(常夏3)
夜の港で私兵と総督が星を見上げる話
プレイヤード・シュテリヒテと孤児院から迎え入れられた義弟の話
夢見の悪いプレイヤード大佐の話
ライラニカイ島で休暇を過ごすアルタイルとアイウォルツの話
アイウォルツとアルタイルと海の流れ星の話

(機械3)
ガンドルフォから社会見学のご褒美をもらうシャーリーの話
ガンドルフォとスヴェンと私事広告欄

(お菓子2)
ティーガーとゲルトルートと秘伝のお菓子
ティーガーとターネスと何でも食べたがるマーガレットの話
ティーガーとゲルトルートと贈り物の選び方
ターネスとマーガレットの小話

(西部1)
ガルディとアスターのコインの早斬り勝負

(西部2)
ブリットとジャンゴと荒野の決闘(CP:ブリット→ジャンゴ)

(死者1)
ジャントールとエレオノールの出会い(CP:ジャントール×エレオノール)

(死者2)
マティスとリュシアンと陽だまりの家族

▽ 夜の港で私兵と総督が星を見上げる話

「どうかしましたか?」
「……いや」
 アルタイルから声をかけられ、アイウォルツは視線を空へ投げかけた。太陽はとうに海の向こうへと没し、星々が闇夜に輝いている。
「波止場の親父さんから頼まれた仕事、すっかり忘れてんの思い出した。今からパパッと片付けてくる」
 立ち止まったアイウォルツの数歩先でアルタイルもまた足を止めた。彼女はもっとも信頼を寄せる部下の顔を、深い軍帽のつばの下からじっと見つめた。
 そしてにこりと笑う。
「わかりました。何かあれば発煙筒を打ち上げてください、すぐに駆けつけますから」
「おいおい、この真夜中にポート・アウリオンの町全体を叩き起こすつもりか?」
「アイウォルツさんの手に負えない事態とは、そういうことですから」
 恐ろしいことをさらりと断言し、アルタイルはもう前を向いていた。街灯が落とす明かりのなかを小柄な背中が消えていく。
 凛々しい足音を遠くに、アイウォルツは町とは反対の暗がりに目を転じた。闇に沈んだ岸壁に、波の砕け散る音が聞こえる。
 静かだ。そこにひとりの軍人が、この海の町を守る総督がいるとはとても思えないほど静かで寂しげな夜の港の情景だった。
「こんなところで徹夜を決め込むつもりかよ、海軍大佐さん? 風邪引くぜ」
「……お前か」
 薄闇に白い軍服が溶け込んでいる。
 そのままふらりと海に倒れ落ちそうな背中に手を伸ばしかけ、思いのほか穏やかな表情が返ってきたのでアイウォルツは寸でのところで手を引っ込めた。
「星を見るにはこの時間が最適だろう」
「星を? そんなのあんたの執務室からでも見えるだろ」
「足りなかったんだ。私のこの目ではね」
 プレイヤードは疲労の残る目もとをそのままに穏やかにそう言うと、また夜空を見上げた。
「星のエネルギーというものを私も感じてみたかったんだ。彼らが万難を排してでも求めてやまない、生命のエネルギーの源を」
 凪いだ空の下、星明かりがやさしく海を照らしていた。小さくあくびのように起こるさざ波が、海に降りそそぐ星のかけらを飲み込んではうねる背びれから吐き出し、またしっぽの先から揺れていった。闇に慣れた目で見ると、その光の濃さは指をひらけばすくい上げられそうにも思えた。
 ポート・アウリオンは七年に一度の災害を克服したばかりだった。外海から招いた癒術士の力を借りることで、災禍に苦しむ人々は甚大な被害をもたらすラクタスオルの望む先をようやく知ることができた。
 夜空にはいくつもの星が輝いている。晴天の夜の星は美しく、そして孤独な海の道標でもあることもまた、常夏の国の生まれであれば誰もがよく知っていた。果てなく続く海に生き、本能によって陸を目指すあのラクタスオルたちと同じように。
「人間も星から生命のエネルギーをもらってんのは一緒だな。あれがなければ荒波のど真ん中で、次の港にたどり着くすべを見失っちまう」
 船の舳先の向けられる先、暗い夜空に輝く一等星。そこにあるのは美しさだけではない、闇夜を照らす希望の光だ。
「お前はもう、ただひとつの星を見つけたんだったな」
 急に懐かしい声が聞こえた気がして、アイウォルツはとなりで空を見上げたまま黙って目を閉じた。そうしなければ夜風に溶けゆく続きを逃してしまうのではないかと、心にさざ波が立った。
「陸を離れる船乗りにとって、自分だけの星を見つけられるのはまれなことだ。大切にしなさい。それはお前自身にしか掴むことのできないものなのだから……今さら私の言うことではないが」
 やさしい声だった。ひょっとするとそれは、失ったものの形を手のなかに残し続ける兄としての声だったのかもしれない。
「――いや」
 アイウォルツはゆっくりと口をひらいた。
「いいや、あんたは正しいよ。でも、それだけじゃない。俺にとってはただひとつの星であろうと、そこで瞬く星の輝きは俺ひとりのものじゃない。方角に迷ったとき、ひとつの星が次の星を見つける手がかりとなることもある。ひとつの星が、ほかの星と重なり合って目に見えることもある。そうだろ?」
 義兄さん。心のなかでそう呼んで、アイウォルツはまぶたを上げた。星の光が顔に降りそそぐようだった。
 ラクタスオルたちが嵐とともに連れてきたのは、人々とモンスターとのあいだを結ぶ過去の和解だけではなかった。
 手を伸ばせばいつでも触れられる星があった。それはアイウォルツの求めた光ではなかったが、そこで昔から変わらず誰かのために輝いていた。
「……そうだな」
 軍服の裾が潮風にやさしく揺れた。
「そうであって欲しいと私は望んでいるよ。国のために、そして何よりも……」
「市民のために」
 言葉の先を重ねるように告げ、アイウォルツは小さく笑った。波音にまぎれて小さくついた息が、かすかにアイウォルツの耳をかすめた。
 それがやさしい過去をたぐり寄せる懐かしい笑みだったことを、アイウォルツはとなりの男にも伝えずに、静かに瞬く星の光の届く先を思った。

▽ プレイヤード・シュテリヒテと孤児院から迎え入れられた義弟の話

 横から報告書を差し出され、プレイヤードははっとして顔を上げた。
「寝てたな」
「……寝ていない」
「いーや、寝てたね。今も目がうつろだぜ、大佐」
 部下の私兵が目を細めてずけずけと指摘する。これが直属の部下であればもっと遠慮というものを知っているが、執務室にはあいにくとほかに誰もいなかった。
「少し目を休ませていただけだ。それは遠征の報告書か?」
「そう。でも別に急ぎじゃない」
「こうしたものは溜めておくからあとで仕事が滞るんだ。貸しなさい、確認しよう」
 書類を取り上げると、几帳面な部下の字が癒術士に同行した外国視察の成果を報告する。さっと斜めに読み進め、紙をめくったところで急に目がかすんだ。
「ほらな、寝不足だと捗らないだろ。さっさと諦めて横になれよ」
「……違う。お前はまったく、どうしてこんなに字が」
 読みにくいんだと告げる言葉が喉の奥でつっかえた。
 報告書のもうひとりの担い手は、飄々と笑って言った。
「砂浜に書いて覚えたからな。あいにくと字の先生が悪かったんだ」

 *

 嵐の過ぎたあとは快晴がよく続くという。
 海軍の礼装に身を固めた父がそっと背中を押してプレイヤードと引き合わせた少年の目は、その日の空に反して暗かった。彼がうつむくとほつれたカーテンのように伸びた前髪が周囲から表情を隠し、心はどこか別の場所にあるようだった。
「お前の新しい弟だ。これからは兄弟としてふたり仲良く支えあって生きていきなさい」
「はい、父さん」
 と従順に返事をしたものの、自分より年少といえば海軍学校の後輩しか知らないプレイヤードは、彼らよりひとまわり以上線の細く見えるその子どもの扱いに少しばかりの苦慮を覚えながら、できるだけ穏やかに手を差し伸べた。
「今日から君の兄となるプレイヤードだ。私はひとりっ子だったから弟ができて嬉しいよ。君のことは何と呼べばいいだろうか?」
 玄関の床模様を眺めていた少年の目がわずかに上がった。
 不安、孤独、不信感。彼のこれまでの境遇を思えばそうした眼差しが向けられることを当然のように予想していた。
 しかしそこにあったのは、プレイヤードの想像したどれとも違っていた。
 暗い影を帯びた目が瞬く。
「俺は……、――」
 世界から何か大切なものが抜け落ちていく感覚。雨に濡れて消された憤怒と諦め。この世を取り巻くすべての事物に対する放心が、そこにあった。

 近場の海がどんなものか、自分の目で確かめれば少しは心安らぐだろう、といういかにも海の男らしい父の助言に見送られて、プレイヤードは少年を誘って浜辺まで降りた。弟は抵抗するそぶりを見せることもなく兄の数歩後ろをついて歩いた。
 ぎこちない空気の漂うふたりの後方を砂浜に残る足跡が続いていく。潮騒は耳に穏やかで、投網の修繕に勤しむ漁師の妻たちが華やかに笑い声をさざめかせては晴れた空を高くしていた。
「あの灯台が見えるか? あそこを折れると町へ続く道がある。いろいろあって疲れただろう、今日は人混みには入らずそこから引き返して帰ろう。それまではもう少しこの散策に付き合ってくれるだろうか」
「はい、……プレイヤードさん」
 打ち寄せる波にかき消えそうなほどの小さな声だったが、弱々しさのないしっかりとした返事にプレイヤードはほっとして微笑んだ。
「兄と呼んでくれて構わない。父のことも、父さんと呼べば喜んでくれるだろう。これからは家族になるのだから遠慮はいらないよ」
 今度の返事はしばらくなかった。プレイヤードは白砂に埋もれた光沢のある貝殻を拾い上げ、弟の好みがわからないままその手に次の貝殻を乗せた。
「お前は巻貝の標本を作ったことがあるか? それとも棘のあるものを?」
「いいえ、あの……」
「部屋に使っていない標本用の工具箱がある。興味があるならやってみるといい」
「どうして俺なんかを引き取ったんですか」
 白い波が立ち、ふたりの足に冷たい海水があたっては引いていった。
 いずれ聞かれるだろう問いに、プレイヤードは振り返ることもなく答えた。
「軍人としての責務だ」
「……軍人の」
「父は沖にばかり目を向けて救助が間に合わなかったのを悔いている。あの日はひどい嵐だった。船が何艘も転覆した。引き取ったのは君のためだと簡単に言うこともできるが、父は海軍少将だ。国のためになると思えばどんな犠牲を払うことも厭わない……、いや」
 プレイヤードはそこで、孤児院の仲間を多く失ったばかりの少年にかけるべきでない言葉を使った自分をすぐに叱責した。
「すまない。お前を打ち荷にしたいと言いたいわけではなく……これは海軍の存在理由でもあるんだ。お前のような子どもをできるだけ減らしたいと、あのような不幸なことが起こるその前に未然の対策を講じたいと、父は日夜会議に出かけている。……いや、お前が聞きたいのはこんなことではなかったな」
 海軍の精神を市民に語って聞かせるのは難しい。言葉に悩んであれこれと考えを巡らしているうちに、背後から小さな笑い声が聞こえ、プレイヤードは急いで振り向いた。せっせと拾い集めた貝殻がばらばらと足もとに散る。
「尊敬してるんだ、あの軍人のおじさん……じゃなかった、父さんのこと」
「その通りだ」
 力強く頷いてから、プレイヤードはややためらいがちに言葉を継いだ。ためらったのは気恥ずかしさのためであり、しかしそれでも言葉にしたのは、少年の雰囲気が対面した当初とは少しずつ変わりはじめていると感じたからだった。心をひらいたとまではいわないまでも、打ち解けようとする意思をそこに感じ取れた。
「お前もだ。お前にも、ひとから尊敬されるような男になって欲しいと……兄として心からそう願っているよ」
「へえ?」
 潮風が少年の目もとまで伸びた前髪をさらっていった。その目の輝きは、会ったばかりの他人ともいえる義兄の望みを面白がるような色をしていた。
 これが彼の本来の姿かと思うと、ちらちらとよぎる暗い影に痛ましいような、しかし一歩前に進んだ希望に喜びのような感情がプレイヤードの胸をついた。
「それなら、義兄さんには知っておいて欲しいよ。俺はきれいな貝殻でほだされるような男じゃないってこと」
「そ、そうか……」
 少年は落ちた貝殻をひとつ手に取ると、窺うようにプレイヤードを見上げた。
「俺も知っときたいことがある。あんたみたいな人には笑われるかもしれないけど」
「どんなことでも聞いてくれ。誓って笑わないと約束しよう」
「じゃあ……シュテリヒテってどう書くの」
 プレイヤードはふと目を見ひらいた。
「……そうか」
 彼は本心から自分の弟になろうとしてくれているのか。そう思うと、約束を反故にして満面の笑みを浮かべた兄に軽く悪態をつく少年の様子にも気づかないまま、プレイヤードはその隣にかがみ込むと長い棘のついた貝殻をペン代わりに砂浜に大きく字を彫った。
「これがお前の名前、シュテリヒテ家の次男を表す名と形だ。一度で覚えられるか?」
 少年はむっとして答えた。
「こんなの簡単だよ」
「私の名前はこう、父はこれだ。ついでに家系図も書いてあげよう」
「……ああもう、いいよ、わかった。今日中にそれ全部覚えてみせるから」
「是非ともそうして父を喜ばせてくれ」
 少年がプレイヤードの字を懸命に目でなぞっては拙い手つきで砂地に写していく。ふたりの周囲はどんどん貝殻で掘り返された土くれで塞がり、そのあいだを蟹が慌てた様子で渡っていった。
 いつの間にか空は夕焼け色に染まっていた。兄のくすんだ海の色とは違う、新しく弟となった少年の目と同じ色だ。今ごろ父はやきもきしながら家で待っているのかと思うと、プレイヤードは自らが達成した任務の出来栄えに誇らしさを覚えた。
 家に帰ったら、弟のために用意した部屋へ案内しよう。それから明日だけは少年に朝寝坊を許そう。そのあとの彼はもう立派な海軍一家の次男坊となるのだから。
 ごほりと咳をつく音が波音に紛れて響く。
 気づけば随分と先まで少年は字の練習を続けていた。プレイヤードが急いで駆け寄ると、彼の目線は海の彼方に向けられていた。
「ケルピンの群れが……」
 こっちに向かってる、と咳の合間に掠れた声が続ける。
 プレイヤードははっとして目を凝らした。水面に反射する夕陽がまぶしい。
「どこだ?」
「ごほっ、はあ……、……たぶん、あそこに」
 指差す方向を手庇で見やっても、海は平らかで影はどこにも見えなかった。穏やかな海辺の様子はモンスターの襲来を予期させる何の手がかりも落ちていない。
 プレイヤードの判断は早かった。
「漁船に何かあってはまずい、海軍の詰所に警告を伝えて来よう」
「……信じてくれるの」
「もちろんだ。確信があってのことだろう? ならば私も軍人の責務を果たそう」
 弟のこれまでの聡いふるまいと、ケルピンの群れが海中に深く潜り込んでいる可能性を考慮して、プレイヤードは士官学校生としての自らの責任のもとに力強く請け負った。
「お前の信頼に応えること、それが今の私の務めだ。体調が悪いのに遅くまで連れ回してすまなかったな。ここでしばらく待っていなさい、代わりの迎えを寄越そう」
 町へ伝令に向かう前に、プレイヤードはうつむいて座り込む弟の名前を声を張って呼んだ。砂浜に懸命に書かれた文字が、こだまするように長く続いている。
 夕焼けの色を映した目が涙にうるんで青く澄んでいた。
「お前は目がいいんだな。海兵に向いているよ」
 ぎくりとこわばった顔に、プレイヤードは苦笑する。
「シュテリヒテ家の一員になったからといって、海兵となることまでも強要するつもりはもちろんない。だが、そうであればお前の父は目に見えて浮かれるだろうな」
「……あんたも?」
「うん?」
「義兄さんも喜んでくれる?」
 プレイヤードは微笑んで答えた。
「お前が何者になろうとも、いつまでもお前は私の弟だよ」

 いくつもの潮汐に耐えかねて、ついに砂浜の文字は波に洗われて打ち消される。この世にたったひとつ存在した名前がほろほろと崩れていく。
 あの日、家名を与えられたことで彼が世界の淵に膝をついて耐えたとばかりに思ったのは、自分ひとりだけだったのか。愚かな過ちに、それから何度となく犯した自らの愚かな過ちに、眉間の奥がわずかに痛んだ。
 プレイヤードは報告書に上官のサインを施すと横に立つ男に返却した。
「私に時間があれば字の矯正をさせたいところだ」
「そんなことよりさっさと寝てくれ」
 半ば本気の声でそう言うと、私兵はその年頃の青年にふさわしい、大人の苦笑を浮かべた。
「それに、急いで全部を変える必要はないだろ。全部を塗り替えなくたっていいんだ。あんたはそのことをときどき忘れてるようだけど」
 六年の沈黙も、一瞬の目覚めも、すべては等しく波に押し流される。
 嵐が過ぎ去ったあとの空は快晴が続くという。それを最初に発見したのは誰だろうか。
 きっとこの男のような人間だろうと、プレイヤードはとなりから視線を逸らし、手もとで決裁を待つ書面に意識を傾けようとした。背後の窓から差す日の光が、胸のうちに反してほのぼのと背中をあたためた。
「俺は今、自分の手でちゃんと大切なものを守ってるぜ、大佐。自分の体の面倒は満足に見れないくせに、ひとのことばかり心配する誰かさんのおかげでね。あんたはどうなんだ? 過去の自分から尊敬を勝ち取れてんのか?」
 プレイヤードは返事の代わりに、長く息をついた。かすむ目を押さえる。
「……アルタイル少尉をここに。これから少し仮眠を取ろう」
 見た目が変わっても、その目の色は変わらなかった。
 私兵は、プレイヤードが新しい人生を祈って書類を書き換えたかつての少年は、海軍学校の教官に厳しくしつけられたお手本のような敬礼の下で、朝焼けのようににじむ笑みを浮かべた。
 その光景は、後悔ばかりを胸に抱えて生きる兄にはついぞ見ることのできなかった、幸福な未来そのものだった。

▽ 夢見の悪いプレイヤード大佐の話

「やめなさい、プシュパ――」
 プレイヤードは目の奥に重みを感じて目が覚めた。寝室のそこだけが妙にがらんとした空間に声が吸い込まれていった。
 奇妙な夢を見た気がした、とプレイヤードは額に手をあてて考えた。
 目にもまぶしい、白と青の夢だった。白昼にあっては夢想すらしたことのない、陸軍の地味な色に慣れた我が身が白い軍装をまとって立つ姿がそこにあった。靴の裏はゆったりと左右に傾ぐ薄い板に支えられ、正面から吹きつける潮風に髪が洗われる。大海原を航行する軍艦と併走するのは、海面を泳ぐように飛ぶ見たこともない生きものたちだ。
 しかし、プレイヤードはつい先ほどまで、彼らの名前を知っている気がした。その群れのなか、ある優れて聡い個体、離れて任務にあたろうとも常に心中の深いところでつながっていた親しい存在。プレイヤードが手を伸ばし、傷ついたその体をいたわり、心を交わすことを許してくれたあの生きもの。
 そして部下のとなりに立つあの男、あの者の名前は。
「えっ、冗談だったんですか!?」
 プレイヤードはふと我に返った。カーテンから日が差している。もう迎えの時間が過ぎていた。
 陸軍大佐のプレイヤードには、ひと巡りする星とともに地平線の彼方へと去ったうすもやの世界について、いつまでも目を留めている暇はなかった。たとえ枕についた手がひやりと冷たく、そこが濡れていることに困惑を覚えようとも。
 朝の身支度を済ませてリビングに顔を出すと、いつもながら揶揄われたことに憤慨してまなじりをつり上げていた部下が、プレイヤードを認めてすぐさま反応する。
「大佐! おはようございます!」
 さっと椅子から立ち上がって向けられた敬礼にプレイヤードは軽く返礼し、着席するよう促した。若い部下の前には少しだけ口のつけられたコーヒーカップが置かれてある。
「待たせてすまないね、少尉」
「いいえ。ちょうど今連絡がありまして、本日最初の会議は時間が変更になりました。今朝はゆっくりと出発なさいますか」
 プレイヤードは目だけで壁掛け時計を見やり、急な予定の変更に頭を痛めながら口をひらきかけ、しかし横合いから飛んできた言葉に遮られた。
「朝メシは食べていくだろ、義兄さん」
 キッチンからバターの溶ける香りがした。はちみつの瓶の蓋があけられ、庭で摘んだばかりの木いちごを部下が目を輝かせて見ている。
 父親から譲られた古いラジオがノイズ混じりに朝の気象情報を伝えている。天気晴れ、北北東の風、波おだやか。母親譲りの手さばきでパンケーキがひっくり返される。
 プレイヤードはフローリングの白い床を踏み、「コーヒーを」と言った。
「アルタイル少尉、私にもコーヒーをもらえるだろうか」
「あ、はい! 気づかず失礼しました!」
「悪いな少尉、俺は手が離せないもんで。義兄さんは無糖派だから何も……」
 と言いさして、おや、とカウンターの向こうから首が伸びる。
 うなじで結われた髪が肩から流れ落ちている。濃い色をしていた。血のつながらない兄とは違う、硬い殻を持つくるみのような色。
「少尉もとうとう大人になったんだな、おめでとう」
 一転して、その唇がにやりといじわるそうに上がる。
「それともミルクなしで我慢して飲んでんのか? 中身が一向に減ってないな」
「こ、これは、我慢とか憧れとかそういうものではなく……!」
 プレイヤードの前に給仕されたコーヒーがあやうくこぼれかける。ふたたびの「失礼しました!」の大音声にプレイヤードはかすかな笑みを浮かべた。
 目の奥が重い。頭がぼやける。何かをうまく掴み損ねているような感覚が起きしなから常にあった。
「――義兄さん?」
 キッチンから声がする。弟の声だ。
 兄と呼ぶあの声に応えようと、その名前を呼ぼうとして、プレイヤードはめまいを覚えた。
 ふらりと壁についた手が何かに触れる。白い。金糸の房がゆらゆらと揺れている。床が揺れていた。波が底板を突き上げ、目の前が大破した。
 船が呑まれる。しぶきが目にかかる。プレイヤードは弟の名前を呼んで引き止めようとあがき、手を伸ばし、いつしか喉を押さえていた。
 喉が乾いていた。磯の香りをまとった空気が喉に絡みつく。目の奥が重い。
 舷窓の外はまだ暗かった。
 プレイヤードは目を閉じたまま、哨戒に立つ部下たちの低いささやき声を聞きながら、手の甲でまぶたを押さえた。
 枕もとでおだやかにくり返される小さな寝息と重なって、何の気負いもなく少尉を呼ぶその男のひそめられた声がやがて潮騒の静まりとともにゆっくりと遠ざかって聞こえなくなるまで、プレイヤードはそうやって長く目の奥の重みを受け止め続けた。

▽ ライラニカイ島で休暇を過ごすアルタイルとアイウォルツの話

「ほら」
 手を差し出され、アルタイルは半分海に身を預けたまま固まってしまった。
 新しい拳銃に合わせたグリップの跡が手に残っていた。新しい傷、新しい指の厚み。
 病床のふちから新たに萌え出た生命力。
「……少尉?」
「すみません、少し……考えごとをしていました」
 アルタイルは海水に濡れた手でアイウォルツが差し出した手をつかみ、体を桟橋に引き上げた。
 太陽で熱せられた木の板が冷たい肌をあたためた。日々海のごく近いところで生活していながら、軍服を脱いで泳いだのは久しぶりだった。何を探すでもなくのびのびと育った海藻の茂みをかき分け、目にもあざやかな魚たちの岩陰を縫って泳ぐさまを見守り、まっすぐに海の砂底まで照らす太陽の輝きを浮き上がる泡のあいだから眺めた。体力作りのための遠泳ではない、船鐘に急かされることのない自由な時間。自分たちの愛する海を、ただそのまま受け止めるだけの解放感に満ちたささやかな休息。
「ふーん。その考えごとってやつは、俺に相談できないたぐいのものか?」
「いえ……」
 いい息抜きになればと思ったのだ。彼のために。
 アルタイルは濁した言葉がそのまま否定につながった気がして、首を横に振った。
「いいえ。本人にも相談できない考えごとはしないと決めていますから」
「それってつまり、俺が少尉をそんなに思い詰めた顔にさせてたってことか」
 アイウォルツは釣り針に餌をかけながら、口笛でも吹きそうなのんきさで言った。
「……思い詰めたような顔をしていましたか」
「そう。実は沈没船のお宝を発見して独り占めしようか悩んでるのかと思ったが、どうやら違ったみたいだな」
 軽く手首をしならせ、透き通った海の向こうへと釣竿が傾けられる。美しいベルベットをなしていた魚影が一斉に散り、ぽかりと空いた波間のなかを、やがておそるおそる近づく一匹の魚がいた。
 群れを離れ、罠に飛び込み、未知なるものに好奇心を抱いたまま棲み慣れた海を抜け出そうとする一匹の魚。
「独り占めなんてしませんよ。プレイヤード大佐をこちらにお招きする絶好の口実になるじゃないですか」
「あいつがそんなもんで釣れるかねえ」
 よっと声を上げながら引き上げた釣り糸をたぐり寄せ、アイウォルツは逃げようともがく魚の口からかぎ針を外した。
「ほら、少尉」
 そのまま魚をくれるのかと思ったら、せっかく釣り上げた獲物を海に戻し、空いた手でアルタイルの冷えた手をつかんだ。
「ずっと気にしてただろ。俺のも少しは少尉のようなたくましさが戻ったか?」
 アルタイルは虚を突かれ、その一瞬で彼の言葉を冗談として流す機会を逸してしまった。それからようやくのことで苦笑を浮かべる。
「たくましさって何ですか、失礼な。そりゃあ私の手は、リゾート地の浜辺で優雅に寛ぐご婦人方みたいな繊細さはしていませんけどね」
「違うだろ」
 短く言葉を切って、アイウォルツは手を持ち上げた。おのずとアルタイルのものも持ち上げられ、太陽に明るく照らし出される。つないだ手の体温が、陽のあたたかさが、海に慣れた肌に生命の息吹を吹き込む。
「少尉のこの手は、観光客を、市民たちを危険から守るためにあるんだろ。あんたがそうと決めたんだ、俺の知らないあいだもね」
 手榴弾の高熱に焼かれた痕。船に配属されたばかりの新米海兵をかばうためにわずかに右に曲がった指の節。それらがはっきりと白日の下にさらし出される。
「……この手であなたを守りたかったと言ったら、私を叱ってくれますか」
 ぐっとつないだ手に力が込められた。
「同じだけ少尉が俺を叱ってくれるなら」
「平等ですね」
「そう。でも俺は少尉の私兵だから、まずはあんたが俺を叱らないと」
「そうされる心当たりでもあるんですか?」
「さあね」
 相変わらず返事は軽やかで、しかし隠しがたい不穏な気配を感じ、アルタイルは軍艦の停泊する沖合へ反射的に目を向けた。
「……何をしたんですか? アイウォルツさん、プレイヤード大佐に休暇を勧めるために、いったいどんな計画を立てたんですか?」
 少尉の忠実な私兵は、まるで今にも飛び出していきそうな上官を桟橋に引き留めるように、ただ飄然としてつかんだ手を離さなかった。
 互いの手のひらの温度が溶けるように混じり合う。
 夜明け前の病室で、アルタイルはこの手をおそるおそる握ったことがあった。あのときわずかに反応のあった命の拍動を、彼女はもう、忘れることがないだろう。

▽ アイウォルツとアルタイルと海の流れ星の話

 そわそわと落ち着かないまま甲板を行ったり来たりするアルタイルを、アイウォルツは船の縁に肘をついて眺めた。
 海から吹き上がる夜の潮風がアイウォルツの長い髪を後ろにさらっていく。あたりは右も左も暗闇に沈んでいた。
「もっと気楽に構えようぜ、少尉。今の俺たちはただの乗客だ、船旅はまだ始まったばかりだろ」
「それはわかっています、わかっていますが……!」
 縄を肩に担いだ若い水夫がマストのてっぺんで作業している。アルタイルが下からハラハラと見守るのをよそに、裸足で器用に体を支え、畳んだ帆を慣れた手つきで固定していく。船に乗っていながら何の役割も与えられない状況に、むしろ海軍少尉の方が慣れていないらしく、アイウォルツは小さくため息をついた。
 彼女と同じように見上げれば、視界にあるのは一本の太い柱だけとなっていた。その向こう、これまで風を受けて広がる帆に遮られていた夜空を、レースの長い裳裾を引いて横切るように星が流れ落ちていった。
 ひとつだけではない。いくつもの流れ星がそのあとを追って半円の天蓋にきらめく線を描いていく。水夫も思わず手を止めて見惚れている。
「ほら、少尉……」
「アイウォルツさん!」
 流星群だ。そう告げる前に驚きの声があがる。アルタイルはもう空を見上げていなかった。目の前に飛び込んできた頭のつむじがいつもより低い。
「星が――、流星が、海に」
 暗い海に向かって人差し指が伸びる。板目を軋ませながら浮かぶ船のそば、底知れない暗闇のなかを、黄金に輝くひと筋の星が流れていく。
 ラクタスオルだ。暗く冷たく広がる海原を、ただ一匹だけがまばゆい光の航跡を残しながら、海と空の境いもつかない夜の彼方へと消えていく。闇に溶けゆく星の光が波に揺れ、遅れて船底を重く響かせた。
 ふたりは言葉もなくその光景を見送った。船明かりの届かない先、深い夜の靄に隠れた海の果てには、彼らがしばし別れを告げたポート・アウリオンの島影が沈んでいる。
 若い水夫がとんと甲板に降り立つ音でふたりはようやく目を見交わした。
「……船旅はまだ始まったばかり、ですよね」
「下された任務内容によれば。あんたが帰りたいって言うのなら、俺は付き合うけど」
「まさか。仕事をなげうってまで帰りたいとは思いません。ですが……」
 アルタイルは船端に手をついて背筋を伸ばし、満天の夜空を振り仰いだ。星々は今や広げた帆を閉じて素知らぬ顔でそこに静かに座っている。
「帰りたいと思える場所があるのはどれほどしあわせなことなんだろうと、ただそう思っただけですよ」
 あの孤独に旅するラクタスオルは、七年に一度だけ落ち合ういつもの場所で仲間に会えると信じているのだろうか。あるいは、これから長い旅路を経て、仲間と約束の地を目指すのだろうか。
 遠い海から光を投げかけ、星を手招き、人の営みと一瞬だけ交わる海の生きもの。
「アイウォルツさんもそう思いませんか?」
 それはきっと孤独ではない。空に星が輝き続ける限り、彼らにとって孤独な旅にはなりえない。
 アイウォルツは頭上で輝く大先輩たちを見習って、少尉の問いかけに黙って肩をすくめるだけにとどめた。

▽ ガンドルフォから社会見学のご褒美をもらうシャーリーの話

 仕事がひとつ片付き、いつもの癖で懐から煙草を取り出したところでガンドルフォはぎょっと目を見開いた。
 顔のすぐ近く、咥えた煙草の先をシャーリーがにこにことしながら見覚えのある銀のライターで火を灯し、手品師のようにパチンとふたを鳴らした。目が音に反応したその瞬間には手のなかからライターが煙のように消えていた。
 イリュージョンだ。観客は立ち上がって拍手喝采。
 ガンドルフォは煙草を指に挟み、白い煙を吐き出しながら深くため息をついた。
「……おい、不良娘」
「はい?」
「今のはどこで覚えてきた」
「ふふふ、ガンドルフォさんのライターは今、後ろのMさんの胸ポケットにあります。ヴェルネットさんから教えてもらいました」
 目をキラキラさせながら大道芸の成功に喜んでいる。
 ガキか。ガキだ。ガンドルフォは空を仰いだ。工業地帯から流れ出た煤煙が太陽を霞ませている。
「そっちじゃねェ。お前の父親は煙草を吸うのにお前の手を借りるのか?」
「いいえ。父は紳士の社交場でしか煙草を嗜まない人ですから。私の前では吸いません」
「そうか。オレは自分の好きなときに煙草を吸うし、自分のやりたいようなやり方で煙草に火をつける。わかったな?」
「あ……」
 明るく輝いていた顔がみるみるしぼんでいく。その鼻先にガンドルフォは煙草の煙を吹きつけた。背後でMの非難の声が上がったが、ガンドルフォは当然のようにそれを無視した。ライターについて余計な助言を入れたのが誰かよくわかっていた。
「次に行くぞ」
「ごほっ、う……、っはい!」
 咳を抑えながらも小気味よく返事をしたあとで、シャーリーははたと首を傾げた。
「ですが、お聞きしていた本日の予定は、先ほどの取引先の方で終了したのではありませんか?」
「だからだよ」
 学校の長期休暇を利用して、アンティカ有数の実業家の後ろを雛のようについて回っては子どもらしい無垢な笑顔で老獪なジジイどもを手玉に取った褒美に、ガンドルフォは路地の向こうを親指でくいっと指し示した。
「お前をとっておきの店に連れてってやる。あそこで好きなものを選べ」

 シャーリーはここ数日の社会見学のあいだに、ガンドルフォのカルペディエムの腕前がいかに優れ、同じカードゲームに親しむ同好の士たちからいかに畏れられているかを彼の部下や友人たちからよく教え込まれていた。
 そうした知識を持っていたシャーリーであっても、束の間ぽかんと口をあけてしまった。
「……たくさんの事業の社長をお務めになるガンドルフォさんでも、あのように心から楽しそうに笑うのですね」
 店に入って早々、シャーリーの存在を丸ごと忘れてカルペディエム専門店の店主と話し込むガンドルフォの顔は、工場責任者と半年先の稼働率について真剣に討議する姿とも、借金の取り立てついでに新たな融資を提案するアンカティアの顔役らしい振る舞いで見せる姿とも違っていた。
 シャーリーはそっと自らの頬に手を当てた。
「あれは、あれはまるで……」
 『ロマネバロムの冒険』の新しい展開にどきどきと胸を高鳴らせる自分のようだ。小説を読み進めるごとに、物語が進むごとに、これからどのような冒険が行く手に待ち受けているのか心弾ませる鏡のなかの自分のようだ。
 まるでもうひとりの私。何て素敵な浪漫。店内の右も左もカルペディエムの商品ばかりが展示されたなかで、放ったらかしにされたまま自由に見て回っていたシャーリーの足を、その浪漫はとてつもない力で縫い止めた。
 それは壁に飾られた新聞の切り抜きだった。端に手書きで日付が加えられているが、それを見ずともシャーリーにはいつの号のものかすぐにわかった。
「まあ……! ロマネバロムの連載記事、それも傑作と名高い時計塔篇ですね!」
 紙面で連載がはじまったのはもう二年ほど前になる。最果ての街の時計という時計の針が何者かに盗まれる事件が起こるが、それを解決に導くために行われた大勝負がまさに時計塔の上で繰り広げられたカルペディエムだ。新聞の切り抜きは、特にその勝負の別れ目となる互いの手札の読み合いにマーカーが引かれてあった。
 ふと目を落とすと、展示台に、ロマネバロムの絵柄を裏面にあしらった特別仕様のカードと駒でその名場面が再現されている。
「何だこれは」
 耳の近くで低くささやかれ、シャーリーはあやうく飛び上がりかけた。
「何だこれは……!」
 ガンドルフォがおそろしい形相でとなりに立っていた。立っているとの表現はもはや生ぬるく、むしろ展示台につかみかからんばかりの勢いだった。
 店主との会話も傍目に穏やかとは言いがたかったが、これは輪をかけて感情を爆発させていた。
「あれはルールもろくに知らねえシェラザードが、締切間際にでっち上げた超展開だろうが! 再現不可能のはずだ!」
 シャーリーは驚きにまだ胸をどきどきとさせながら目をしばたかせた。
「よくご存じですね」
「作家本人に問い詰めた。あいつ、うちの読者はそんな細部にリアリティなんて求めてませんなどと抜かしやがった」
「ですがこの店長さんの解説によると、最近になって勝利につながる手札の組み合わせが実際に存在すると判明したみたいですよ……新聞への匿名の読者投稿で」
「そんなモン見りゃわかる」
 ガンドルフォの視線は依然として展示台の盤面に釘づけだった。それからゆるゆると口角が上がっていく。
 あ、と思う。まただ。シャーリーの尊敬する父親が、過保護なあの父親が、愛娘をしばらく預けるのに何のためらいも見せなかった立派な大人としての風格を持つガンドルフォが、まるで何の力も持たない女学生の自分のように、心の底から満たされて笑っている。
 シャーリーはぱちぱちとまばたきした。映る世界は何も変わらない。
 現実はシャーリーの目に映るままに動いている。
「ガンドルフォさん」
「何だ、オレは見ての通り忙しい。話すなら手短にしろ」
「このお店で欲しいものが見つかりました」
 カルペディエムを真剣に見つめていた鋭い眼差しが、そのままシャーリーに向けられる。シャーリーの胸はもう緊張で騒がなかった。
 彼女の心はすでにたったひとつのことに占められていた。
「『ロマネバロムの冒険』で描写されたほかの未解決のカルペディエムのゲーム、私たちで解き明かしませんか。まだ誰も解き明かしていない謎に挑戦してみませんか」
 口を動かすたびに声の調子が少しずつ興奮の色を帯びていくのが自分でもわかったが、シャーリーは少しも心の高ぶりを抑えられる気がしなかった。このときめきは、きっと誰にも止められなかった。
「もしかすると正解の存在しないゲームかもしれません。無駄な時間を費やすだけかもしれません。でも、正解のないゲームに挑戦するなんて、それって何て素敵なことだと思いませんか?」
「いいだろう」
 即答だった。
「……え?」
 シャーリーは問いかけた唇のままぽかんと固まった。
「聞こえなかったか? それとも顔の横にぶら下がってるそのふたつの穴は飾りか?」
「いいんですか? 正解を発見できる確証なんてどこにもないんですよ?」
「お前が言い出したんだ、何を驚いてる」
 シャーリーが目を丸くしているうちにガンドルフォは店長を呼びつけ、展示ケースに飾られたロマネバロム仕様の限定版をラッピングさせた。
「オレからの課題だ。どうせお前、ルールも大して把握してないだろ。そいつを使ってまずはこの解き明かされた謎に挑戦してみろ」
 ガンドルフォが展示台を指で叩く。その顔は、もはやシャーリーの見慣れたものになっていた。
 幼い頃に泥のなかで拾ったガラクタが、かけがえのない宝物になったように、雨上がりにできた水たまりが、いつもの街並みを美しく反射するように。
 あの日、時計台の針がアンティカの街に奇跡の瞬間を知らせたように。
 ガンドルフォは笑った。美しく目を輝かせて、子どものような笑みだった。
「あいつからの挑戦状をまずはお前が解いてみろよ、シャーリー」

▽ ティーガーとゲルトルートと秘伝のお菓子

 ティーガーが少し目を離した隙に、爪の先まで丹念に磨かれた指が、できあがったばかりのお菓子をひょいとつまんだ。
「あっ」
 従官のひきつった声を気にも留めず、生まれながら最高品質に慣れ親しんだ唇があっさりと素人手製のお菓子を受け入れ、上品に咀嚼し、そして満足そうに指先をぺろりと舐めた。やんごとない身分にありながら、していることは下町のやんちゃ小僧そのものだ。
 ティーガーは宿の厨房で頭を抱えた。
「何やってんですか、姫さま……」
「夕食の時間にはまだ早いのに、おいしそうな甘い香りがしたからね」
 ゲルトルートはにっこりと上機嫌に微笑んだ。
「うまっ! と、作法に則り私も高らかに宣言すべきかな?」
「そんな作法はありませんって」
 仕える主人の天然ぶりを呆れながらいつものことと流そうとして、ティーガーはふと思いとどまって真面目な顔をつくった。
「言っときますが、俺のハルバートに誓ってそんな作法はありませんからね? 城内に帰った暁には、特にあなたの執事の前では旅先で見聞きした言葉遣いをしばしお忘れください」
「参考に、例えば他にどんなものが?」
「……姫さま」
「ふふ、わかったよ。お前の頼みというなら気に留めておこう」
 すらりとした指先が再び怪しく動き始めたため、ティーガーはお菓子をさっと後ろに隠した。
「ああ……」
 残念そうなため息は、人間の心理に疎い頭では理解が及ばない。殊に聡明な王女殿下の真意を汲もうとなれば尚更だ。ティーガーはできるだけ穏やかに断り文句を並べた。
「これはあり合わせの低級素材でつくったものですし、姫さまにお召し上がりいただけるほどの完成度じゃないんですよ。小腹が空いたときにと思って、王城の職人が姫さまのためにご用意したグミがまだあったはずです。夕食が待てないとおっしゃるなら、ほら、部屋に戻りましょう」
 さあさあと、厨房から体よく追い出そうとしたのがあからさますぎたのか、ゲルトルートはむっと唇を突き出した。
「お前、私がいくつになったと」
「つまみ食いした姫さまが何言ってんですか。そうしているとますます子どもっぽく見えますよ」
「むう」
 今度は情けなく両眉が下がり、ティーガーは内心でうめいてしまった。
「……どうしてそう、俺のお菓子なんかが気になりますかね」
「ティーガーこそ、今気にするのはそんなことかい?」
 子どもっぽく不貞腐れながらも視線はまっすぐにティーガーを見つめ、このときばかりは王女でも従官でもないただの人間として手を伸ばせば届く距離感の錯覚に、ティーガーはわずかに体が竦んだ。王城であれば、と思う。姫さまはこんなにも多彩な表情を見せないだろう。だから臣下一同、王女殿下のお忍びを喜ばしく見守っている。
「お前は気に入った相手にはプレゼントするんだろう? グミにも、グラスも受け取ったそうだな。私には何もない」
「姫さま、それは」
「これまではお前のしたいようにやらせてきた。愛ゆえにね。だが、私もこの調査の旅でひとつ発見したことがある。私に忠義を尽くす部下についてだ」
 指が一本立てられる。お菓子をつまみ食いした指だ。威厳も何もあったものではないはずなのに、ティーガーはもう何かを言われる前にすっかり白旗をあげる気分になっていた。自身の敬愛する姫さまに適いっこないことは、とっくの昔から知っていた。
「お前を愛するにはただ時宜を待っているだけではいけないとね。私から欲しなくては、いつまでもお前はそこに留まったままだろう? さあ、後ろに隠した手を出して」
 ティーガーはぐっと息をのみ、それから膝をついてうやうやしく従った。
 大事な姫さまの指先をそっと握る。
「おや」
「あれは高カロリーなんで、今日の分はもうおしまいです」
 ティーガーはがっかりと肩を落とすゲルトルートに笑って言った。
「だから、明日まだ欲しいってんなら差し上げますよ。明日も、明後日も、いつまでも。姫さまのお望みとあらば」
「……しまったな」
 ゲルトルートは軽く手を引いてティーガーを立ち上がらせると、しまったな、ともう一度つぶやいた。唇をやわらかく上げ、少しも困ってなさそうに。
「私から甘えるはずだったのに、お前は昔から、私を甘やかすのが得意だな」
 ティーガーはついに、声に出して笑ってしまった。
「そりゃもちろん。俺はあなたの愛する従官ですからね」

▽ ティーガーとターネスと何でも食べたがるマーガレットの話

「実家に伝わる秘密のレシピ?」
 ターネスがはんと鼻を鳴らして笑った。皮肉めいた笑みだ。あるいは挑発。それともそこに込められているのはどこまでも深く暗い、消えることのない憎悪だろうか。
「よりによってお前がか、ティーガー? 俺から父親と母親のぬくもりを奪った張本人のお前こそが、家族と幸せに暮らしましたとさって?」
 頭が割れるように痛かった。
「……やめろ」
「やめねえよ。お前らだってやめなかったんだ。泣いてみじめな俺を囲んで、これで町が救われると嬉しそうに白い飴を拾い集める。なあ、俺はお前の神さまになれたのか?」
「違う……、お前は人間だ、神さまなんかじゃないだろ」
「ああ、そうだったな。人間の気持ちってもんをわかってねえのはお前の方か」
 ぽたりと雫が垂れた。頭が痛い。まるで憎悪の刃に額を裂かれ、血が噴き流れているように痛かった。
「なあ、本でお勉強をしたところでお前に理解できると思ってんのか? 俺の家族を壊したお前に、その資格があると本気で思ってんのか?」
「やめろって」
「お前には、永遠に人の気持ちがわからねえよ、ティーガー」
「……もう、やめてくれ、ターネス!」
 がう、と声がした。甲高く、幼い、まだほんの小さな女の子の声だ。
 ティーガーはがばりと身を起こした。額がぬめっている。というよりも涎まみれ。マーガレットを背後から抱き上げたターネスが、呆れたようにティーガーを見下ろしていた。
「そりゃまあ、俺はマーガレットのパパだからな? カントクセキニンがあるもんな? だからってそんな哀れっぽく悲鳴を上げなくてもいいだろ」
「お、お、お前……いつから」
 どうしてここに。なぜ俺がいるとわかった。ティーガーは悪夢から覚めたばかりの朦朧とした頭のまま喘ぐように口だけ動かした。驚きすぎて声も出ない。
「いつからって、お前のモンスターがこのあたりの森をうろついてんのが見えてから」
 ターネスが指さしたのは、伝書係としてグミ・ワールド中を飛んでもらっているポネットだった。今はマーガレットにふかふかの尻尾を食べられかけている。
 隠したい諸々の事情を見破られているだけでなく、今まさに目の前で起ころうとしている惨劇に、ティーガーは顔をひきつらせた。
「あー、マーガレットお嬢ちゃん? 頼むから、かわいいお口を一旦閉じて、そいつを食べんの我慢してもらえねえか。俺の仲間なんだ」
「おいしそう」
「……おお、それは否定しねえ」
 モンスター研究者によると、ポネットの尻尾はあえて食欲を誘発させる機能があるという。だがそれは捕食のためではなく、人間と無邪気に遊ぶためではないかという説もある。当のモンスターはティーガーの言葉にショックを受けていた。
「あらら、お前が苦手なのは人の気持ちばかりじゃねえみたいだな」
 容赦のない指摘が胸に刺さった。
 ターネスの皮肉めいてつりあがった唇に、こちらを流し見る眼差し。そのどこかにいまだ燻る憎悪が見え隠れしていないかと、思わず探りそうになった衝動をティーガーはぐっと堪えた。
「お前からも、マーガレットに頼んでくれねえか」
「はん、そうやってすぐ俺に頼るクセ、治ってねえな?」
「……っ、ターネス、お前」
 これは間違えようもない皮肉、挑発だ。何万回の謝罪よりも償いたい痛みがティーガーの心に残っている。それはターネスの痛みだ。自分の裏切りによって植えつけられた彼の痛み。
 だが、その認識こそが間違っていたのだと、次の瞬間わかった。
 ターネスは笑った。穏やかに、眦をゆるめて、彼の愛娘に向ける父親の顔で。
「マーガレット、こっち来いよ。ティーガーがとっておきのお菓子をお前にくれるらしいぜ」
「は、あ?」
「持ってんだろ、例のやつ」
「例のって……」
「察しが悪いな、それともまだ寝ぼけてんのか? お前が癒術士に渡したあのお菓子だ」
 ティーガーは絶句した。
「おなかすいた」
 袖を引かれる。マーガレットが指をくわえてティーガーを見上げていた。
 平穏の象徴がそこにいた。外から見ればいびつで、いつ壊れるともしれない不安定な関係だが、ようやくターネスが手に入れた幸福な家族のぬくもり。いまさら自分のような存在が近づいてもいいのだろうかと、ティーガーは息を詰めた。彼女が全幅の信頼を寄せる父親の幸福な子ども時代を踏みにじったのは、まさにこの小さな手の先にある。
「だからお前は中途半端なんだよ」
「おなかすいたー!」
 ターネスに頭をたたかれ、マーガレットに強く袖を引かれ、ティーガーはずるずると座り込んだ。
「……あー、くそっ」
 噂のもみ消しも、ターネスを外国へ逃がそうとしたことも。後悔はしていないが、後ろめたさはあった。
 隠れて物事を進めるのは気が楽だった。相手から見えないということは自分が誰でもないということだから。相手にとって誰でもなければ、これ以上失望されることはない。憎しみを向けられることもない。
「てぃーがー、どこか、いたい?」
 この痛みは自分のものではない。どれほどの間違いを犯したとしても、この痛みだけは取り違えてはならない。この痛みだけが、ティーガーにできる償いの証だ。
 無邪気に顔を寄せる幼い子どもの唇に、ティーガーは「とっておきのお菓子」を押し込んだ。そのまま指まで噛み砕かれそうになって思わず苦笑する。暴力的なまでに貪欲で、恐ろしいほどに純粋。
 目が離せない。
「お前のパパの気持ち、わかった気がする」
「はあ? マーガレットのパパは俺だけだぜ?」
「そうかよ」
 めんどくさいやつだ。めんどくさく、そして一番の友人だった。実家に帰ればいつでもあふれるほどに思い出がよみがえる。町のどこを見てもそこには子ども時代の影がある。背丈の小さい、ふたつの影法師。旅芸人が来ると聞いてこっそり潜り込んだ広場のテントに、親の目を盗んで飲んだソーダの味。
 今でも神さまがいると信じている人々。
「マーガレット、お前のパパはお前のことが大好きだってさ」
 お菓子をぺろりと飲み込むと、マーガレットはにっこりと笑った。
「しってる。まーがれっとも、だいすきだから!」
 暴食のお姫さまの拘束から逃れたポネットが、ふわふわと宙を漂い、やがて尻尾の先がティーガーの髪に触れた。ぽねね、と拗ねた声に、ティーガーは謝罪の気持ちを込めて涎まみれの自分の頭に乗せてやった。
 ぷっと吹き出す声が聞こえる。
「ははっ、お前らも、そうしてるとまるで親子みてえにそっくりだな」
 相好を崩して笑うターネスに、ティーガーはただ「うるせえよ」と憎まれ口をたたいて、それからふっと肩の力を抜くようにみずからも笑った。

▽ ティーガーとゲルトルートと贈り物の選び方

 硬い飴玉を掴んだとき、これですべてが終わるのだと思った。大人たちがたったひとりに固執する奇妙な毎日も、噂話を探る外の人間への警戒も、あいつが膝を抱えて泣く理由もこれでなくなるのだと思った。
 部屋の窓を割ったとき、心の何かが一緒に割れたような気がした。隙間風が吹くそこに、取り戻せたものは何もない。頼れる町の大人たちも、無責任な噂話も、ひとりで逃げていったあいつの背中も。愚かな子どもが漠然と願ったようにはもとに戻らなかった。
 犯した罪への償いに終わりはなかった。罪深いこの手で終わらせてはならないのだと、神さまを失って立ち上がれない大人たちを前にして、そのときになってようやく気がついた。

「最近は絵本を読んでいるそうだね」
 執務机から顔を上げ、ゲルトルートが隅に控える従官に言った。
「……グミっすね」
 告げ口した犯人に心当たりがある。ティーガーは口の端をひきつらせ、すぐに表情を改めた。ゲルトルートがいつものおっとりとした微笑みを浮かべていたからだ。掴みどころのない、だが心から真摯に人と向き合うあの笑みで。
「お前は昔からよく本を読んでいたけれど、絵本とは真逆のタイプだろう? だから興味深いと思って。読みはじめた経緯を知りたくなったんだ」
 ティーガーは頬をかいた。
「姫さまならもう見当がついてるのでは?」
「ふふふ、メルクかい?」
「……そこまでお見通しとは思いませんでした」
 ひと足もふた足も話が早い。そこまで把握されているとなれば、ティーガーはもはや両手をあげて降伏するしかなかった。
「姫さまと一緒ですよ」
「うん?」
 何のことだろうと首を傾げるゲルトルートに、ティーガーはやわらかく言った。
「俺も知りたいと思ったんです。プレゼントに絵本を贈られた相手がどんな気持ちでそれを読むのかを」
「相手はマーガレットだね?」
「はい。マーガレットにプレゼントを贈りたいとメルクに相談したとき、まず言われたのが、プレゼントは俺の気持ちを渡すつもりで選ぶのがいいと、喜ぶ顔を想像しながら選んだのだと伝わることこそが嬉しいものだと言われまして」
「なるほど、それでまずは本屋に立ち寄り、参考になりそうな自己啓発本を探したのか」
「……姫さま、もしかしてあの場にいましたか?」
「面白い発想をするね、もちろんいなかったよ」
「かなり本気なんですが……」
 行動を読まれている。しかもこれでは、本屋で真っ先に「気持ちを伝える十八の方法」というタイトルの本を手に取るティーガーにメルクが呆れた眼差しを送ったところまで見透かされているかもしれない。
「ところで姫さま、時間までに公務を終わらせそうなんですか?」
「む、話を逸らしたな」
「休憩されたいならそう仰ってください、グミを呼びますんで」
「ティーガー」
「はいよ」
 声だけで呼ばれて、ティーガーはほとんど無意識のうちに姿勢を正した。この声で呼ばれるのが好きだ。城下の者たちからも慕われるお茶目な王女の親しみやすい一面とは別にある、次の王たる器を垣間見せる鋭く澄んだ声をティーガーはひそかに気に入っていた。
「私はお前の話が聞きたいんだ」
「……はあ」
 何とも気の抜ける主人からの要望に、ティーガーは一瞬膝から崩れ落ちそうになった。
「俺の話ですか。あらましはもうほとんど姫さまのご承知のとおりですが」
「それは違うよ。私の考えではなく、……ああ、もちろんグミからのものでもなく、お前のその口から聞きたいんだ」
 執務椅子にゆったりと座ったまま、直立不動の姿勢をとるティーガーを見上げ、ふふ、とゲルトルートが楽しそうに笑う。どのような事態を前にしても泰然とふるまい、すべての存在を愛おしみ、超然とした眼差しで世界を見通すグミ・ワールドの王女殿下。今まさに自分はこの人に仕えているのだと、まざまざと感じさせられる圧倒的な存在感。
「……絵本は、あいつにとっての世界でした」
 問われているのは自分自身のことだとわかっていながらも、言葉にしたのは別人についてだった。幼馴染で、一番の友だち。そしてティーガーが許されざる罪を犯してしまったその相手。
 名前を変えていたのは知っていた。あの名前は、今でも故郷では神の名に等しい。
「悩みがあれば本に頼るのは、子どもの頃に培われた習い癖かもしれません」
 ティーガーの取るに足らない思い出話に、ゲルトルートが興味深そうに目を細める。
「おや、意外だ。お前は外遊びが好きそうなのに」
「いえ、俺ではなく……親友が。部屋遊びしか許されない体質でしたから」
 それが今ではスイーツハンターとして幻のお菓子を求めて駆け回っているのだから、周囲の身勝手な要求がいかに押しつけられたものだったのかがわかる。ティーガーはゆっくりと奥歯を噛みしめて、王女の前でとるに相応しい顔をつくった。
「絵本をひらけば、そこにはどんな世界もありました。俺たちは巨大なモンスターと友だちになることもできたし、姫さまのような勇敢な王子にもなれた」
「うん、わかるよ。私もだ。私も不思議な森を抜けてお菓子のない国にまで行ったことがある」
 父王の庇護の下で大切に育てられたゲルトルートは、先日、公務で初めて王国まで外遊した。ティーガーも側仕えとして同行し、彼女の見るものすべてに輝く瞳を近くで見ている。
「本物はどうでしたか?」
 ゲルトルートは眉を下げた。
「王国にもお菓子はあったよ、知っていたことだが、ちょっぴり残念に思ったことを白状しよう」
「俺もです。久しぶりに読んだ絵本に描かれていたことが、俺の知ってる世界とはあまりにもかけ離れたもので戸惑いました。こんなものでマーガレットが喜ぶのかと、あいつが……ターネスが、情操教育に悪いと言わないかと」
 絵本には、それを読んだ子どもの頃のあの町には、ターネスにとって唾棄すべき記憶が刻まれている。
「ふふ、いつものお前ではあれば、それで贈るのをやめただろうね」
「……だから、姫さまは見てきたように言わないでくださいよ」
「わかった、もう何も言わない」
 ゲルトルートが口の前で指を交差させたのを見て、ティーガーはあやうくため息をつきかけた。甘える、ということをゲルトルートは王国から戻って以来積極的にしかけてくるようになったが、従官の身分ながら正直にいえば、グラスたちのようにさらりと受け流すのが難しく、自分の前ではできれば控えてほしかった。
 あのときメルクがいなければ、絵本は本屋の棚に戻されていただろう。瓶詰め少女は不思議そうにティーガーの顔を見上げて、「それにするのはやめたのです?」と尋ねたが、やめるも何も、プレゼントのために手に取ったのではなく、ただ久しぶりに見る表紙に懐かしさが込み上げ、ふたつの声で交互に読んだ物語をもう一度辿りたくなっただけだった。それが気づけば二冊も同じ絵本を買い求めていたのは、ティーガー自身の選択によるところではなく。
「楽しそうに読んでいたから、とメルクに言われたんです。大切な思い出の絵本なのではないかと。はは、姫さまといい、困ったもんです。俺はそんなにわかりやすく生きているつもりではないんですがね」
 子ども時代のことを大切な思い出として扱うのは、取り返しのつかない二度目の裏切りのように思っていた。同じことはくり返さないと、これまで細心の注意を払って生きてきたつもりなのに。
「だから絵本をプレゼントに選んだのは、俺ではなくメルクなんです。彼女のアドバイスに従えば間違いないだろうと思って。すみません、失望しましたか」
「いいや。それはお前が」
 と言いかけてゲルトルートが再び口の前で指を構えかけたので、ティーガーは顔をひきつらせた。
「姫さま、俺に仰りたいことがあるならいくらでも」
「そう? だけど……うん、これくらいなら私が言ってもいいか」
 不穏な前置きをひとつ置いて、ゲルトルートは言った。
「お前はまだ、プレゼントを贈り終えていないのでは?」
「まさか。ポネットに頼んであいつらが滞在している研究所に……」
「うん、それだ」
 ゲルトルートが唇をゆるめると彼女の眉の形も優美に動いた。
「ティーガーの親友に。まだ渡せてないのだろう? だからもう一冊はまだお前の部屋にある」
「いえ、それは、俺が読むためにと思って」
「ふふ、もちろんそうだね。できるなら子どもの頃の気持ちに返って読みたいと、私もあのお菓子のない絵本をまた読みたくなってきたよ」
「姫さまは……」
 言い淀むティーガーに、ゲルトルートはいつもの笑みを向けてきた。慈愛の眼差しがくすぐったい。ティーガーは諦めて質問を最後まで口にした。
「姫さまは子どもの頃、どうやって絵本を読んでいましたか?」
「……絵本を?」
 ゲルトルートは珍しくふっと視線を遠くにやると、わずかな間もの思いにふけった。額に落ちる前髪がまつ毛の下に影をつくる。そこにあるのは誰かを愛する目ではなく、誰かに愛される目だ。ティーガーは黙って彼女の理性が感情に追いつくのを待った。
「一度だけ、執務する父の膝の上で」
「目に浮かぶようです」
「つい最近まで、それが普通のことだと思っていた」
「姫さまにとっては普通のことでしょう。そのように甘えられて、あの方もお喜びになられていたのでは?」
「そうだね。……さて、今はこちらの方で父をお支えしようか」
 執務机に転がったままのペンをようやく手に取ると、ゲルトルートはみずからの従臣をちらりと流し見た。
「ティーガー。メルクがお前の背中を押したのは、お前自身が彼女を頼みにしたからだよ。大切な誰かにものを贈りたいという気持ちに応えてね。プレゼントに絵本を選んだ理由は、それだけではいけないかい?」
「……そんなことは、姫さま」
 人を愛し、民を愛することを信条とするゲルトルートの迷いのない言葉が、矢のようにまっすぐ走る。
 なあ、頼むよ、と幼い子どもが肩を掴んでさけんだ。なあ、頼むよ。お前の力で、町を救ってくれないか。ティーガーはゆっくりと奥歯を噛みしめた。
「それだけでも俺にとっては、国中のお菓子の味が変わるほど大変なことなんですよ」
 放たれた言葉は戻らない。過ぎた時間は取り戻せない。額を寄せ合ってひとつの絵本に没頭したあの時間は、綿菓子のようにはかないものだ。

▽ ターネスとマーガレットの小話

 少し目を離した隙に、マーガレットが頭からミルクを浴びていた。服もびしゃびしゃ、床もびしゃびしゃ。子育ては難しい、とターネスが感じる瞬間だ。
「おー、やっちゃったな。そんなにミルクうまかったか?」
「うまかった!」
「……間違えた、おいしかった、な。風邪引くから脱ぐぞ、ほらバンザーイ」
 マーガレットは子ども用の椅子に座ったままきょとんとして、目の前で両手をあげる義父を見た。
「バンザイは難しいか?」
「ばんざーい?」
 小さな足がぶらぶらと宙を泳ぐ。ターネスが服を脱がせようと近づくと、ようやく意図に気づいたマーガレットがにっこり笑った。
「ばんざい!」
「うおっ」
 濡れた手がターネスの首の裏に回った。湿った服が張り付いて瞬間的に体がぞわりとし、無邪気な吐息が耳をくすぐる。
「ばんざーい!」
「わかったわかった、これはバンザイじゃなくてぎゅーっな」
「ぎゅーう?」
「ほら、ぎゅーっだ」
 ターネスは小さな体を抱きしめる。甘く、やわらかく、ミルクの香りをまとう小さな体。呼吸するあたたかさにほっと息をつく。
「このまま風呂場行くぞ」
「やった! おふろで、ぎゅーっ!」
「ハイハイ、ご機嫌だなあ、お前はいつも」
 椅子からマーガレットを抱きあげると、ターネスはぴったりと体を寄せる娘の頬を拭ってやった。

▽ ガルディとアスターのコインの早斬り勝負

 弾かれたコインがくるくると宙を舞う。空中で乱暴にそれを掴むと、親指で再び高く跳ね上げた。
「兄さん!」
 ガルディは目の上にかかる太陽を掴むようにコインを手の中に握り込むと、チッと舌打ちした。
「今日の素振りはもう終わったのかよ、アスター」
「兄さん、手合わせしよう!」
 まだ幼さの残る少年の明るくまぶしい笑顔が弾ける。走った勢いでサラーぺが肩まで裏返り、額には鍛錬の名残りか汗がいくつも浮いていた。
 ガルディは横倒しの樽に腰を下ろしたまま、アスターをちらりと横目で見た。
「剣を握る力は残ってんのか?」
「もちろん」
「じゃ、素振りが足んねえな、追加であと百回いっとくか」
「そんな」
 非難の声が砂埃に吸い込まれていった。
 アスターのしかめっ面にはどこか愛嬌があった。掌中の珠である妹を守ろうと剣の腕を懸命に磨き、日夜を生真面目に農場で働き、素性の知れない男を兄と慕う。そんな兄を見習うかのように、妹もまた同じことをした。
 ガルディはもう一度舌打ちした。
「いつもそればっかりじゃないか。今日こそ手合わせしよう」
「はいはい、そのうちな」
「前にもそう言って逃げた。もう一年は待てない」
「……べつに逃げてねえよ、俺は。この一流の賞金稼ぎさまが、お前らみたいなひよっこどもにケツまいて逃げるかっての。そこまで言うんならほら、試してやるよ」
 親指が金属の重みをピンと弾いた。コインが大きく空に跳ね上がる。太陽の光を浴びながら両者のあいだをくるくると舞い、そして、落下する。
「斬ってみろ」
 安い挑発に、アスターの体はとっさに動いていた。
 一瞬の抜刀。閃光が二度走り、低い姿勢のまま双剣が鞘に納められる。
「……兄さん」
「まだ遅え。軽さがお前の取り柄だろ」
 アスターは呆然と地面を見つめていた。コインがまっぷたつに叩き折られ、重い風圧が砂地をえぐっていた。
 大剣を肩に担いだまま、ガルディはすれ違いざまにアスターの髪をくしゃりとかき混ぜた。太陽の熱を吸い込んだ明るい髪が手の中で軽く跳ねる。
「じゃあな。妹を泣かせんなよ」
「……兄さん!」
 真面目な声が、立ち去るガルディの背中にぶつかる。
「約束する。次に会うときまでは必ず、兄さんに追いつくと約束するから」
 ガルディは振り返らないまま気のないしぐさで片手を上げ、目を閉じた。荒野を砂風が吹き、農場が遠く陰った。
「……悪いな、アスター。お前にゴルドは斬らせねえよ」
 それから軽く空を仰ぎ、ガルディは「あっぶねえ」と本音を漏らして額に浮かんだ冷や汗を乾かした。
 彼らふたりの剣先は、ほんのわずかの差だった。

▽ ガンドルフォとスヴェンと私事広告欄

 ガンドルフォの懐中時計が内ポケットのなかで真夜中の一時を指したきっかり十秒後、店内のドアベルが鳴った。毎週の予定通りだ。いつもの時間、いつものカウンターの席にシルクハットが置かれる。疲れきって崩れるように座り込んだスヴェンの代わりに、ガンドルフォはバーテンダーに酒とつまむものを頼んでやった。その三分後に彼は身を起こしたが、この間に注文が届くかどうかは店内の混み具合による。今夜は日中に降り続いた雨のおかげで客足が少なく、ガンドルフォは薄暗い店内で静かに煙草と酒を楽しむことができた。赤ら顔の絡み酒も、酔っ払いの調子外れの歌もない夜は純金にも勝る貴重品だ。
「……ああ、ようやく今日が終わった」
 部下に檄を飛ばし続けた声はすっかり枯れていたが、それを気の毒がる精神をとなりに座る男は少しも持ち合わせていなかった。
「終わったのは昨日だ。今日が始まってからいま何時だ? 一時過ぎ? 次の締切まで安眠する暇もねえな」
 外の雨は日付を超える前にやんでいた。ぼやけた窓ガラスの向こうでは街灯の光が濡れた路面に反射してにじみ、朝市のために遠くからやってきた荷車の押す音が裏通りからかすかに聞こえていた。
「夜が明けるまで明日は来ない」
 スヴェンがうめくように言った。叙情的表現だ。ガンドルフォの記憶では、どこかのポンコツ作家が迫り来る締切に対して髪をかき乱しながら言い放った言葉だと、まさにその編集担当者本人から聞かされていたはずだ。
「朝の食卓で新聞がめくられるまでは、街の時計は今日のままだ」
「ねじを巻かないうちは事件も寝て待ってくれんのか? 時間にうるさいお前らしくねえな」
「事件はもう起きている」
 死んだような目で酒に口をつけながら、スヴェンはポケットから一通の薄い封筒を取り出した。
「朝刊の私事広告欄」
「意味不明の伝言の集まりだろ、あれは。忙しいこのオレが目を通してると思うか?」
「娯楽に飢えた購読者であれば一面を飛ばしてまっさきに読んでいる。明日の……今日の朝刊はお前も隅々まで確認することだ」
 ガンドルフォは煙草を吸う手を止めた。暗い照明の下で封筒の中身を透かし見るように目を細める。
「オレ宛か?」
「いや」
「……カルぺディエムか」
「だけではない」
「まさか」
 思わずガンドルフォが身を乗り出して封筒に手を伸ばすのを、スヴェンは予想していたように先んじてもとのポケットに戻した。
「見せろ」
「職業倫理に反する」
 盛大な舌打ちにも疲れた顔はそれ以上崩れなかった。
「あいつなんだろ」
「おそらくな。サインは頭文字のみ、だが掲載依頼の文面を見ればわかる」
「お前があの天才の何を知ってんだ」
 互いに誰のことを言っているのか理解していた。最年少で学位を取得した神童にして、希代の発明家。フリーデ教授。またの名をロマネバロム。
「ほとんど何も。坑道に残された研究室以外は、何も知らん」
「ああ?」
 ガンドルフォは口の端をひきつらせた。
「てめえ、勝手に侵入したのか」
「取材のためだ」
「職業倫理はどこにやった」
「だからいま、その埋め合わせをしている」
 スヴェンは空きっ腹に無理やり酒を流し込みながら、据わった目で煙草をくゆらす友人を見た。
「あの狭い研究室に残された資料と、手紙の筆跡は同じだ。俺が保証する。だが惜しいことに、足りないものがひとつあった」
「もったいぶるな」
「……お前の得意分野だ」
「わかってる、カルペディエムの腕前だろ。あいつの相手ができんのはこのオレだけだ、オレ以外に譲るつもりは微塵もねえ」
「違う。内容は確かにカルペディエムに関することだが、重要なのはそこではない」
 スヴェンはぼそりと言った。
「金だ」
 一瞬、ガンドルフォは口に含んだ煙の存在を忘れて咳き込んだ。
「……は? 何だと?」
「二度も言わせるな。上には博士の存在を伏せたまま紙面に載せるよう説得したんだ。どれだけ手間のかかることだったか想像がつくだろう」
「それで今日そんなに疲れてんのか……」
 何やってんだあいつ、とガンドルフォは世の塵芥を無感動に眺める痩せた少女に向かって悪態をついた。だが、これはチャンスでもあった。
「つまり、お前は出資者を探してんだな?」
「そうだ。詳しいことは言えないが、この掲載依頼は今後も続く。その気があるなら、お前の分も」
「……『工場』」
「何?」
「それに書いてあるのは『工場』か」
「……どうとも言えんな」
「オレが負けたゲームの一手目だ。あいつならオレの負け試合をひっくり返せる……クソッ、三倍だ、費用の三倍払う。向こう一年一括払いだ。今夜中に本社に届けさせる」
 ガンドルフォはすでに席を立っていた。手に取った上着の裾があやうくスヴェンの頬をかすめかけた。
「待て、三倍もいらん。お前と相手、必要なのは二人分だ」
「それと優先権だ」
 ほとんど怒鳴り声のようなそれにわずかにいた店内の客が一斉に振り返り、誰かわかるとさっと顔を戻した。
「他の依頼人はその金で追い払え。それ以上出すやつがいれば、オレはさらにその倍払ってやる」
 ドアベルが乱暴に鳴り響き、水溜まりを蹴り上げる音が遠ざかるうちに扉が閉まった。
 スヴェンはため息をついて時間を確認した。
「しまった、二十秒も余計に話し込んだか……まあ、いま帰ったところで朝刊が届くのはまだ先だが」
 急に入った仕事を無事に済ませてほっと胸を撫でおろし、スヴェンは社内で立て直したスケジュールどおりに食事を注文した。自分用の持ち帰りと、それからともに朝食の席につく妹の分も。
 店を出ると、雨がスモッグを打ち払い、輝く月が出ていた。
「あの夜もこんな月と幻想を見上げたな……これは、いつも俺の愚痴に付き合ってくれた礼だ、ガンドルフォ」
 そしてスヴェンは再びため息をついた。
「お前の金払いの良さには少し問題がある」

▽ ブリットとジャンゴと荒野の決闘(CP:ブリット→ジャンゴ)

 扉が無惨に蹴り破られた酒場の通りに、胴元の威勢の良いかけ声が響く。「オッズはジャンゴ優勢! 誰か保安官に賭けるやつはいねえのか――またジャンゴか、この腰抜けどもめ!」ゴルドが飛び交い、興奮する荒野の民の足踏みが砂埃を立てる。
 ブリットの視界からは鈴なりにひしめくギャラリーの存在は消えていた。背中越しに聞こえる声だけが大地を裂いて耳に届き、彼女の世界を圧倒する。
「ガハハ、人気者で悪いなあ。巻き上げた大金でたんまり酒を奢ってやらあ!」
 ジャンゴ。振り向けばそこにいる。互いが振り向く瞬間を想像するだけで血が沸騰する。ブリットはロディオーバと早駆けした直後のように高鳴る心臓を抑えながら口を開いた。
「あらあ、もう勝ったつもり? 勝負事の前に祝杯を望むなんて随分と余裕ですこと」
「か弱い姉ちゃん相手にゃこれで充分さ」
 嘲笑に歪んだ顎鬚、マントの下に隠された二丁拳銃、言葉とは裏腹に油断なく引き締められた筋肉――背中合わせにも伝わる、出口を求めて暴れ回る熱風。手を伸ばせば触れられる距離に、時間が経つほど頭の後ろの意識は肥大し、制服の下の肌は火傷する。
 余裕がないのはブリット自身だ。つば広の帽子を髪に押し込み、相手に見えるはずもない表情を太陽から遮った。位置取りはブリットに味方している。タイミングさえ間違えなければ太陽がジャンゴの目をくらませる。
 でもきっと、それでも。彼は彼女の上を行く。
 ブリットは嘲るように笑った。ジャンゴを、自分自身を、勝負の行方がすでに決しているこの未来を嘲った。
 欲しいものは努力して掴め。ドレスを脱ぎ捨て保安官になると宣言したブリットの背中を、父はそう言って力強く叩いた。汗と泥と他人の唾にまみれながら、保安官の証を手に入れるまで無我夢中で走り続けた。迷うことはない、努力を怠る暇もない、目標はすでに人の形をしていたのだから。
「保安官の姉ちゃんよ、ハンデはいるか?」
「んふふ、あなたこそ、その短い脚だとハンデが必要なんじゃないのぉ?」
 日に焼けたジャンゴの?がぴくりと動いた気がした。
「ガハハハハッ! 一丁前に言うじゃねえか保安官さんよお!」
「ブリットよ、いい加減覚えてちょうだい。記憶力が半人前の賞金首に相応しく、特別に半歩差し上げようかしら?」
「だあれが短足の半人前だと!」
「お前ら勝手にルールを変えようとするな! いいか、合図は三つだ。三歩で双方振り向け」
 決闘から先んじて始まった罵り合いを立会人に制され、むしろほっと息をつきたくなるのをこらえてブリットは肩をすくめた。
「はぁい」
「いいぜ、さっさとやろう」
 ジャンゴの長いマントが肩から払いのけられる。端を縁取る飾り紐がブリットの手首に触れる。右だ。ブリットは再び口もとに浮かぶ嘲笑を抑えられなかった。ハンデなしと言いながら、使うのは右の拳銃だと暗に知らされる。
 紳士的だ。憎らしい。そんなものをこの瞬間に求めてなどいなかった。
 立会人が高く手を掲げるとあたりが静まり返った。蝶番の外れかけた酒場の扉だけが不穏な音を立てている。
 ブリットは、輝かしい未来像がただの思い込みだとわかったとき、保安官の仕事が初めて自分の天職だと実感した。欲しかったものが風に舞う砂埃のように胸の前でかき消えたとき、荒野の民でありながら初めて自然神の前に膝をついて誓った。
 それは使命だ。これからの生涯を尽くして掴み取る魂の使命。
 荒野の町を風が吹き抜け、大地をめぐる祝福の息吹が二人にまとわりつく熱を散らした。
「一」
 ブリットは一歩彼から離れた。背中の火傷を恐れるように。
「ニ」
 ブリットは一歩前に進んだ。憧れを振り払うように。
「三!」
 ブリットはさらに前に出したつま先でくるりと振り向き、太陽を背に立った。新しい自分自身を、新しい使命を今日という太陽の下で宣言するように。
 ホルダーから放ったナイフがマントを掠め、半身を開いたガンナーの顔が砂埃に遮られる。胸に浴びたゴム弾の衝撃で後ろに倒れながら、ブリットが願うのはただひとつだ。
 こっち向いてよ、ジャンゴ。私を見て。

▽ ジャントールとエレオノールの出会い(CP:ジャントール×エレオノール)

 庭に面した窓のカーテンが閉じられている。ジャントールは横目でその様子を確認し、乾いた喉を咳払いでごまかしてから屋敷の戸を叩いた。
「訪問のお約束をしていたジャントールです。教会からの遣いで参りました」
 戸口に現れた使用人は、慣れない仕事に緊張するジャントールにさっと視線を走らせた。ぎこちなく前で組んだ両手に、喉を締めつける詰襟、神のしもべであることを示す胸から下げた十字架まで。眼差しは一瞬で過ぎ去ったが、ジャントールには永遠のようにも思えた。
「奥さまから伺っております」
 使用人はにこやかに歓迎を示すと、扉を大きく開けて招き入れた。
 屋敷のなかは明るかったが、すべての蝋燭が吹き消されたように静まり返っていた。長い廊下ですれ違うのは客人に向かって低く下げられた頭ばかり。先導する使用人が奥の扉の前で立ち止まった。
「エレオノールさま、神仕さまがお見えになりました」
「失礼、私は……」
 まだ正式に叙任されたわけではない。神学院を卒業するまでの残りわずかな時間を奉仕活動に従事することで過ごしていたが、まだ神仕見習いでしかなかった。
 だが、ジャントールは否定の言葉を最後まで口にできなかった。部屋で眠る少女の姿がすでに見えていた。
「神仕さま、どうぞこちらへ。お嬢さまのためにお祈りください」
 ジャントールは軽く息を吸って呼吸を整えると、足音を立てないようにそっとベッドへ近づいた。白い頬、細い首。シーツに散る銀の髪が少女の儚さを際立たせている。精巧な作りものめいた寝顔がそこにある。
 エレオノール。祈りを必要とする少女。生まれつき病弱で、満足に学校にも通えていないと聞いている。教会へも滅多に足を運べないため、地区を担当する神仕の計らいで見習いのジャントールが遣わされることになった。これはジャントールにとっても初めての経験だ。特に、まだ短い軌跡しか持たない病人に対しては。
 ジャントールは勧められた椅子を断ってそのままベッドの傍らに跪くと、シーツの上で手を組んで頭を垂れた。額の下を闇に浸せば、癒しを求める聖句が自然と口をついて出る。小声でささやくように、少女を眠りから起こさないように。どうか彼女に安らぎが訪れますように。輝石を手放す瞬間が遠くありますように。ジャントールは使用人が部屋を離れたことにも気づかなかった。
 そして、少女の赤い瞳が開かれたことにも。ふっと風の動く気配を感じ、ジャントールは顔を上げた。枕に顔を預けたままのエレオノールと目が合う。人形のように硬質な冷たさを持っていた頬の線が今では崩れ、エレオノールは年頃の少女のようにくすくすと笑っていた。
「こんにちは、神仕さま」
「ああ……、こんにちは」
 ジャントールは呆然と彼女の笑顔を見つめ、相手との顔の近さに狼狽えた。瞬くまつげの影さえ判別がつく。笑う吐息が空気に混じって頬に触れるようだった。
 立ちあがろうとシーツについた手をエレオノールがわずかに動かした指先だけで捕まえた。凍えるような冷たさだ。部屋は暖炉で暖められていたが、少女の体は冷えきっていた。
 エレオノールは笑う口をすでに閉ざしていたが、まだ唇はやわらかく微笑んでいた。ジャントールは距離を取るのを諦め、改めて冷えたぬくもりを握り直した。細い指がジャントールの手のなかで無防備に丸まる。
「夢で歌声を聞いたの。夜の池に花びらを浮かべるような歌声を」
 まだ夢見心地の声が言った。
「それで目を覚ましたら、あなたが魔法の言葉をささやいていたから。神仕さまがあの花を咲かせたのかしら……」
 少女のまぶたが再びゆっくりと閉じられていく。ジャントールは何も言うべき言葉が見つからないまま、とっさに口を動かした。衝動は、心臓をひつと大きく跳ねさせた。
「教典に花を咲かせる魔法の言葉は載っていない」
 面白みのない返答に自分でも気分が悪くなる。ここにいるのが頭の固いジャントールではなく、人を喜ばせることが得意なルチアーノであったなら。彼であれば簡単に彼女の笑顔を取り戻せただろう。
 ジャントールはぬくもりを移すように両手でエレオノールの冷たい手を覆った。部屋は薄暗く、暖炉の薪の弾ける音だけがときおり響いた。廊下からはなんの物音も聞こえない。約束していた屋敷の主人たちは姿を見せず、カーテンは閉じられたままだ。
 世界から人が去ってしまったようだ。かつて、眠りにつくまで寝物語を語って聞かせてくれる夜の守り手がいなくなったように、広い屋敷にはエレオノールだけが取り残されている。
「だが、もし君が枕をもうひとつ頭の下に差し入れられるなら、僕は花を咲かせることができる」
「……すごいわ」
 うとうとと眠りにつきかけていたエレオノールが純粋な感嘆の言葉をささやいた。ジャントールは再び居心地の悪い思いがぶり返したが、期待に輝きはじめた瞳のために自分の罪悪感を押し殺した。
 ジャントールはエレオノールの頭の下に枕をひとつ増やして体の位置を調整してやると、そそくさと彼女から離れた。軽やかな体の重みがまだ腕のなかに残っている気がするのを咳払いでごまかす。
「じゃあ、準備はいい?」
「ええ、いつでも。神仕さま」
 ジャントールがカーテンを開くと、エレオノールの白い頬に暖かな日差しがそっと口づけるように舞い落ちる。太陽の光とともに、血の色が紅を差す。
「まあ……」
 唇が驚きに動く。窓辺に立つジャントールの心がざわめき、見てはいけないものを見てしまったように反射的に視線を逸らすと、エレオノールに倣って窓の外を眺めた。
 美しい花が咲いていた。屋敷の庭は季節の植物で美しく装われ、完璧に調和の取れた配置で花が並んでいる。見る者の目を和ませるそれは、まるで外の世界を知らない者のために用意されたかのようだ。庭を散策するためではなく、まさにこの窓越しから眺めるために。
「きっと、君のご両親が愛娘のために手を入れているんだろう。特にこの一角だけは花の種類が多いから」
 茂みに白いつぼみをつけかけているのは薔薇だろうか。ジャントールは自らの知識のなさを悔やんだ。神学校で毒草の見分け方を習っても、ガーデニングについて学ぶ機会はない。
「神仕さまは本当に花を咲かせられるのね」
 優しい笑い声が耳に触れ、ジャントールは驚きで振り返った。エレオノールは顔を傾けたまま、庭ではなくジャントールを見つめていた。
「それは違う。僕は……」
「あなたは嘘をついたわ」
 声に詰るような響きはなく、それが余計にジャントールの心を締めつけた。
「でも、そうでなければ私は素直に庭を見なかったと思うの。カーテンの向こうの景色を望んでみようだなんて。だから、この花は神仕さまが咲かせたんだわ。いま、私のために」
 細い手首がシーツの上を滑った。ジャントールは、それが当たり前のことのようにベッドに近づくと、日に当たる手を握った。
 エレオノールが微笑んでいる。他人を慰めることを苦手とする神仕見習いのために。彼女のまぶたがゆっくりと落ちていくのを、ジャントールはもう惜しいとは思わなかった。
「……ありがとう」
「ふふ、それは私が言うべきなのに、おかしな神仕さま。お名前は?」
「ジャントール。君を騙してすまなかった」
「でも、あなたの嘘は優しかった。夢から覚めたらあなたみたいな神仕さまがそばにいるなんて、まるでまだ夢にいるみたい……ね、ジャン……」
 トール、という音は穏やかな寝息の向こうに落ちていった。窓の外では、花びらが風に揺れて散っていた。
 世界から人が立ち去っても、この手のぬくもりを誰かに分け与えることができる。ひとりベッドで眠る幼いジャントールのために、誰かを穏やかな眠りに導くことができる。
 ジャントールは聖句を唱える代わりに、もう一度静かにささやいた。
「ありがとう、エレオノール。僕のぬくもりに寄り添ってくれて」

▽ マティスとリュシアンと陽だまりの家族

 ――主は闇に惑う我らに光をお与えになった。

 教会から聖歌が聞こえる。歌声はのびやかで、ドーム型の高い天井にまで悠々と響き渡り、ステンドグラスに彩色された聖人の指先を伝って回廊を歩くマティスの髪に戯れに触れていった。フィリベールだ。輝石祭を欠席に終わったあとでさえシスター・ジェシカから絶大な信頼を寄せられる彼の歌唱力に揺らぎはなく、だが、繰り返し天に呼びかけるその声にはどこか肩の力の抜けたところがあった。のびやかで、そして自由だ。心の思うままに主を賛美している。
 マティスが回廊の柱の陰から中庭に降りると、教会の前の階段に座って歌声に頭を傾けるリュシアンが見えた。足音に気づいて色白のまぶたがぱっと開き、すぐにマティスを見つけた。
「あっ、先輩……」
「やあ、リュシアン。いい場所を知ってるな」
 中庭は午後の日差しで輝いていた。秘密の地下室とも、じめじめとした水路とも無縁だ。暗がりから抜け出したリュシアンの様子に、マティスは密かにほっと息をついた。暖かな陽気のためかサイズの合わないいつもの上着を脱ぎ、代わりに愛用のハンカチを膝に広げ、黒い卵を大切そうに手のひらで包んでいる。
「子守唄を聞かせてやるには最高の場所だ」
「あれからフィリベールの調子がいいみたいなんです」
 リュシアンは背後から聞こえる年上の友人の歌声に耳を澄まし、はにかんだ笑みを見せた。
「自分のために歌うやり方を初めて見つけたって」
 これも変化のひとつだ。マティスの瞳が、教会のステンドグラスに乱反射する絢爛な輝きとは別のかすかな命のともしびを捉えた。まだ成長途上の小さな手で温められた卵が、陽光の降り注ぐ中庭でそこだけ暗闇に近い色を放っている。
 光だ。マティスの目にはリュシアン自身が輝いて見えた。暗闇を透かし視る瞳ではなく、リュシアンのこれまでにない穏やかな表情がそう錯覚させた。
「先輩は、フィリベールの歌声が卵の殻を通ってなかにまで聞こえると思いますか?」
「はは、どうだろうな。もし俺だったらこの歌声を聞き逃したくはないが」
 言いながらマティスはリュシアンの隣に腰を下ろすと、段差に足を伸ばした。お節介な寮兄がそばに寄っても、リュシアンは前のように奇妙に恥ずかしがったり怯えたりする姿を見せなくなった。いい変化だ、とマティスはもう一度思った。ずっと年下の少年にも変化は訪れている。
「俺が思うに、聞こえるかわからないなら素直に教えてもらえばいいんじゃないか?」
「誰に……ヴィクターさんにですか?」
 本来の卵の持ち主だという名前にマティスは首を振って否定してから、リュシアンの手のなかを覗き込んだ。
「こいつにさ。卵が孵ってから直接本人に教えてもらえばいい」
「……直接、本人に」
 リュシアンは戸惑ったように視線を落とした。卵から何が孵るか、それはほんのかすかな光を視つけたマティスにさえわからない。むしろ視ることしかできないマティスにわからない何かが、リュシアンには見えているのかもしれない。リュシアンは伏し目がちのまぶたを上げてマティスと視線を合わせ、それからゆっくりと笑みを広げていった。
「はい……そうしてみます。いつか、この子が孵ったときに」
「よし、そのときは俺にも教えてくれるか? この瞳で暗闇に光を視ても、声を聞くことはできないからさ」
「もちろんです。……ふふ、この子に先輩を会わせられる日が待ち遠しいな」
 穏やかな声が中庭に落ちる。額に日差しがあたり、背中から包み込むように響く歌声が心地よい。

 ――主よ。我らに光をお与えになったことを感謝いたします。

 マティスは眠気に誘われてまどろみかけ、リュシアンの次の言葉が一瞬だけ耳を通り過ぎた。何かを尋ねられた気がする。控えめな言葉、控えめな疑問符。マティスは胸に落ちた顎を気力で持ち上げ、靴のつま先に力を入れて伸びをした。
「悪い……寝そうになった。次の長期休暇をどうしたいって?」
 リュシアンは恥ずかしそうに頬を染めていた。
「今度の長期休暇はやっぱり帰ることにしたんです、母が待つ家に。だから、先輩も一緒にどうかと……まだ旅のご予定がなければ」
「ああ……」
 里帰りの旅に。ほとんど寝言のような返事をしてしまい、マティスは急いで言葉をつけ足す必要があった。
「でも、邪魔にならないか」
 リュシアンの母親とはすでに面識を持っていた。彼女は独りよがりの暴言を吐きつけたマティスを寛大にも許した上に、身のうちに溜め込んだ鬱憤を晴らす手伝いまでしてくれた。いい母親だ、とマティスは思う。居心地のいい家がリュシアンを待っている。
「あの人とは和解できたばかりだろ? 家族水入らずで話した方が打ち解けやすいんじゃないか」
「先輩のことは手紙にたくさん書いてあるんです。僕の……神学校での家族を、母にちゃんと紹介したかったから」
 リュシアンの表情が不安に陰るなか、マティスは寮兄として何か言うべきだとわかっていながら、しばらく言葉が出なかった。
 家族。そう呼ぶべき存在とは疎遠に暮らしていた。旅に出ることは実家を離れる口実でもあった。長期休暇さえやり過ごせば折り合いの悪い親と顔を合わせずに済むことは、神学校に感謝すべきリストのはじめのページに載っている。
「……嬉しいよ、リュシアン。旅に誘ったことを覚えてくれてたんだな」
 マティスはぎこちなく言った。唇に浮かべた笑みが失敗したことは、リュシアンの顔を見るまでもなくわかった。マティスはリュシアンが激しいショックを受ける前に、乱暴に彼の髪をかき混ぜた。「わっ」とひっくり返った声が手の下から聞こえ、マティスは自分のなかでうごめく感情と闘いながら、しばらく小さな丸い頭に手を乗せたままにした。淡い色の髪が日差しを浴びてぬくもりを宿している。
 家族、寮兄、父親みたいな先輩。頼ってほしいと願ったのはマティス自身だ。悩みがあれば親身になって相談に乗りたいし、解決のために最後まで全力を尽くしてやりたい。寮兄とは、家族とは、そうあるべきだと思うから。
 気づけば自らの頭を抱えていた。髪をかきむしり、深いため息をつく。両腕で遮った視界は暗闇だ。そして日の差す頭の上を、心配そうな寮弟の声が落ちる。
「その……ご、ごめんなさい。先輩を困らせたかったわけじゃないんです……手合わせで傷ついても、楽しそうにしていたから」
 きっとリュシアンは、勇気を振り絞って旅の提案をしてくれたのだろう。今もまた、誘いに失敗したという恥ずかしさに襲われながら、マティスのいつにない態度を気にかけている。
 不甲斐ない。これではランソニーをからかっている場合ではない、とマティスは思い、その彼が最近では弟と夕食をとるようになったことを思い出し、もう一度大きなため息をついた。情けない。誰もが変化を受け入れている。変わろうと努力している。口下手な我が身を除いては。
 マルスリーヌから受けた評価は正しいと認めるべきだろう。
「……フィリベールの歌声が聞こえるなら」
 マティスはようやく顔を上げながら言った。
「お前をこんなに落ち込ませた俺のことも、卵の中身には気づかれてしまうだろうな。すまん、寮兄失格だ」
 リュシアンはマティスの顔を不思議そうに見た。ハンカチに乗せられた黒い卵が、太陽の光を受けて鼓動するようにきらめいている。
「えっと……、この子が無事に孵ったら、話してあげたいことがたくさんあるんです。僕のこと、僕の父さんと母さんのこと、友だちのフィリベールのこと、……それから」
 今まさに手のひらから伝えるように、リュシアンは卵を優しく撫でた。何を伝えようとしてくれているのか、隣に座るマティスにも触れ合うように伝わっていた。
「それから、マティス先輩のことも。僕の……尊敬する先輩だから」
「……嬉しいよ、リュシアン」
 マティスは前と同じ言葉を、今度は時間をかけてゆっくりとリュシアンに言った。リュシアンが小さく頷いたのを見て、ほっと肩の力を抜く。失敗を取り戻せたかどうかわからないが、今度はマティスが伝える番だった。
「俺を旅に誘ってくれて、嬉しいよ。俺もきみと旅をして、その先にある新しい出会いを楽しみたい。マルスリーヌさんと次の機会では真剣に手合わせをお願いしたい。旅先でやりたいことはたくさんある」
「僕もです」
 リュシアンが微笑んだ。気づけば背後からの歌声が途絶えていたが、まだ教会全体に力強い旋律が響き渡っているような気がした。
「僕も、たくさんの経験をして、この子に伝えてあげたい。どれだけ僕が愛しているのかを」
 家に帰り着くまでの道のりは、マティスにとってまだ恐ろしいほど遠いものだ。だが、どれだけの旅路を踏もうと、マティスの家族はそこにいる。自分を産んだ母親、育んだ家庭がそこにある。
 アノンシアの瞳は暗闇に光を視る。マティスはリュシアンの髪に触れた手を開き、明るい中庭に座りながら、自分のまぶたを覆った。視界に暗闇が生まれる。日差しを閉じ込めた暗闇は、ほのかに暖かく、どこか懐かしさがあった。

 ――たとえ光によって影が生まれ、光によって苦しんだとしても。我らはそれを喜び、悲しみ、そして、己の光を愛おしみたい。

 愛していると伝えたい。一途に母親へ手紙を書き送る子どものように、ぎこちないノック音で兄にかぼちゃスープを届ける弟のように。愛していると伝えたい。いつか、この旅の終わりに。

掌編まとめ・了