01_ 緑紅に映ず / 応星と若景元と若丹楓
02_ 驪竜頷下の珠 / 応星と若丹楓
03_ 北冥に魚有り / 景元と白露
04_ 過日巡航 / 景元と彦卿

01_ 緑紅に映ず

 若い鳥が二羽、火と鉄と煙の匂いの立ち上る工造司を駆け回っている。銀髪の少年が長柄を閃かせて類い稀な気迫を刀身に乗せると、黒髮の少年は露を払うがごとく揃えた指先でそれをいなした。
 拮抗する実力に二人の足が止まった。空を裂く斬撃が止み、熱した鉄を打つ音だけが響いている。
「棋にかまけて腕が鈍ったか、景元」
「ははっ、一度や二度で見切ったと言うつもりかい? 金底の歩、岩よりも堅し。君の次の一手は読めている」
「ふん……」
 束の間の空白は剣戟の先を納めるに値しない。両者は額に汗を浮かべ、両眼に輝きを灯しながら新作の試し打ちに興じている。
 若さというものは、いつの時代、どの種族にとっても微笑ましく懐かしい思い出の一場面だ。それを遮る影があれば、自分はきっと労を惜しまず彼らを助けてやるだろう。
 槌を振るう。熱気が迸る。
 瑞々しい閃光が生み出す曇りなき輝きに、火床に照った応星の口元は自然と笑みを象っていた。


02_ 驪竜頷下の珠

 水が跳ねる。踊る。長尾を描く。水沫は大河となって地を払い、渦旋は龍となって天を衝く。
 月の名を冠する不朽の末裔。飲月君と敬われる少年が人ならざる身に堕ちた同胞へ向ける眼差しはどこまでも玲瓏としていた。
 後ろ手に庇われた応星の頬に飛沫が散る。妙技の余波はやがて空に霧散したが、触れた手のひらに何も残らない、それが彼には残念でならなかった。
 齢八千を重ねる仙舟秘技の片鱗。
 澄み渡る水精を、かつて流浪の詩人は地上の月と讃えたらしい。
 では、驪竜頷下の珠は何に例えられようか。朝焼けの幽谷に立ち現れる明鏡か、あるいは深山を満たす銀竹の円影か。詩筆に疎い応星には到底言い尽くせるものではなかったが、もとより彼の手が握るのは筆ではない。
「引け、刀工。雲吟の術はお前を傷つけはしないが、目に楽しいばかりではない。ここから先は我らの領域だ」
 長くたなびく袖が視界を遮る。それを惜しむ気持ちが羅浮に留まる殊俗の民の生涯を運命づけてきたのだと、自らをここまで導いた先達たちの華やかな航跡を、応星はわずかひと目でそこに見出していた。
 水が即応自在に空を駆る。人間の形をした獣の四肢が波に絡め取られ、息吹が滝となり波濤となって五月雨打つ。
 応星は人知れず嘆息した。彼の心には魔陰の身の異相も血生臭い戦さ場の不浄も霞の外に置かれていた。
「ああ……、惜しいな、まったく……惜しいことをする」
 槍の穂先が水を受けて光を撒き散らす。散った先で花が咲き誇る。
 優雅にして敏、覇にして高踏。
 その神韻に欠けるものがあるとすれば、現世に挑む神降ろしの依代だけだろう。
「俺にそれを見せびらかせて、このまま黙って引き下がれと言うのか。その技芸、その霊威。まったく惜しいことをする」
 やがて応星の身を守る水膜が割られると、いまだ脅威の及ぶ場から離れない彼を見て不可解に顔を顰める少年が現れた。
 額から天に向かって伸びる二本の角。若々しい顔立ちの影に潜む過日の揺曳は、たった一度の生を天から所与された応星にとってやにわに掴み切れるものではない。星々の間を貫く巡狩の矢じりたる仙舟の威名ははるかな伝説として物語られ、羅浮においては今に続く歴程として書に記されている。そこに殊俗の民が割って入れる余地はない。
 しかし、それが何だというのだろうか。
 少なくとも応星には、白璧の微瑕を閑却し得なかった。
「疾く去れと忠告したのが聞こえなかったか」
「断る、と言った覚えも確かになかったな。では改めて言おう、断る。そのような説教は俺には不要だ」
「は……」
 他人からふてぶてしい態度を取られる経験もあまりないのか、腕を組み胸を張って動かない応星に少年が絶句した。だが、言葉を継がせる暇は与えられない。応星の両手はすでに疼き、その顔はあたりの雲霧を打ち払うように晴れやかに笑っていた。
「何を仏頂面で突っ立っているんだ。俺はお前のためにここにいる。さあ、今の妙技をもう一度見せてくれ。この俺が、お前をさらなる神意に近づけさせてやろう」
 背後で邪仙に囚われた体が再び蘇る。気難しげにゆがめられた少年の顔が天を向く。その槍術の神髄を、一滴も漏らすまいと応星は目を凝らした。
 光彩陸離、飛流直下。この世ならざる水天が応星の心を打つ。
 仙舟の息壌は鍛工を惹きつけてやまないが、それが地に咲く盈月とは限らない。彼の脳裏には早くも少年が携えるに相応しい図面があざやかに広がっていた。
 その矛先が水をまとう光景は、さぞかし絶佳明媚に比して劣らないものとなるだろう。


03_ 北冥に魚有り
(景元が白露の前世と面識のある設定)

 陽の光をたっぷりと浴びた銀の髪の上に、青々とした木の葉が風もないままに舞い落ちる。ひらり、ひらりと一葉。
 そしてもう一つ。鳥が飛び立ち、枝がしなり、騒音を立てながら小柄な体が景元のもたれる幹の根に転がり落ちてきた。けして狐狸の類いではない。
「おや、これは……」
 片目を開け、景元は口もとに笑みを佩いた。
「白露殿」
 傍らの景元に気づかないまま小さな体を丸めて唸っていた白露は、思いがけない他人の気配に飛び上がって驚いた。
「だ、誰じゃ!?」
「はは、そう大きな声を出されると、歓迎せざる相手に見つかってしまうのではないかな」
 木立の陰で片膝を立てて座る景元の姿を認めると白露はあからさまにほっと息をついた。そしてきょろりとあたりに目を走らせる。幸い、繁茂する葉に遮られた安息の地に他の人影は見当たらなかった。
「何じゃ、将軍か……、うん? 将軍がなぜこんなところにおるんじゃ?」
「私は高明な医者の処方箋に従って英気を養っているに過ぎないよ。白露殿こそなぜここに? さしもの私も敵襲かと恐れ入った、まさかあなたが頭上から降ってくるとはね」
 朗らかに笑う景元に、白露はもう一度言葉にならない唸り声を漏らすと、ようやく丸めていた背中を伸ばした。
 その懐から影が飛び出る。両翼を広げて空へ飛翔しかけ、さほど高度を上げることなくまた白露の手もとへと戻ってくる。
 機械仕掛けの一羽の鳥、青く無機質な瞳が特徴的なカクウン運輸の機巧鳥だった。
「輸送ルートを計測中、輸送ルートを計測中……」
 耳に障るノイズを走らせながら、機巧鳥はいつまでも同じ言葉を繰り返していた。
「輸送ルートを計測中、輸送ルートを計測中……」
「見ての通り、どこかおかしくなってしもうたようじゃ。頭は計算を働かせても、頑迷な体は藪にも壁にも見境なく突進して、見ているわしの方がハラハラする」
 硬いくちばしをぐいぐいと体に捩じ込まれても、白露は痛みに顔を顰めて耐えるばかりだった。
「こやつの無謀を助けようとして落ちてしもうたのじゃ」
 そんな一人と一羽の様子を、景元は目を細めて見つめていた。彼は重職に就く者の責務として彼女の世話になっていたが、啣薬の龍女が患者の貴賎を問うことなく、病症の軽重さえ厭うことのない献身ぶりについて羅浮で知らぬ者はいなかった。
 その対象がどれほど矮小な生き物であったとしても。
「……白露殿は、彼を治したいのかい?」
「望んだところでどうにもならん。こやつに必要なのはわしの医術ではなく機械工学じゃ。……それをわかっていながら、やはりわしにはどうすることもできん」
 白露の嘆きに応じる機巧鳥の声は変わらず単調だった。
「輸送ルートを計測中、輸送ルートを計測中……」
 持明族の尊長とは名ばかりの、卓越した医者としての技能を有していながら閉じた籠から出ることもままならない不自由さ。人目を忍び、不在を恐れる心のありよう。
 しかしそれでいながら、彼女は救う手のひらを結ぼうとはしない。
 あまりにも多くの物事が身のうちを貫いて過ぎ去っていった景元にとって、その振る舞いは木の葉よりもはるかに軽く、もろかった。握りしめれば崩れ去り、踏みしめればそこにあったとすら気づかない。
 それでも、形を変え、姿を変えて密やかに生き続けるものもある。
 龍化の途上にあるはずの彼女の横顔に、ありし日の陽炎が重なった。
「では、こうするのはどうだろうか」
 目の前に転がっているのは吹けば飛ぶような瑣末ごとだ。景元はそうと自覚しながらも両眼を開き、敬意を込めて彼女に手を差し伸べていた。果てのない公文書の末尾に加えられる一文が、栄誉に値するものであるのは稀なことだった。
 傾心の誠意は自ずと羅浮将軍の頭を低くする。
「私が彼を預かろう。その代わり、白露殿にはこの秘密の隠れ家についてご内聞に願いたい」
 真珠のような瞳が大きく開かれる。陽の光を受けて七色にも輝いて見える。そこからこぼれ落ちる涙が、薬材に煎じられるのも頷ける美しさだった。
「ううむ……しかしそれではわしの得にしかならんではないか!」
「つまりこの提案を受け入れる気がないと?」
 景元はいたずらっぽく笑った。
「いや……むう、ずるいではないか、将軍。むざむざと断る理由がわしには見当たらぬ」
 壊れた機械を抱え、一人の人間としての不甲斐なさに地団駄を踏みながら、それでも白露は景元の善意の申し出を飲み込んだ。
 機巧鳥が再び飛翔する。景元はその機体を易々と片手で捕まえた。
「輸送ルートを計測中、輸送ルートを計測中……」
「わしの力が及ばないばかりに、最後まで面倒を見きれなんですまんのう……」
 そのとき、木立の向こうから白露の名前を呼ぶかすかな声が聞こえた。丹鼎司から遣わされた侍者が追ってきたのだろう。
 白露はとっさに身を翻しかけ、しかし思いとどまったようにその場で景元を振り返った。
 揺れる梢の先に、本物の鳥が止まっている。歌声は伸びやかに、そしてどこか遠かった。過去からの遅い呼び声が景元にささやきかけている。
 のどかな安らぎが深い淵へと手招いている。
「そういえば先ほど、将軍は処方箋に従っていると言っていたな。どうじゃ、近頃はよく眠れておるか?」
「ああ……、そうだね」
 まだ幼い持明族の澄んだ瞳と目を合わせ、景元はため息に似た笑みをこぼした。
「今夜は懐かしい夢が見れそうだ」


04_ 過日巡航

 決裁した書類の中に紛れていた、と青鏃から渡された一枚の紙に、景元はゆったりと首を傾げた。
 それは確かに見覚えのあるものだった。日に焼けてざらついた紙の手触りや、勢いに任せて運ばれた筆墨の乾き具合に図らずも経年を覚えさせられるが、並んだ文字の行間からは今にも往時の声が耳に届きそうなほど薫風豊かに香っていた。
 紙を広げて目を通しても、そこに何某かの名前は記されていない。青鏃がなぜ景元の私文書と思ったのか、その答えは筆跡を見れば明白だったが、一方で、長い時間を隔てた過去からの呼び声が今さら目の前に現れたことに心当たりがまるでなかった。
 景元はにこやかにその古びた紙きれを受け取ったものの、その日の夜が更けるまで懐に仕舞い込んだ弊履の存在をあえて思い出すことはしなかった。懐かしんで思い出すには、あまりにも現実を取り巻く煩わしさが勝っていた。

 きっかけは、新たに手に入れた自慢の宝剣を月明かりに照らして矯めつ眇めつ検分する弟子の傍らに落ちていた。
「彦卿……、その反故紙は」
 庭先に佇む景元に彦卿が気づくまでの寸時、景元は表情を改めるのに苦労させられた。
「あっ、将軍!」
 遅い時間にもかかわらず、幼い声には興奮の余韻がにじんでいた。
「おかえりなさい」
「まだ起きていたのか」
「枕もとに置いた剣の鞘走る音で目が覚めたんだ。不思議だよね、鞘なんて初めからなかったのに」
 彦卿は細身の剣を水平に掲げると剣身を顔に引きつけて目を凝らした。
「錆が吹いてる」
 落胆というよりも、あって当然という響きだった。
 鍛造されたばかりの武具とは違う、空気に重く触れたもの特有の艶が走っていた。鞘のない抜き身のままの剣と知った上で購入したからには、その程度の保存状態は覚悟の上でのことなのだろう。
「工造司の払い下げ品ではないね」
「うん。乗軒商会と契約した天外の商人が持ち込んだんだ。来歴は不明だけど、この作りから仙舟ゆかりの職人のものに間違いないと思う。ほら、将軍。この剣脊を見て。商人は羅浮での商売のついでに箔をつけて別の星に売り飛ばすつもりだったみたいだから、僕が言い値で買い取ったんだよ」
 まるで豊穣戦争の英雄譚にも引けを取らない勲功を立てたとでも言わんばかりに声が躍っている。鞘のない、錆すら浮かせた古びた剣を自身の収蔵目録に加えることへ何の躊躇もない彦卿の目は、確かに鑑定士として一流とも言えた。
 彦卿が柄を両手に剣を構えた。
 夜の冷気が光を弾く。暗闇に一閃、返す剣把で魔を打ち払い、一筋に伸びる剣尖のそのさらに先までまっすぐに引き絞られたあえかな流跡。丹田から満ちる清廉な気に彦卿の体が奮い立っている。
 夜目にもわかる名品だ。
 だが何よりも、彦卿の脇に散らばる墨をでたらめに走らせた古紙により、その剣の鍛造者が誰であるのかをわずかな疼痛とともに景元に知らしめていた。
 何ということだろう。神策府に無関係の私文書が持ち込まれた経緯は自ずと判じれたが、景元は愛弟子に苦言を呈するよりもまず先に、詰問したい相手が現れてしまった。
 長く顔を合わせていない旧友のことを思う。
 いつもは苦い昔日の思い出も、このときばかりは苦笑が先に出た。
 墨を吸って厚さを増した不慣れな成句の切れ端。そこに混じっていたであろう感傷に満ちた一枚の紙とは、時代や場所を等しくしても中身がまったく釣り合わない。積年の不義理よりも何よりも、景元が苦労してしたためた書がまさか、書き損じた紙片の中へ無造作に詰め合わされて剣身の刃こぼれを防ぐ包み紙とされていたとは。恨み言のひとつやふたつ、今ではその言葉さえ届かない相手にぶつけたところで誰に咎められようか。
 当時は相応の謝意を送るのにも随分と回り道をしたというのに。
「あげないよ」
 鳥のさえずるような声に、景元は追想から意識を引き戻された。
「いくら将軍だって、僕の宝剣を取り上げたりしないよね?」
 彦卿が両腕に剣を抱えて警戒している。景元はふっと笑みをもらした。
「いらないよ。だが、こちらは返してもらおう」
 景元が懐から青鏃から渡された紙を取り出すと、彦卿は幼い顔をますます幼くさせて首をひねった。少年に古風を尊ぶ習慣はない。
「僕のじゃない」
「そうだとも。これは私が彼に宛てて書いた手紙だ」
「将軍の手紙?」
 彦卿が思わずといったふうに伸ばした手を避けて、景元は若々しい自らの筆跡を月明かりのこぼれる夜の空気にさらした。折れ曲がった紙の四隅が風にあおられる。これほど劣化が激しければ、巡り巡って景元の手もとにまで帰り着けた星海巡航の天運に感謝しなければならないだろう。
「まさか、この剣の鍛造師は将軍の知り合い?」
 景元は答えなかった。
 ひとつの文、ひとつの文字の並びから、当時の青臭い屈託や血気に逸った論法が浮かび上がる。懊悩は若いうちにこそ尽きるところがないものだが、それでいて底知らずの愉楽をも文節の端々から感じることができる。
 まるで目の前に立つ、自らの天命をまだ知らぬ若者のように。
「……将軍になら、ちょっとくらい触らせてあげてもいいよ」
 おそるおそる袖を引かれてかけられた言葉に、景元は微笑した。
 月末になれば必ず、どうしても手に入れたい宝剣があるのだと駄々を捏ねに飛んでくるかわいらしい幼鳥。そのために嵩む景元の出費をその剣で仕留めた獲物で返すと豪語する少年は、世間ではもっぱら麒麟児として名が通っている。
 不世出の若き剣士は、それでも景元の目から見るとどこにでもいる子どものようだ。日が暮れるまで鍛錬に励み、身のうちから迸る才気を試すに余念がなく、師を超えるその日の晴れ舞台を夢見ている。そして何よりも、あの刀剣がほしいと臆面もなく訴えて悪びれのない勝手気ままさは、景元自身にはどうすることもできない郷愁を呼び起こさせた。
「遠慮しよう。私にはその剣を取る資格がない」
 乾いた墨字が月の光を集めて浮遊する。窮屈な紙の上を離れ、恐れを知らない子どものように駆け回る。
 往昔の時間を取り戻そうとあがくのは、長生不死を願う罪業といかほど違いがあるだろうか。陣刀一太刀、景元のまぶたの裏で紙はたやすく塵となり、収筆は起筆に転じて霧散する。
 だが現実の景元に、抜刀する余力は残っていない。
「これは詫び状だ。過ぎ去った日々に向けられた、私からの詫び状だよ」
 手紙を懐に収めると、景元はゆったりとつま先を半月に描いて後ろに引いた。
「夜半の鍛錬も悪くない、たまには趣向を変えようか。彦卿、君の剣を用意しなさい」
 師匠の物思いにすっかり気を削がされていた彦卿は、ぱっと顔を輝かせると喜び勇んで自室へ駆け出した。
 その両腕に抱かれる細身の剣が景元のもとから遠ざかる。
 新たな持ち主を得た名剣が次に何を断ち切ってくれるのか。錆びた剣刃に身を重ね、景元は陣刀の柄に指をかけた。

掌編まとめ・了