スラーダが弾ける。流星のように炭酸を夜空に振りまいて、終わらない宵の宴に乾杯する。
星は手すりにもたれて目を閉じた。路傍の看板すら身をよじってリズムに乗る賑やかな音楽が、万雷の拍手を浴びる歌姫の伸びやかな歌声が街のあちこちから聞こえる。
星にとっての夢の地ピノコニーは、どこか遠い世界で起こる喜劇の舞台だった。宇宙ステーション「ヘルタ」の舷窓から眺めた瞬く星々の明かりのように、仙舟「羅浮」の埠頭から見送った星槎の行きて帰らぬ船出のように、ピノコニーの熱狂する夜はドリームプールに沈む星の身を受け止め、心を満たし、今となっては不信の芽を植えつけた。
――あたしはホタル。そう……「密航者」のホタル。君はこの夢の世界で一番の娯楽が何か知ってる?
黄金の刻の街角を銀色の燐光を振りまきながら少女の後ろ姿が曲がって行く。星は急いであとを追おうとしたが、ガイド役を買って出た彼女の足取りには迷いがなく、声だけがいつまでも通りに反響していた。
――永遠に留まる0時前、あたしが眠りにつく本当の理由を教えてあげるね。君には正直に打ち明けたいと思ったから。
スカートの裾がひらりと泳ぐ。星がクロックピザにかぶりついているうちに少女の姿は再び消えていた。歓楽街の地下深く、剪定の手を待ってひっそりと静まる目のくらむような高台の箱庭。
――遊び疲れたたくさんの風船たち。君はどの色が好き? あたしはね、あたしは……。
燃え立つ赤色、波打つ青色、輝き放つ黄色、そよ風渡る緑色。糸の切れた風船が視界を埋め尽くす。かき分けてもかき分けても次から次に風船はふくらみ続け、指先が少女まで届かない。
おびただしい色の洪水が押し寄せる。氾濫する感情の歯車が猛スピードで回転する。
星は限界まで腕を伸ばした。爪が薄い膜を引っかく。少女が振り向く。気泡、あるいは憶泡となった夢の泡が目じりから流れ落ちる。
――……ごめんなさい。
「バァン」
風船が弾ける。
夜空に向かってスラーダが弾ける。目をひらいた星の眼前にピストルの形をした指が突きつけられていた。
「これからとびっきり楽しいショーが始まるのに、良い子の君はもうおねんねしちゃうの? そっかあ、君は素直で純粋で無垢な心を持った、疑いを知らないお子さまだもんね。起きていられなくたってしかたがないか、ひひっ」
仮面の少女が笑う。おかしそうに、悲しそうに、目を細めて仮面のような顔が笑う。
「えーんどうして泣いてるの? まるでピエロみたい」
ピストルの指が無造作に星の?をつついた。濡れた感触に、星は余計に涙を流した。
何かの燃える焼け焦げたにおい。シャボン玉のように飛び散ったシロップソーダ。
星は嗚咽のこぼれる口を覆った。
「どうして……どうしてホタルは殺されたの」
疑問に答える相手はいなかった。高らかにスラーダが弾け、白昼夢は炭酸のように消えてなくなった。
いつまでも終わらない喧騒のなか、星はたったひとりで冷たい手すりを握りしめていた。夢の世界でも金属の手すりは肌に冷たく、涙は塩からい。
胸に抑えきれない感情が渦巻いている。どこかにシリンダーを落としてしまったのか、それとも誰かがチューニングを試みているのか、目まぐるしく揺れ動く感情を自分では制御しきれない。
ホタルが好きだった――きっと出会った瞬間から。
ホタルに疑いを持っていた――きっと言葉を交わした瞬間から。
疑いながらも彼女と並んで歩くショッピングは楽しく、壁に貼られたポスターから映画のあらすじを想像してはその奇想天外さに笑い合い、カロリーゼロを謳うスイーツの、健康に害を及ぼすほどの甘さに舌鼓を打ち、すれ違う夢境の番人に非のないはずの彼女の顔が下を向いた。
そして、高層ビルの隙間から吹き上がる風が銀色の髪を揺らしていた。
手すりをつかんで見渡した星降る夢幻の夜景。眠らない不夜城は、曙光をその背に照らすこともまたない。時計の針は永遠にそこから動かない。
スラーダ、手のひらを濡らすシロップ、体液を揺さぶる調律。
頭が痛い。理性を突き破る感情が?を濡らし、怒りに火をつける。
体が燃えるように熱い。
「これはあなたのものかしら?」
星は視界を塞ぐ涙を手で拭った。
横から差し出されたスマートフォンは見覚えのあるものだった。画面にふたりの少女のツーショットが映っている。
姿の見えない誰かがそっと星に耳打ちした。
「美しい記憶を持つ開拓者さん。あなたの記憶を守りなさい。もしも真実を知りたければ、大切な秘密に触れなさい。あなたの記憶はその代償に耐えられるのだから」
風にほどけるため息のような声。声を頼りに横を向いてもきっとそこには誰もいない。
狂った針が時を刻む。
星は顔を上げ、指を指し伸ばし、巨大なスラーダの瓶に照準を向けた。
誰もが自らの望む夢を見ている。紙幣が無価値なゴミのように吐き出され、ゴミ箱が尊厳と威厳を身につけ、仮初に得た絢爛な姿に踵を打ち鳴らす。そして誰かの夢のなかでは、喧騒から離れた静かな街並みがそこに佇んでいる。
スラーダはもう弾けない。シロップは甘いばかりではない。
真夜中を告げる鐘が鳴り響くなか、ドリームプールの向こうから星を呼ぶ声が聞こえる。ともに開拓の旅をする少女の心配と怯えに満ちた声。星は眠りから覚めようと、深く水底へ沈むように息を止め、まぶたを下ろした。
暗闇に銀色の泡が浮かんでいく。それは星の見ている前で、瞬きする間もなく、するどい刃先によって断ち切られた。
「――バァン」
指先が燃えるように熱かった。
夢でまた会えたら・了