深い海の砂底まで見通せるのではないかと思うほどの光が頭上から差して、早坂は痛みにも似た眩暈を覚えた。雲の上の回路を電流が走り、蛍光灯の明かりが馬鹿みたいにゆっくりと瞬く。
 まぶたの裏にはまだ曳航する白い波の残滓が漂っているのに、意識は深く沈んでいたいのに、明滅するリズムに合わせてその足音もそっと静かに歩み寄っている。
 早坂が両腕のあいだに伏せていた顔を上げると、白い粉を斜めに吹いた黒板がまず視界いっぱいに入った。それからぎこちなく腰を折り曲げて、眩しい光をやわらかに遮る影がある。
「すまない、起こしたか?」
 見覚えのある顔だった。感情の薄い眼差しがそっと早坂の上に落とされている。
 隣のクラスに転校してきたばかりの村上だ。転出超過の続く三門市にあって、季節外れの転校生はそれだけで目立っていた。
 だが早坂にとってみれば、彼のおろし立ての学ランよりもなお印象深いものがある。彼の手にはいつも、切っ先までゆるやかに湾曲する片刃の剣があった。
 今はない。彼の手にはノートとペンケースだけがある。ふたりきりの空き教室のなかで、村上が困惑したように突っ立っている。
 早坂は起こした体を椅子の背もたれに預けた。開いたドアの先から始業のチャイムが鳴っている。生徒たちの声や椅子を引く音がゆるやかに収まり、村上の首筋がそわりと動く。
 早坂はそっと息を送り出し、透き通った空気に泡が立ち上らないかを確認した。肺が胸の奥で上下する。
「授業、始まったけど」
「ああ……」と、村上がわかりきっているにも関わらず、頭をめぐらしてカーテンの閉じた静かな教室を見渡した。「次の移動教室はここでやると聞いたんだが……」
 困っているが、焦ってはいない。まだ顔馴染みの少ない学校の授業をひとつ遅刻することが確定した今でさえも、泰然として見える。
 早坂は丸太の上で日向ぼっこしながら漂流する陸亀を発見した心持ちでまぶたを押し上げた。早坂には、村上が誰もいないはずの教室にいる理由をもうほとんどつかめていた。
「オレのクラスメイトが誰か来なかったか?」
「それなら第二のほうだろ。こっちはスクリーンの機材が壊れてからずっと使われてない」
 村上はそのことを初めて聞いたような反応を示し、「第二か」と心もとなくつぶやいた。
 村上のゆったりとした話し方に、早坂の体は少しずつ海のなかに引き戻されている。頭上の輝く水面が見えない声の波に触れて揺らいでいる。
「……迷子?」
「そうみたいだ」
 きゅっと引き締まった口もとから広い額にまでさざなみのように広がった静かな笑みが、深い海の底にまで浸透する。
 息がまた漏れる。それは何かを確認するためでのものはない。
 早坂は立ち上がりもせず、目を閉じて、彼のための道順を口にした。

 それからは、クラスが違うにも関わらず早坂と村上はよく顔を合わせるようになった。それも周囲に人影のないときに限ってふたりは示し合わせたように同じ場所に足を向けていた。
 廊下の隅や、西日の差す踊り場、裏門の陰などで。
 その日、雨の降り頻る視界の悪さのなかで先に相手を見つけたのは早坂だった。早坂は特に行き先を変えることもせず、短い軒下伝いに校舎をぐるりと回って、重いボールの弾む音の響く体育館の裏手に出た。
 村上がそこでひとり膝を抱えてサンドイッチを飲み込んでいた。短い庇の向こうでは、今しも雪に変わりそうなほど濃厚な冬の気配が漂っていた。
 目が合って、先に声をかけたのも早坂だった。
「いじめ?」
 風が吹いて地面のコンクリートに深い色を刷く。早坂を見上げる村上の上履きにも水玉を作る。
 村上の喉が小麦粉の塊を急いで体内に送り込み、溜まった空気をごほりと外に吐き出した。
「図星か」
「待ってくれ、違う……」と言いつつ村上はまた咳き込む。丸まった背中が余計に自らの影と近くなる。
 早坂は項垂れる短い髪の頭を跨いで渡り、その先にある自販機に小銭を入れた。威勢良く点灯したランプのほとんどには欠品の印がついている。早坂は残っている商品のボタン全てを両手を使って押さえ、肘を折り曲げて体重を乗せた。
「オレは、その……他人と上手く付き合っていくのが苦手で、だからたまにはここで……ひとりは苦じゃないから」
「ああ、お前いっつもひとりだもんな」
早坂も同じなのかと思っていた。ひとりが嫌いじゃないんだと。……オレはいじめられているように見えるのか?」
 村上がぼそりとつぶやく。ランプのどれかの色が変わり、体育館のコート上で歓声が上がると同時に何かが落下する。早坂は取り出し口のふたを開けて缶をつかむと、まわらない舌先に苦労する同級生の名前を呼んだ。
「村上」
 影の先端が伸びる。
「ちゃんと取れよ」
 缶のなかで液体が傾く。ふたりの目がひとつのものに集中する。
 早坂の狙い通り、缶はきれいな放物線を描いて村上の手のなかに落下した。学校の誰も買っているのを見たことのない、派手な色をした栄養ドリンクだった。
 早坂は再び自販機に小銭を入れると、今度は迷いなく緑茶のペットボトルを選んだ。
「友だちまだできてねえの」
「いや、そんなことはない」
 戸惑いに満ちた目で缶のラベルを眺めていた村上が、付き合い下手の言い訳をしどろもどろに説明していた先ほどまでの様子に反して奇妙なほどきっぱりと否定した。
「オレみたいな人間にも親切にしてくれるやつがいるだ」
 早坂はその場でペットボトルのふたを開けた。寒さに赤らんだ指先がじんわりとあたたまり、飲み口からかすかに揺らぐ温度を感じる。空に広がって長く伸び、そして縮んでいく。
「じゃあ、もう迷子にならなくて済むな」
「ああ」村上の口から笑い声がもれる。プルタブを指で引っかく音がする。「校内図はもう覚えた。見取り図が見れない場所では……そいつに案内してもうらことにするよ」
「それ、うまい?」
「……いや」村上は缶のなかの暗がりを覗き込み、あまり減っていない中身を揺らした。「いや、まずくはない」
「今度俺にも奢れよ。それ以外のやつで」
 村上は嫌な顔ひとつせずに頷くと、膝のパンくずを払って立ち上がった。軽く首を傾げて早坂を見る。
 あまり変わらない表情のなかで、目だけが次の行動を促している。早坂が動くのを当然のように待っている。
 内向的な自己紹介はまったくどこかへ吹き飛んでいるようだった。
 早坂はペットボトルにそっと口をつけ、ぬるくなった中身をほとんど減らさずにキャップを閉めると村上の隣に並んで歩き出した。村上の片方の肩がわずかに濡れ、校舎に着くまでにふたりのあいだを重たい缶が行き来した。

 *

 村上の表情が物憂げに沈み、そして再び明るさを取り戻したのも雨の降り続ける季節のことだった。学年が変わり、雨に含まれるにおいも変わっていた。体育館裏で会うことも、カーテンの閉めきった空き教室の前を村上が偶然通りかかることも近頃ではなくなっていた。
 その代わり、早坂は面倒な相手に面倒な場所でつかまってしまった。
 背の高い当真がボーダー本部のラウンジにいる早坂を目敏く見つけていた。
「よっ、最近見ねーと思ったが、まだボーダーにいたのかよ。受験戦争は諦めた口か?」
 出会い頭からいきなり繰り出される耳の痛い話題に、早坂の機嫌はなめらかに下降の一途を辿った。背中をソファの生地がすべり、太ももがほとんどテーブルの下に隠れた。
「進級すら危ぶまれた当真に言われたくねえな……」
「いいじゃねえか、一緒にボーダー推薦もらおうぜ」
「お前と同列に見られたくない。せいぜい国近とでも偏差値の低い会話しとけよ、あいつならお前のお受験戦争にも付き合ってくれるんじゃないのか」
「おっと、そりゃそうか。A級を経験したことのない早坂には俺たちの頭脳戦についていけねーモンなあ? 嫉妬は見苦しいぜ」
「お前はまず日本語を理解しろ」
 辛辣に腕ごと早坂から払い除けられ、のけ反った当真の体がわざとらしくシナを作る。無駄に長い脚をさらに長く見せ、手の甲を頬にあてる。暇を持て余す当真の次なる獲物の目星はすでについていた。
 ご立派な隊室に引っ込んでゲームでもしてろ、と早坂は内心で毒づき、次に聞こえた名前にぎくりと体を強張らせた。
早坂ってばひどーい、真子ちゃん傷ついちゃった。荒船クン慰めてくんないー?」
「こっち見るな、馬鹿がうつる」
 対する相手はそっけない。友人と連れ立って歩いていた荒船が、雑に手を振って当真を視界から追い払う。そうやって隠しても、品のない裏声によってすでに耳目を集めていた。
 懲りない当真がわざとらしく肩をすくめた。
「おいおい、どんな理屈だよ。あんなに射撃訓練見てやってるのによお、酷い言い種じゃねーか。早坂もそう思わねえか」
「うるさい、俺を巻き込むな。勉強できないなら空気だけでも読んでろ」
「笑えるくらい機嫌悪いな。もしかしておまえ、また本部に移籍するよう上から命じられたか? 暇してんならうち来る? 枠は空いてるぜ」
「真木さんへの生贄役だけはぜったいやらねえ」
早坂、ランク戦に復帰するのか」
 見えないソファの向こうから、てっきり立ち去っていたと思われた荒船に声をかけられて、早坂は口を噤んだ。
 ふっと当真の視線が動く。ソファにずるずると沈む早坂を見て荒船の眉が上がる。
「村上はどーよ? お前らこそ喧嘩してたんだろ。合同訓練に荒船が現れるたびに、こっちはその話で持ちきりだぜ」
 当真がまた何か面倒なことを言い出して、荒船がそれを遮ろうとして、しかしはじめに口を開いたのは荒船の後ろにいる村上だった。
早坂
 村上が頭をめぐらし、順繰りに彼らを見つめる。ソファの陰で息をひそめる早坂と、それに絡みつく当真、そして自分のそばにいる荒船を見て、また早坂
 本部にカーテンはない。まともな電力が通っているかも怪しい。
 村上が人気の多いラウンジの端でぼんやりと突っ立っている。
「ボーダーの隊員だったのか?」
 困ってはいないが、焦っている。
 その焦りは早坂のなかから絶えず生まれている。
 残念ながら、今日に限ったことではない。B級上位で鳴らした隊が解散し、行き場の失ったあの日から、早坂のトリオンキューブは分割されることもなく海の底に沈んでいる。本部を離れ職務から解放された今も、焦りは気泡のように次々と浮かび上がっている。
 早坂は一瞬押し黙り、それから空気の塊を喉から押し出した。そうしなければ誰もこの場に張られた沈黙を破らないと思ったからだ。
「……真子ちゃんって、なんか真木さんに似てないか?」
「そこじゃねーんだよなあ」と呆れる当真の唇の折れ曲がった顔を見上げて、早坂は鰓呼吸で窒息する魚の気分を味わった。

 早坂くん、と几帳面に呼ばれていた。今はもういない隊長から。彼以外の指示で動くことを早坂は少しも想定していなかったし、その現実を受け入れられなかった。正隊員に上がる前から勧誘され、彼のために射手の道を選んだ。他の誰のためにも弾丸の軌道を弾く気にはならなかった。
 隊長から就職のためにボーダーを辞めると伝えられたとき、早坂もそのあとに続こうとした。彼のいないボーダーに少しも未練はなかった。
 それが今になってもまだここに残っている理由は、ただ単に、どこにも行くあてがなかったからだ。いつでも辞められるボーダーに所属していることを、新しくできた友人に告げることもしなかった。
 早坂は顔見知りのオペレーターがそばを通りかかるたびに、ときに優しく、ときになだめられるように「そこまで悩んでいるとは思わなかった」と声をかけられていた。拷問に等しかった。
 情報の伝達速度だけは速いくせに、信頼性は大いに欠けていた。軍隊組織としての問題点を声を大にして提唱したい。
「悩んでねえよ」
 早坂の返事を誰も聞いてはいなかった。
「あ」と、遠くで犬飼が早坂をわかりやすく指差した。「鋼くんを泣かせたやつがいる」
 犬飼はそもそも早坂に何か痛烈な皮肉を考えさせる時間すら与えなかった。
「お前」犬飼の姿が見えなくなったあとで、早坂はぼそりと言った。「泣いたのかよ」
「……泣いてない」隣に座る村上もぼそぼそと答えた。
 テーブルを挟んだ向かいのソファには誰もいない。それだけに早坂の視界はよく開け、周囲からもよく見えていた。
 早坂は気まずく隣から顔を逸らし、通路の向こうで知った顔と目が合うたびに席を蹴って帰りたくて堪らなかった。
 その早坂を引き留めるような声が落ちる。
「ボーダー、辞めるのか」
 つい先ほどまで学校の同級生がボーダーに在籍していることすら知らなかった村上が、漠然とした未来のことについて口にした。
 早坂は誰からの反論も許さないような断固とした言葉を使おうとして、結局のところありきたりなものしか思い浮かばなかった。
「……この時期に、勉強のほうに専念するってのは珍しいことじゃないだろ」
 冬が終わる前に、早坂は予備校に通い始めていた。ほんの数年先のことではない、もっと果てしなく広がる未来を選びたいと思っていた、ほんとうは。それが逃避につながるとは考えたくもなかった。
「俺のせいか」
 沈んだ声に、早坂は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。こうなることを予期していたために、早坂はボーダー内で村上との鉢合わせを避けていたのだ。
 胸の奥がごぼごぼと音を立てている。早坂はそれを無視して言った。
「バカじゃねえの。お前がこっちに来る前から辞めるつもりだったんんだよ。忍田さんが、本部長が進路決まるまでしばらくは支部所属でもいいからボーダーにいてくれって、だから俺は……」
 勢い込んで並べた言葉の先が迷子になる。
 大学受験が終われば、それからどうするのか。そもそも早坂は、受験する大学すらまだ決めていなかった。一年先の未来すら宙ぶらりんのままだ。
「オレがいたから、残るのを悩んでいたんだろう」
「だから……」
「オレのことを聞いたから。サイドエフェクトを知った早坂が……」
 声が途切れる。村上が開きかけの口のまま早坂を見る。
 見ているのは村上だけではない。
 早坂が握った拳でテーブルを叩いていた。天板がふるえ、握った指先がふるえている。
「俺は悩んでんじゃねえんだよ……」
 正直なところ早坂は、村上の噂を聞いて、彼のサイドエフェクトが何であるかを知って、はじめはこれでボーダーを辞める理由ができたと思っていた。彗星のごとく三門市の外から現れた彼の存在がぐずぐずと決めかねる背中を押してくれたとさえ思っていた。
 雪混じりの雨を隣で眺めながら、村上がどんな人間であるかに気づくまでは。
 彼は他人のために肩を濡らすことができる。
「だから、逆だって言ってんだろ! そうやってお前がぐだぐだ悩んでるから俺はボーダーを辞めなかったんだよ。サイドエフェクトが何だ、記憶力が他人より抜きん出てるからどうだって言うんだよ、だったら一度でもいいから俺の隊長に勝ってみろよ!」
「いやー、それは無理だろ。おまえの大好きな隊長はもうボーダーにいねーし」
 急に第三者の声がして、早坂は首の筋を違えるほどの勢いで振り返った。
 後ろの席から、三つの顔が早坂たちを覗き見ていた。
「言ったろ、鋼。自惚れんなって」
「えー、そもそも早坂が鋼くんからこそこそと隠れ回らなければ済んでた話じゃない?」
「青春って感じじゃねーか」
 ぽかんとしている村上と、苛立ちが頂点に達してむしろ表情のない早坂の顔が三人分の笑いを宿した目に晒されている。
「……お前らいつから」
 考えるまでもなく当真と荒船ははじめからそこにいたし、犬飼はわざわざ遠回りして早坂の視界から一旦消え、他人を揶揄う絶好の機会を逃さなかったのだろう。
「ま、早坂は俺に感謝すべきだな」
 自慢のリーゼントを両手ですっと撫でつけ、当真が口の端をつりあげる。クールぶっていた荒船が迷惑そうに体を避け、その背中にぶつかった犬飼が男三人の並んだ狭いソファにしがみついて笑いながらバランスを取った。
「ねーねー、あそこで風間さんがすごい顔でこっち見てるよ」
「お前らが遊んでるからだろ。どっか行け」
「いやいや、明らかにさっき早坂がテーブルを殴ったせいでしょ。早く謝ってきたほうがいいんじゃない?」
「俺はなんにも壊してねえ」
 風間の近くにいる菊地原が何事かを耳打ちしているのが見えた。後ろの三人が急に用事を思い出したように立ち上がり、早坂は肩をつかまれて引き止められた。
早坂」と村上がいつものようにのんびりとした口調で早坂を呼ぶ。「オレも来馬先輩がいなくなると悲しい」
「その話、今するか?」
「来馬隊の解散が宣言されれば、オレも路頭に迷った気持ちになるのかもしれない。今度こそ泣くと思う」
 それだけは簡単に想像がついた。悪魔がかり的な後輩の泣く姿も目に浮かぶ。
「やめろ、俺をお前らと一緒にするな」
「最後まで飲めなかった栄養ドリンク、あれの礼がまだできてない。奢らせてくれるんじゃなかったのか」
「あれは……」
 肩に置かれた手のあたたかさがじわりと浸透した。
 早坂の耳の奥で、液体の傾く音がする。あの自販機の、どのランプに欠品の印が灯るかで早坂は自分の将来を決めようとさえ考えていた。
「……まずかっただろ」
 村上はふと黙り、あのほほえみ、口もとから広い額にまでさざなみのように波打つ静かな笑みを広げた。
 浜辺に打ち上がった陸亀がとことこと歩いている。それを沖から眺める早坂は何に例えられるだろうか。
「じゃあ今から、風間さんに一緒に怒られとくか」
「それは早坂ひとりで行ってきてくれ」
「いきなり見捨てんなよ」
 遠くで犬飼の指差す様子が見えた気がしたが、早坂は今度こそきっぱりとそれを無視した。

 * *

 本格的な梅雨の季節の到来を前に、太陽が穏やかに顔を覗かせている。
 今日も早坂は空き教室のカーテンをすべらせている。東の木立から低く差す朝日を受け止めて、カーテンのほつれた糸が薄く輝いている。早坂は日焼けして色のすっかり落ちきった生地の表面を撫で、閉じた空気のなかに明るく舞う細かい塵の粒子を眺めた。
 何の前触れもなく教室の扉が開き、光の粒が低い空を泳ぐ。停滞していた空気がかき乱される。
 早坂が振り向くと、扉の脇に村上が立っていた。まだ通学鞄を提げたまま、ゆるやかに肩を上下させている。
「下からここが見えた……早坂のいる場所は、すぐにわかるんだ。カーテンが閉まっているから」
 早坂は咄嗟に握っていたカーテンの端を離した。波打つ布が、登校する生徒たちの小さな人影を一瞬だけあらわにさせる。軽やかな朝の挨拶の声が聞こえもしないのに窓ガラスをふるえさせている。
 早坂は埃を吸い込まないように小さく口を開けた。
「今日、水曜日だろ。こんなところで時間潰していいのかよ」
 まだ眠たげな村上の眦が広がった。
「調べたのか」
「そんなんじゃねえよ。偶然……」
「偶然、調べてくれたのか」
 村上がのんびりと繰り返す。
 今日の午後、村上の所属する隊は今シーズン最初の団体ランク戦の予定を控えている。その情報をいち早く早坂に伝えたのはお節介な知り合いたちで、複数人の名前を挙げられることに早坂は気味の悪ささえ感じている。
「……お前、やなやつになったな」
 村上が軽く首を傾げた。わかっているのかどうなのか、苦し紛れの不満をぶつけられても泰然としたまま顔色ひとつ変えない。
「もしそうなら、友だちの影響じゃないか」
 早坂は憮然として放り投げられた缶を受け取った。

君の顔・了