幼い太刀川でも抱えて持ち運べそうなほどころころとしていた妹弟子は、それ相応の見目に育ち、今では太刀川の恋人からあらぬ疑いをかけられるまで立派に成長している。
「太刀川くんって、通いの彼女でもいるの?」
 自ら恋人として愛されているという強烈な自負心を持ちながら、冷蔵庫の整頓された中身や洗面所の棚に用意された予備の日用品など、生活のあちこちに染み渡る他人の気配に彼女たちは敏感だった。直裁に浮気を問いただすには返ってくる言葉のどちらへ転んでも恥が勝り、お互いのために都合よく気づかないふりをしながら我慢を重ね、やがては信頼の落ち目に耐えかねて愛も冷める。
 そして今回も、太刀川は短い交際期間の末のフラれ役を請け負うことになった。
「いないけど」
「そうなんだ。でも、もうどっちでもいいよ。待つのは疲れたし、何も教えてくれないあなたとはこれっきり。さよなら」
 小さなハンドバックを手に取ると、太刀川の元恋人は一度も振り返ることなく部屋をあとにした。歴代の愁嘆場のなかでも上位に入る爽やかな別れの演出だった。
 太刀川はぼりぼりと脇腹をかき、ついで寝起きのくしゃくしゃとした髪をかき混ぜ、ようやく現実を認めて声をあげた。
「えーっ、おれフラれたの? なんで?」
 もちろん応えはなく、部屋はがらんどうで、太刀川は何かしらの反応を求めて迷いなく携帯電話の履歴をひらいた。ほしい名前はすぐに見つかったが、その前後に記されている女の名前を今は見なかったことにした。
、奢ってやるから昼メシ行くぞ」
 電話がつながり、名乗る前に用件を告げる。太刀川のもっとも得意とする年長者らしい威厳ある態度で臨んだはずの返答は、まず沈黙からだった。じれったい間をおいて聞き慣れた声がする。
「……慶さん、今日大学は?」
「それどころじゃなくなった」
「ボーダーは?」
「そこだとおまえ来れないじゃん」
 軽くため息をつかれても、兄弟子としての尊厳を傷つけられたとは少しも思わない。両足から下ろした形のままベッド脇に放置されていたズボンを空いた手で拾い上げ、においを嗅いでこれでいいかと再びつま先を通した。
「何食いたい? ラーメン行くか?」
「慶さん」
「回らない寿司でもいいぜ、だらだらと待たせられる店はなしだ。そういやおまえ、俺がいない間に忍田さんと……」
「慶さん、もうすぐ授業が始まりますから」
 会話の途中ですげなく切られた電話を見つめて、太刀川はとりあえず空きっ腹を埋めることにした。外に出るともう陽は高くのぼっていた。

 *

 は校内では少しばかり名が知られている。学生剣道の大きな大会前には校門脇のフェンスに自分の名前の入った横断幕が吊るされ、大会後には一番目立つ校舎の屋上から垂れ幕がぶら下がるくらいには有名人だった。それでもあくまで「少しばかり」の範疇に収まるのは、彼女よりもよほど知名度のある生徒たちがクラスメイトにいるからだ。
 そのひとりが遠慮がちにの机を叩いた。は放課後の部活へ向かう準備の手を止めて、交流の薄い男子生徒の顔を見上げた。
「出水くん」
「あのさあ……」
 言ったきり、まずいものでも飲みこんだような顔つきで押し黙った出水に対し、は焦ることなく静かに待った。ほとんど諦めの境地でもあった。日中にかかってきた一本の電話を思えば、用件は自ずと見えていた。
「悪い、あのー……、太刀川さんって、知ってる……?」
 まさか知り合いのはずないよな、となぜか恐れの入り混じった声音で尋ねられ、は申し訳ない気持ちで彼の懸念を肯定した。
 彼らが同じチームに所属していることは部外者にもよく知られていた。公式サイトに掲載されたリストの一番上に燦然と輝くチーム名は、むしろ彼がリーダーをまともに務めあげていると知ったときの方が強い驚きをに与えていた。
「慶さんのことなら。出水くんにはいつもご迷惑をおかけしています」
「ご迷惑っていうか、……えっ、慶さん? マジで? そこまでの関係?」
 どこまでも同じ道場の兄妹弟子の関係でしかなかったが、は冷静に続きを促した。
「慶さんがどうかしたの」
「来てるんだって」
「え?」
 は一瞬、事態を飲み込めず、それから速やかに立ち上がった。こんなときでも椅子の立てる音は静かで、骨の髄まで鍛えられた姿勢はまっすぐに保たれていた。
「どこに?」
 出水は窓の外を指差した。
「うちの校門」
 帰宅する生徒の群れから半ば遠巻きにされ、半ばひそやかに笑われながら、正門を入ってすぐのところで太刀川慶がジャージ姿の体育教師にどつかれていた。

 *

「こんな告げ口みたいなことしたくないけど、太刀川先輩、二股してるよ。相手は星女の美人」
 それは空き教室まで呼び出され、男子生徒の用件にが断りを入れたあとでの言葉だった。は三度瞬きをくり返した。あるいはもっとだったかもしれない。
「……何のこと?」
「付き合ってんだろ、隠さなくていいから」
 中学生の頃の話だ。あれから随分と遠いところまで来てしまった気がするのに、前を行く背中はに変わらない安心感を与え続けてくれている。
「うはは、なんも変わってねーな、ここは。七輪の焦がしたあとも残ってそう」
 来客用スリッパのどこか気の抜けるぺたんぺたんという音につき従いながら、は兄弟子の属する組織の影響力を改めて思い知らされていた。
 あらゆる意味で有名な卒業生の来訪の噂はすぐに広まった。太刀川が気まぐれにあけた教室のドアの向こうから驚きとも悲鳴ともつかない軽やかな歓声が上がり、思いがけない有名人の登場にまだ残っていた生徒が携帯電話のレンズを向ける。三門市の若者にとって憧れの代名詞ともいえる存在へ興奮のままに声をかけようとする者もいれば、あやうく留年までしかけたところを大学にはコネの力で裏口入学したのだと下世話に陰口を叩く者もいた。生徒だけでなく、職員室に立ち寄ればすぐに顔見知りの教師たちが彼を取り囲んで近況を聞き出そうとした。
 もちろんそうした人間ばかりだったとはいわないが、翌月には今日の興奮をすっかり忘れていたとしても、太刀川の引き起こす波はの頭上を優に超えていた。はしぶきが顔にかからないよう一歩引いてそのちょっとした騒ぎを眺めていた。
、なにそこで突っ立ってんの。なにか面白いもんでもあったか?」
 まるで赤の他人といった顔をするに咎めるような声がかかった。同じタイミングで後ろから逃げるような足音がしたので振り返ると、前に委員会で一緒だったことのある後輩がちょうど廊下を曲がっていくところだった。に何か用事があったのかもしれない。
 ちらりと見えたその横顔には、好悪のどちらの感情が渦巻いていただろうか。遠ざかる足音をぼんやりと耳だけで見送っていると、肩に重みがかかり、首筋に寝起きのままの髪の毛があたる。くすぐったさに、後ろへ向けていた意識が削がされた。
 気まぐれな猫のようでいて、太刀川も知らない生徒たちに揉まれて意外と疲れているようだった。
「……髭が、慶さんの髭がなくなっているなと思って」
「ああ、そうなんだよな。向こうじゃ手入れする暇がなくってさあ、全部剃っちまった。どう? モテそう?」
「他の方からの評判はどうだったんですか。私よりも恋人の方に聞いてみたほうが」
「それ、今の俺には禁句だから」
「……なるほど」
 は突然現れた太刀川の行動原理のおおよそのところを察した。恋人に振られて落ち込む姿は特段珍しいものではない。
「お昼ご飯、ご一緒できなくてすみません」
「いいよ。唯我のやつにツケといたから気にすんな」
「……そうでしたか」
 奢ってくれるという話だったはずだが、真偽のほどについて触れるのはやめておいた。代わりに口にした、この時間にが本来いるはずの体育館へ応援がてら顔を見せに行ってみますか、という誘いは、気のない調子で断られた。
 幼い頃から剣道に燃やした彼の情熱は、今や別のものに対してそそがれている。背中に負った防具袋の重みがどこへと消えたのか、無造作にローテーブルへ放り投げ出されていた機密情報のかたまりを眺めて、は首を傾げたものだった。ごくふつうの三門市民にとって、ボーダーは近くて遠い存在だ。太刀川慶のことをよく知っていても、太刀川隊員については学校のクラスメイトよりも実像をうまく結べない。
 ここにいるのはどちらの太刀川だろうか。剣道の作法をいちから教えてくれた兄弟子か、それともボーダーの金縁に飾られた存在か。きっと彼自身は、どちらの自分も変わりがないと思っている。
 ふたりして窓の桟に肘をかけて夕日に顔を照らしながら、グラウンドの運動部の声にまじってかすかに聞こえる竹刀を打ち鳴らす心地よい音に耳を澄ませた。
「おまえがあと一年早く生まれていたら一緒に大会出れたのにさあ」
 ふと漏らされたその言葉は、太刀川が高校生だった頃からよく聞かされていた。あまりにも何度も耳もとに吹き込まれたために、は県外の強豪校へ進学する道があったにもかかわらず彼と同じ学校を選んでいた。
 けして追いかけたい背中とは思わない。それは太刀川を知る誰もが同意するだろう。彼のサイクルの早い恋人たちのように手を繋いで隣を歩きたいとも思わなければ、振り返って自分を見てほしいとも思わないが、それは気づけば太刀川がの様子を窺っているからだろうかと思う。
 家族でもなければ、恋人でもない。同じ道場で汗を流した関係でしかない。二股疑惑をささやいた男子生徒は、が誰にも相談しないうちに謝罪したいと再び訪れた。あのとき解消された誤解がどれだったのか、今でもあやふやなままだ。
「慶さんのいない剣道も新鮮で楽しいですよ」
「ふーん」と、太刀川はつまらなそうに頬杖をつく。「俺はおまえのいないボーダーはなんか物足りねえけどな」
「もし私にトリオンがあれば、慶さんの稽古のお相手が務められたしょうか?」
「稽古じゃなくて訓練、いや試合だな。実践形式のランク戦だ。うちには俺の体を真っ二つにするような女もいるからな」
 太刀川が悪どいことを考えていそうな顔で嬉しそうに笑い、は言葉通りに想像しようとしてうまくできなかった。
 は太刀川の竹刀を受け止めたことがない。そこには男女の壁があり、年齢の壁があり、技量の壁があった。太刀川の胴体が離ればなれになった姿を想像できないことこそが、いまだに仰ぎ見る壁を打ち壊せていない証左なのかもしれない。
 は周囲の勧めもあってボーダーの入隊試験を受けたことがある。隊員の適正なしの通知を受けてがっかりしなかったといえば嘘になる。あれから数年、いまだにが両手に握るのは誰を切り裂くこともできない竹刀で、身にまとうのは伝統的な濃紺の道着だ。太刀川たちの直面している現実と比べれば子どもの遊戯にも劣る。
 それを恥じたりはしない。だからこそ彼は、に大事なものを預けていくのだと思っている。
 は首の後ろに手を回して結び目をほどくと、胸もとから鍵を引き出した。
「忘れないうちにお返しします」
「律儀だなー、おまえも」
 太刀川は気のない素ぶりで自らの家のスペアキーを受け取ると、戯れに指に紐を巻きつけた。そうやって遊んでいた少年の日の彼を容易に思い出せる。あの頃の彼はまだ幼く、やんちゃ盛りで、妹弟子をまるで自分の手足か何かのように扱っていた。
 やがてそれは、自分より小さなものを守りたいとする騎士道精神ともいうべき考えだったことを知った。彼はさりげない目つきでいつも気を配ってくれている。
 西日がひと気の少なくなった廊下に二本の影を伸ばした。学校で先輩と呼びかけることもなく、ボーダーで仲間として切磋琢磨することも叶わなかった。太刀川は忍田のあとをついて「あちら」側に渡り、はずっと「こちら」側にとどまっている。その境界線を眺めて、は兄弟子に戻ってきてほしいのだろうかと考える。憧れの相手の袖を引くことには恥がまさっても、太刀川が相手であればそうした羞恥もはじめから湧かないはずだ。
「……慶さん」
「ん?」
 太刀川の緊張感と無縁の顔つきを見て、はふっと微笑んだ。日常的にお互いの生活に深く分け入っていたとしても、周りからどのように見られていたとしても、人生の分岐点で影響し合う関係にはない。はオペレーターの推薦を辞退し、太刀川はいつかの忍田のように、忘れた頃にふらりと道場へ顔を出すばかりだ。
「おかえりなさい。……まだ言ってなかったから」
 出かけるときに鍵を預かり、何事もなければそれを返す。太刀川にとってはささやかなやり取りの繰り返しであっても、にとっては試合の始まりと終わりに欠かせない立礼と同じほど神聖な儀式となっている。
 紐に圧迫されて赤くなった指のあとを眺めながら、太刀川はあくまでも軽い返事に終始していた。
「いいな、それ。おまえのそのマジメな声を聞くと帰ってきたなーって感じがする。それもう一回出水の前でやってくれない? あいつたぶん悔しがるから」
 それからにやりと笑った。
「それとも忍田さんのために残しとく?」
 は性格の悪い兄弟子の背中をばしんと叩いた。叩いた痛みがじんわりと手のひらに伝わり、は泣きたいほどの安堵の気持ちを抱いて夕日に照るまぶたを下ろした。
「何度でも差し上げます。何度でも――おかえりなさい、慶さん」

ブーケには足りない・了 1 / 2