雨が降っている。はじめはどこかのトタン屋根を、鍵盤を叩く子どものような無邪気さでポンポーンと鳴らしていたものが、次第に外出を億劫な気持ちにさせるほどの雨脚となって市内一帯に乱暴な演奏を響かせていた。
 は洗濯物をたたむ手を止めて、白い閃光を走らせる窓の外に目を向けた。直後に、目がくらむほどの明かりが閉じた室内に投げ入れられ、壁掛け時計の秒針が正確な時間をひとつふたつと刻むうちに、遠くから雷鳴が伝わった。
 ――あのひとは風邪を引いてないだろうか。
 は静かに瞬きを繰り返し、主人不在の部屋を見渡した。隅々まで掃除の行き届いたワンルームの火の消えたような静けさは、がここにとどまる理由を失わさせつつあった。
 きれいに片付けられたローテーブルの上に、擦り切れかけた紐に通しただけの飾りもついていない鍵が置かれてある。鍵っ子だった彼が昔使っていたものを、そのまま金属の冷たい形だけを変えて今も大事な役目を負わされてそこにあるだけで存在感を放っている。
 不在の証明。がこの鍵を持たされている間だけ、彼は遠く離れた場所にいる。三門市に刻々と流れる季節の移り変わりを知ることのできない主人に代わって、不在の隙間を埋めている。
 当たり前のように与えられる彼からの信頼に心がくすぐったくなり、アパートの鍵穴に鍵を差し込むたびに寂しさが募った。
「相変わらず根暗だなー、おまえは。もっと不真面目にいこうぜ、フマジメに」
 不意にあっけらかんとした声が胸に響いた。遅れて背後の白い壁紙にくっきりとした影が映る。屋外でとどろく雷光が、の心象に重なって発せられたものだった。
「……慶さん」
 返事は、空っぽの空間にこだまのように反響した。はローテーブルから鍵を取ると、立ち上がってカーテンを閉めた。
 彼が「どこか」から帰ってくるその日はまだ先のことだった。

 *

 慶は壁際の冷たい床にすとんと座り込むと、紐をほどいて子ども用サイズの面を外し、酸素をたっぷり含んだ空気に顔をさらした。
 唇が本能的に薄くひらく。わずかに弾む鼓動は強い意思のもとで規則正しい呼吸に合わせて沈んでいき、やがてならした心に涼風が吹いた。体はもう平時に戻っている。いつでも竹刀を取る準備ができている。心に余裕の生まれた彼の両目は、次に自分の名前を呼ばれるまでの退屈凌ぎに面白いものを探して視線を彷徨わせ、気づけば空間を隔てた遠い正面に座る人物へと引きつけられていった。
 威勢のいいかけ声と素早くさばかれる濃紺の袴のひだの向こうに、うつむいて唇を噛み締める少年の顔があった。その体は熱気を放って暑苦しく、両肩はまだ上下に激しく揺れている。
 慶が見ていたのは彼ではない。つい先ほどまで竹刀を交わらせていた稽古の相手ではなく、その隣でぎこちなく正座の姿勢をとる、慶よりもいくつか歳若い、いっそ幼女と言っても差し支えのないような見知らぬ子どもの方に意識が向けられていた。初めて見る顔だ。通い慣れた剣道場の新しい仲間に興味が湧いたというよりも、そのたたずまいに自然と視線が吸い寄せられていた。
 後ろから指で軽く突けば簡単にころりと転がっていきそうなもろく柔らかい形を曖昧に保ちながら、彼女の眼差しはひっそりとして静かだった。丸く小さな耳には隣からのえずくような泣き声が届いているだろうに、人間の善意として心配そうに気にかけることもなく、本能から嫌がってむずがることすらなく、静かに瞬きを繰り返していた。傍目にはどちらが先輩剣士かわからないほどの落ち着きようだった。
 その彼女の小さな顎がふっと持ち上がる。遅れて白い頬に赤みが差す。
 道場の日取り窓から差すほのぼのとした明るい陽のなかで、可憐な花がぱっと咲いた。その瞬間を慶は目撃した。あるいは単に、硬く安全な種皮からようやく顔を出した小さな青い芽が、風に身をそよがせてかしいだだけだったのかもしれない。
 少女の痺れた膝下に力がみなぎる。真新しい道着の襟もとが引き締まる。ぎこちないやり方ながらまっすぐに伸びた姿勢のしなやかさは、狙い違わず決まった一本の会心の手応えにも劣らないほど鮮やかに、慶の心を打った。
 小さく丸い体に秘めた静と動の絡まり合いが、誰に言われずとも正しいありかを見つけ出す。自分だけのリズムで呼吸を整える慶と同じように、正面に座る彼女もまた自分に相応しい姿勢を会得しようとしていた。
 素足が床を擦る激しい音に混じり、道場の隅から声が聞こえる。同時に静かな眼差しがゆっくりと瞬く。
 引退した前の道場長が声をかけていた。
「忍田くん」
「これは先生、ご無沙汰しております」
「うん、ほんとうに。しかし鍛錬を怠っているわけではないようだね、むしろ凄みが増している。何か訳があるようだ」
「……先生のご炯眼には敵いません」
「言いたくなければそれでいい。ただし、剣先に邪心を混じらせないように」
「肝に銘じます」
 影が深々とお辞儀する。ときおりそうした挨拶のために手を止めるほかは黙々と素振りを続ける兄弟子の美しい剣筋を眺めながら、慶は自身の視線に等しく重なる幼い双眸を意識した。
 竹刀がすうっと持ち上げられる。風が音を生む。緩慢ともいえる動作で片足を引きつけては、素早く打ち込むそのくり返し。残心には隙がなく、足を返す間も全身から発せられる空気に息が詰まる。大胆でありながら細く鋭い動きが飽きることなく続けられるうちに、やがて何もないはずの空間に正中線がくっきりと浮かび上がっていった。
 あの目が果たしてどこまで見えているのか、慶にはわからなかった。気迫のこもった腕の振りや足の運びから、それ以上の何かを感じ取れるだけの経験があるとは思えない。中央で行われる華やかな打ち合いではなく、暗い隅の地味な練習に心惹かれる彼女の真意を知りたかった。
 美しいと思った。兄弟子の虚空を切り裂く冴え冴えとした握りと同じように、彼女の内面の変化を美しいと思った。静謐に満たされた水鏡に落ちた一滴、もう閉じてしまった花が再び咲きひらくところを見てみたかった。
 だから慶は、鼻水をすする少年が隣へちょっかいを出す前にすっくと立ち上がってその腕に生傷をこしらえ、頭に道場長からの拳をもらうことになった。

1 / 2