寄せては返す波の音が子守唄だったと、淡く色づく昔日を懐かしむように口にする、おぼろげな夢見心地の思い出話。無法者と恐れられる男たちが酒瓶に赤い頬を寄せて母を恋しがった。
 唄が聞こえる。まどろむ白い岸辺の波打ち際で、帆の閉じた船の舳先で、日覆に隠された寝具の中で。遠い子守唄が幸福な夢へと誘う。
 その経験が彼にはない。
 彼は子守唄が何であるかを知らずに育った。吸い付く乳の温かさを知らず、見上げる背中の広さを知らなかった。彼のためだけに海の彼方から打ち寄せられるものはこの世に一つも存在せず、全ては共有されるためにある、玩具や穿き物、食事にたまの罰則まで。
 そして差し出される大人の手のひらも。
 あれを独り占めしてみたいと言う子どもがいた。真新しい船の模型でもなく、身の丈にあった上着や腹一杯に食べられるご馳走でもなく、あの大きな手を独占してみたいと言った。
 欲望とも言えない慎ましい願いだった。あるいは皆が口にしないまでも共有される幸福な夢の欠片だった。
 そのとき去来した見慣れない光景を、彼は一生忘れることがないだろう。淡い期待に輝く子どもたちの瞳に暗く重なる、その落差を。瞬くうちに消えてしまった、すでに過去の現実となった幽玄の未来を。
 彼らが夢見る子守唄は彼に聞こえない。視界に覆い被さる土煙を打ち消すことに忙しくて、求める声があまりにうるさすぎたから。
 子守唄は彼の耳まで届かない。
 騒がしいこの世に凪いだような静けさが訪れたのはただの一度きり。
 あの日、あの夜。そして過ぎ去った声は二度と彼のもとに帰らない。
 
 暗い影が海面を横切り、手の中で竿が跳ねた。
 ぐいぐいと水底へ突き進む力に逆らって、アイウォルツは水しぶきを散らしながら釣り針を引き上げた。軽い手応えとともに海面から飛び出した針先が空の上で太陽に反射して鈍く輝く。餌だけをせしめて逃げ出した魚が船底を尾びれで叩いて悠々と泳いで行った。
 傍らの生簀が静かに海風を受けて揺らいでいる。
「また逃げられたのか」
 呆れた声が背中越しに聞こえたが、アイウォルツは特に気にすることもなく、むしろ口笛を吹きそうな気楽さで再び釣り竿を振るった。
「こんな天気の良い日に、小さな檻の中に閉じ込めてやるのもかわいそうかなって」
「それであえて逃してやったと?」
「巡り巡って脂の乗った魚が食卓に並んだなら、今釣ったのと同じことだろ」
「お前は……海に餌やりでもしに来ているつもりか」
 容赦のないその言葉にアイウォルツは目を細めて笑い、狭い手漕ぎ舟の中に体を倒して大きく伸びをした。太陽の光が真っ直ぐに顔へ降りそそぐ。海面から蒸気でも立ち昇りそうなほどの暑さだ。
「あんたを仕事が追っかけて来ない場所に連れ出しさえすれば、それで少尉からもらった俺の任務は終わりだよ」
 視界いっぱいの青空はどこまでも広がり、遠目に見える港では停泊した軍艦が出航の支度に追われている。桟橋を忙しなく往来する海兵たちを取り巻いて、物見高い見物客の人影が輪を作っていた。
 町が荒廃していた頃は、掲げた軍旗に石を投げつける不届き者がいたものだが、今では身の程を弁えない犯行としてむしろ周りから白い目が向けられるようになっていた。アイウォルツがほんの少し目を瞑っていた間に人々の心は様変わりしている。
 新しい明日に向けて邁進する、その大きな時代のうねりを直接肌で感じるにはあまりに目覚めが遅すぎたが、この町をより良い方向へと導く旗の担い手が疲労の色濃い隣の男だということをアイウォルツはよく知っていた。
「そんなことより、あんたはさっきから餌すら食いつかれてないぜ。徽章を外してしまえば釣りの腕前はまだまだ一等兵ってところか、海軍大佐さん?」
 襟の第一ボタンまできっちり留めたシャツに似合わない麦わら帽子を後ろへ提げた私服姿の将校が、寝転んだ姿勢のまま体の脇から覗くアイウォルツの顔を嫌そうな面持ちで見下ろした。浜辺から舟を押し出して小一時間、プレイヤードの釣り竿は一度たりとも動いていなかった。お互いの釣果は今のところゼロ、さて昼飯はどうしようかとアイウォルツが思案したところで、プレイヤードが重苦しく口を開いた。
「私はこれまで魚を釣れた試しがない」
 だからこれは釣りではなく、ただ海を眺めているだけだとプレイヤードは言った。
 同乗者の釣果をあてに昼の算段をしようと考えていたアイウォルツは束の間、真面目な性格の真面目な顔を下からつくづくと眺めた。これは本気で宣っているのだろうかと少し黙り込んで、やがて口の端がふるえるのを抑えきれなくなる。
 常夏の国に生まれ育ったいっぱしの海の男が、魚を釣ったことがない。これが俄かに信じられる話だろうか。
 孤児院育ちの子どもたちでさえ流木の枝を削って見よう見まねの釣り竿を振り回し、大きな獲物を釣り上げるほどに仲間内で認められるようになるものだというのに、それが本当なら坊ちゃん育ちとはいえ子ども心にさぞかし肩身の狭い思いをさせられただろうと想像を巡らすと、順調に海軍組織の階段を登り詰める男の今と比較しておかしみがこみ上げた。
 プレイヤードがため息をつく。遠くの軍艦にいよいよ帆が張られ、まるで見えもしないのにプレイヤードは麦わら帽子を深く被り直した。
「笑いたければ笑えばいい。お前に釣り竿を渡されたときには知られているのかと思っていた」
「いや、まさか」
 否定して、結局アイウォルツは少し笑ってしまった。それは隣の男にではなく、昔の幼い自分にだ。
「あんたとは釣りに行ったことがなかっただろ。想像もしてしなかったからさ、将軍の息子にこんな弱点があったなんて」
 プレイヤードがふっと視線を海に戻した。
 どことなくやわらいでいた空気が固く尖る。二人のつながりを暗に示そうとするアイウォルツに対してプレイヤードの無言の拒絶を感じたが、アイウォルツはそれを無視して会話を続けた。
「もっと話しておくべきだったのかもしれない、俺のことも、あんたのことも。もっと知るべきことがあったのかもしれないと今では後悔してる」
「もう終わったことだ」
 プレイヤードの素っ気ない言葉に、アイウォルツは逆らわずに頷いた。
 潮風が沖に向かって吹いている。舟がゆっくりと町から遠ざかる。
 海の上は孤独で、陸とは異なる理屈が働いている。国や個人のしがらみなど板子一枚に比べれば藻屑ほどの価値もない。価値がないと骨の髄まで知っている者だけが今も生きている。
 どれだけ強く跳ね除けられたとしても、アイウォルツはめげる気持ちが全く湧かなかった。常夏の国の男たちが押し並べてそうであるように、彼もまた海の上でもっとも自由になれる人間の一人だった。
「一度終わったことなら、また始めれば良いだけだろ」
 まだ始められるなら、それが手遅れでないならば、アイウォルツはそうすべきなのだろう。もう完全に終わってしまった子ども時代を懐かしんで、アイウォルツはこともなげに言った。
「俺は今、あんたの隣に確かにいるよ」
 釣れもしない竿を握りしめ、頑なに生きようとする姿がアイウォルツの目には頼りなく映る。本当は手を伸ばして、昔のように呼びかけたかった。
「あんたはいつもの涼しい顔で俺の横に立ってさえいれば、誰もそれを不思議になんて思わないぜ」
 けして弱い人間ではないはずが、アイウォルツの見ているそばではいつも不安定にぐらぐらと揺れている。その支えになりたいと思うのは身勝手な願いだろうか。
 アイウォルツは起き上がって、また引き始めた釣り竿を手繰り寄せた。相変わらず魚は好き放題に餌を食いちぎっているが、もしかしたらこれが、垂れた糸のように細い彼らのよすがであるのかもしれない。釣り糸というのは見かけに寄らず頑丈に結われているものだ。
 軍艦の汽笛が大空に鳴り響いた。白い軍帽が舳先にちらりちらりと見え隠れする。アイウォルツは港の住民たちと同じように出港する彼らに向かってのんびりと片手を振った。同乗者が麦わら帽子を頭に押し込んで少しだけ身を屈めたが、向こうもまさか、今にも波に飲まれそうなほど頼りなく揺れている小舟の上に、休暇を強制的に取らされた自分たちの総督が乗っているとは思いもよるまい。
 アイウォルツは、白い砂浜を転がるように走りながら両手を振って船を見送った、無邪気なあの頃に思いを寄せた。当時、どれほど市民からそっぽを向かれていようとも、継ぐべき家業のない子どもたちにとって海兵は一種の憧れであった。
 盛んに子どもたちが両手を振って、航海に乗り出す彼らへ声を枯らして叫ぶ。声は満ち潮に乗っていつまでも海の上を漂っていた。
「……次の任務先では」
 尾を引くように遠ざかる汽笛の音に紛れて、ぽつりと声が落ちた。
「釣りだけはやめてくれ」
 アイウォルツは目を伏せて、静かに笑みを噛み砕いて飲み込んだ。唇が音のない形をなぞる。
 舌先に、幸福な夢の欠片がまだ残っている気がした。
「……了解、大佐」

舫う連星・了