひとつ違うのは、そこに「世界」が広がっていると、研究に打ち込めばいずれ世界を満たす神秘的なエネルギーに触れられると知ったことだ。
 オリガは腕を伸ばして星の背中に触れた。
「守らなくていいから」
 いつまでも開かれなかった扉の向こうからアスターが顔を覗かせる。オリガにはもう、言葉を声に出す必要がなかった。
 守らなくていいから、私を離さないで。
 返答は、触れ合う体の内側にまで染み渡った。
オリガ」と、災厄によって住むべき世界から弾き出され、星々の間を寄る辺なく彷徨うしかなかったオリガを救った優しい少女が彼女の名前を呼ぶ。
オリガ、どうしちゃったの? まさか星とくっついて離れられなくなったの?」
「そんなところ」
 星はオリガの体を抱き上げると、目を丸くするアスターに向かって、聞く者すべてが冗談と捉えるようなことを飄々と言ってのけた。
「ねえアスター。ほしいものがあるんだけど、いくら払えば足りると思う? 競り合うライバルは銀河一のお嬢さまだよ。それともアスター、きみが私の出資者になってくれる?」
 きっと自らの収集物を勝手に持ち去ろうとする星に対して、ヘルタは法外な値段か難解な任務をふっかけてくるだろう。そしてオリガには一言だけこう言って寄越すのだ。
「あなたの好きにしたら?」
 人形の口の動きまで精巧な自らの想像にオリガはくすりとだけ笑い、星の肩に頭を預け、星穹列車の車内でヴェルトのステッキによってふたりが切り離されるまでのほんの短い間、故郷を立ってからはじめて深い眠りについた。

雨降り夜の、明日が寒くないといい・了
(タイトルはまよい庭火さんより)