左手にぬくもりが触れて、アイウォルツは指先に力が入りかけたのをぐっと堪えた。薄く闇に沈んでいた意識が喉もとで熱く泡立つ。
 毛布代わりに巻きつけた外套の中で、アイウォルツは数えるようにゆっくりと瞬いた。いつの間にか睫毛にかかっていた砂埃が緑のない土の上にはらはらと舞い落ちた。
 頭上の月は雲に陰って行方をくらませていた。乾いた空気に混じる匂いは何事もなく鼻先を流れ過ぎ、風除けにした幌馬車を背に耳を澄ませば安らかな寝息が空の下に満ちている。時折り聞こえる、焚火の小さな火を守る不寝番の気の抜けたあくびと仲間を求める夜鳥の長いため息が、荒野に落ちた静けさをより一層深めていた。
 警戒すべきどんな影もここには迫っていない。
 アイウォルツは周囲の気配を丹念に探ってから、とうとう観念して視線を下ろした。目覚めたときから左手があたたかい。
 月明かりに頼らずとも、おぼろな輪郭線を目で捉えることは容易だ。アイウォルツよりも小さく、そして彼よりも長く使い込まれた手が彼の手のひらや指の節にぴったりと寄り添うように触れている。混じり合う熱がアイウォルツの意識を引き止め、それは夜風に冷えた体温を分かち合うためというよりも、まるで彼が離れていくのを恐れているかのような握り方をしていた。
 力で抑えつけられているわけでもないのに、アイウォルツの手はそこから逃げることができないでいる。すっぽりと当たり前のように自らの左手に収まっているこの小さな手に恐れを抱いたのは、むしろアイウォルツの方だった。
 手の持ち主は彼の隣で同じように片膝を立てて静かに寝入っている。もし合図の笛が響けばそのまま立ち上がって腰の得物を引き抜いてしまえそうなほど自然体であるのに、その手だけは別の意思を持ったかのようにアイウォルツのそばに落ちていた。
 そして彼自身の左手もまた彼の意思から切り離され、ぬくもりが手の中にあることを当然のことのように受け入れている。
 アイウォルツはもう一度だけ瞬いて、目に映る世界が変わらないことを不思議に思った。荒野に吹く風が剥き出しの眼球をさらっていくが、それが何かを変えるわけでもない。雲は風下に流れ、鳥は思い出したように歌っている。
 そして左手のぬくもりはまだ彼の中にある。彼のそばで朝の訪れを静かに待っている。
 誰かの寝言が小石の間を転がり、誰かがそれに反応して身じろぐ。驚くほど穏やかな時間が明日に向かって流れている。
 アイウォルツは目を閉じて、再びその流れに身を委ねた。
 遠くて近い、昔を思う。
 彼が、まだ彼でなかった頃、夜明けはひとりで迎えるものだと信じていた。目に映るまぼろしは深い海の底に沈んでいた。やがて暁の水平線をともに見たいと願う相手が現れて、自らの欲深さを知った。
 そして今、このぬくもりが失われることを何よりも恐れている。
 その恐れを六年間抱き続けて生きてきたかつての少女の手を、アイウォルツは星の輝きの失われた空の下でそっと握り返した。
 病室の背もたれのない小さな椅子で丸まって眠る少女の背中を彼は知らない。焼夷弾の高温に焼かれた厚い指の皮や、破片がそのままに残った切り傷のそのひとつひとつの由来を辿ることはもうできないが、アイウォルツ自身が深い闇の底にあったときでさえ、この手は少女の願いに触れていた。
 左手は繋がれた手の形を今でも覚えている。
「アイウォルツさん……」
 寝息が言葉を紡ぐ。疑いもしない声が彼の名前を呼ぶ。
 どれほど待たされていたか。どれほど望んでいたか。太陽を背に明るく笑う顔に潜む思いをアイウォルツは手のひらで受け止めた。
 目覚めの夜はいつだって恐ろしく、身慄いするほど愛おしいものだ。

繋がれた形・了