何時間でもその場で待つことは得意だ。意識を一点だけにとどめ置かず、かじかむ両手に息を吹きかけながら耐え抜き、ときには日を跨いで何週間と粘りながら、たった一瞬のうちに立ち現れては消えるファインダーの向こうの美しい景色を待ち続けることが苦ではない。
床に固定したアイビスのスコープが荒船の姿を捕捉している。そのままいつでも引き金を引くことができる。実際に、
深谷はこれまでに何度もそうしてきた。引き金を引き、荒船を仮想空間から離脱させ、隊にポイントが加算される。あるいは引き金を引くことによって相手の術中にはまり、所属する隊の連携を瓦解させられたこともある。引き金の重みは同等だが、もたらされる結果はいつでも照準線の外にあった。
引き金を引くかどうか、
深谷は悩んでいない。これは定期訓練であり、個人競技だからだ。
深谷を狙っている相手はすでに彼を捕捉している人間しかいない。引き金を引くことで存在をあらわにさせ、周囲から意識が向けられるその前に彼からポイントを巻き上げることのできる上位の人間だけが脅威となりえる。
だが現実に、彼はまだ引き金を引くことができていない。理由は同じように明白だ。荒船の片目がスコープを覗き、誰かを狙っている。その銃口は
深谷のいる場所よりもずっと下を向いている。今日の合同訓練で荒船を捕捉したのはつど三回、その間に、荒船は八回誰かに弾丸を的中させ、それを上回る十二回誰かから被弾していた。まだ未熟な狙撃手だ。合同訓練に参加し始めてからまだ日が浅く、理論と実践の間を埋めるのに苦労している。
荒船哲次。攻撃手としてマスタークラスまで上り詰めておきながら、狙撃手に転向した異色の経歴の持ち主。
深谷はスコープ越しに荒船と視線が交わったあの日のことをはっきりと覚えている。攻撃手も銃手も入り混じった乱戦を制し、体の脇に弧月をだらりと下げ、流れ出るトリオンをそのままに荒船は屋上に潜む
深谷を見上げた。目が合った瞬間にはすでに引き金を引いたあとだった。弾丸はあやまたず荒船の体を撃ち抜き、閃光をともなって視界から消えた。
惜しいことをしたと今でも思っている。もっと長くあの顔を、荒船のむき出しにさらされた獰猛な笑みを見ていたかった。狙撃手に鞍替えした今となっては、彼が地面を走る姿を目撃することもまれになった。それが
深谷にはひどく残念だった。
今ここで引き金を引けば、上半身のいたるところについたペイントマークの上に新しく
深谷のものを追加することができる。この訓練が終われば、みなが荒船についたペイントのひとつが
深谷のものであると考えるだろう。
今日は荒船の番だった。彼を狙撃するとはじめから決めている。
深谷の個人成績はさして高くない。ちょうどよい標的を選ぶのに時間がかかり、ランク戦においてはしばしば隊の反撃の機会を逃してきた。それでも隊の仲間から信任を得ているのにはわけがある。俊敏な機動力を持たずとも、誰をその日の標的にするか彼の中で一度決めてさえしまえば、あとはどこの隊からも捕捉されることなく必ずその目標を達成してきたからだ。たとえそれが暫定一位の狙撃手であったとしても、隠密行動を得意とする相手であったとしても、あらかじめ決めた通りに実行に移してきた。
深谷が引き金を引く前に、荒船の肩に新しいペイントが増えた。今日の彼はいつにも増して注意力が散漫しているが、それはひとえに
深谷自身に原因がある。直近の通常狙撃訓練で
深谷のひとつ上の順位だった者が捕捉・掩蔽訓練で標的に選ばれる、その選定基準が周知の事実であるために彼ははじめから余計なプレッシャーを背負っている。
標的の姿が視界から消えた。
深谷はスコープから目を離し、荒船が次に隠れるだろう建物をこれまでのルートから絞り込みながら自分自身もまた移動を開始した。頭の中で地図を開き、どの建物のどの階が荒船にとって都合がいいか、また彼の好みに合いやすいかを思案する。少なくとも、つい先ほど彼に的中させた狙撃手の視界からは逃れたいという心理が働くはずだ。
深谷は他の参加者の目を盗みながら窓から窓に飛び移り、階段を駆け降りては場所を変えてまた駆け上がる。
そして小さな部屋の中で、彼は被弾した。
左胸に、ごく近い距離を示す数字とともにペイントマークが咲く。
深谷の体に被弾のあとがつくのは久しぶりだった。痛みはもとより、ランク戦のときの後方にのけ反るような衝撃もない。あるのはただ、あの頃と同じように、術中にはまったという事実だけだった。
部屋に窓はなく、壁に穴も開いていない。待ち伏せをされていたとわかる。物陰から彼を仕留めた犯人が姿を現すと、
深谷は自分が弧月を扱えないことをひどく残念に思った。
帽子のつばが持ち上げられる。
「……荒船さん」
「よう。おまえの思惑を崩すのは意外と気分がいいな」
イーグレットを肩に担いで言葉通り楽しそうに口角をつり上げたものの、荒船の眼差しは勝者のそれとはほど遠く、油断ならない深刻さを帯びていた。
「
深谷」と、彼が
深谷を咎める。
「どうして俺を撃たなかった。
深谷にならいくらでもその機会があっただろ、なぜ俺につけ込む隙を与えたりなんかした」
静かで落ち着いた声だった。憤りや蔑みはそこに含まれず、あの獰猛な感情すらないことに
深谷は自分で思うよりも強い衝撃を受けていた。
建物の外ではまだ訓練が続いている。狙撃手たちの音を殺した動きが肌で感じられる。
それにもかかわらず、
深谷の心はもう戦場から離脱したあとのようだった。
深谷は手の中にあるアイビスに目を落とした。
「おれは……」
声が掠れる。ひとつ空咳を挟む。
「おれは、荒船さんがいつかおれに気づく瞬間を待っていたから。そのときがおれのチャンスだと思ってた」
「チャンスはずっとおまえの手の中にあっただろ」
わからない、と荒船が首を振る。
「
深谷のところと何度ランク戦をやってきたと思ってんだ。おまえの腕前はこの十二回に劣るのかよ?」
荒船が自分の体中についたペイントを指し示す。特に頬についたあとは、彼が口を動かすたびに一緒に動いて目を引いた。
十二回。その数だけ荒船は誰かの標的になっている。同じ数だけあの笑みを誰かに向けたのかと思うと、
深谷はたまらない気分になってコンクリートの床に座り込んだ。
「荒船さん……」
「なんだよ」
もはや訓練を放棄したような
深谷に付き合って、荒船もまた膝を折って
深谷の顔を覗き込んだ。荒船は本気で
深谷の真意を知りたがっている。
「スナイパーやめて、もとの弧月使いに戻りませんか」
「はあ?」
荒船の口もとに一瞬だけ呆れたような笑みが浮かんだ。求めていたものと似た種類の笑顔でも、
深谷はまったく嬉しくなかった。
「弧月使いに戻れ、か。俺にアタッカーをやめたのは正解だとぬかしやがったやつはいたが、スナイパーをやめろと言われたのははじめてだな」
深谷の眉間にしわが寄った。
「誰がそんなことを」
「おまえとは一生縁のない連中だ。……それで?
深谷から見れば俺にスナイパーの才能はないってことか」
才能、と
深谷はつぶやいた。才能。そんなことは考えたこともなかった。
「荒船さんは個人ランキングで一位を取りたいんですか?」
「いや、違うな。俺の目標はパーフェクトオールラウンダーになることだ」
今度は
深谷が復唱しなくとも、荒船自身が率先して言葉の定義について説明した。パーフェクトオールラウンダーとは、ひとつの職種にこだわるのではなく、近距離、中距離、遠距離のすべてにおいて八千点を目指すこと。すべてのポジションで必要な技能をひとりの隊員が身につけること。生半可な覚悟ではなし得ない目標だ。
「とはいえ俺だけが設定ポイントに到達したところで意味がない。最終目標は木崎さんのようなパーフェクトオールラウンダーを、一般化させた理論に基づいて量産することだ。この意味がわかるか? 個々人の努力以外の要素を才能の天井に上乗せさせるんだ。これが成功すればあの映画のようなワンシーンも夢じゃねえ」
「はあ……」
拳を握って力説する荒船の熱意に圧倒されていた
深谷は、荒船の次の言葉にぎょっとした。
「手始めに
深谷もアタッカーをやってみるか? 俺が師匠になってやってもいいぜ」
「えっ、絶対にやりたくない」
間髪入れない
深谷の拒絶に荒船の頬のペイントが引きつった。アタッカーになることも、荒船が師匠になることも、どちらも
深谷にとって想定外のことだった。
「……そこまで嫌がるか」
「すみません、おれにはスナイパーが天職なんで」
深谷がボーダーに入隊したとき、狙撃手のポジションはまだ生まれたばかりだった。荒船の言う「一般化された理論」に近しいものが彼の横で手から手に受け渡されてはいたが、まだ個人の色が強く残り、それは
深谷の求める理論から外れたところにあった。
深谷は後輩の礼儀として、肩を落とす荒船を擁護しようとなんとか言葉を並べた。
「えーと、おれは自分が弧月を握ってるところなんて少しも想像できません。おれの相棒はアイビスだけなんで。でもそうですね、アイビスみたいなスコープのついたブレードが開発されたなら、まあ、考えないこともないかなあ」
「スコープつきブレード?」
突拍子もないと否定されるかと期待するも、荒船の食いつきはよかった。両目がきらりと光った気がした。
「銃剣ってことか? それは一考の余地がありそうなアイデアだな。パーフェクトオールラウンダーの欠点は、使えるトリガーチップに限りがあることだ。強度と精度さえクリアできればトリオンの節約に繋がる可能性もある」
帽子を深く被り直しながらぶつぶつと小声で思考を整理する荒船に、
深谷はふと自分の致命的な間違いに気がついた。
彼は攻撃手をやめて狙撃手の道を選んだのだと思っていた。乱戦の渦中に身を投じる姿をもう見られないのだと思っていた。だがアイビスに傾倒する
深谷に改造された弧月を握る未来があるのならば、荒船とて同じことだ。
深谷は荒船が脇に置いたイーグレットに目を向けた。
「もしかして、荒船さんは弧月を捨てたわけじゃないんですか?」
「当たり前だろ、何を聞いてたんだ。パーフェクトオールラウンダー計画にアタッカー用トリガーは必要不可欠だ」
荒船の答えはさっぱりしている。すべての射程距離で八千点を取る。そのために、彼は一時的にイーグレットを手にしたに過ぎない。
彼は狙撃手でありながら攻撃手でもあり、そしていずれは銃手をも目指す。
深谷は急に自らの勘違いにおかしくなった。抱えた膝の中に顔を埋めて笑いを噛み殺し、それでも耐えられなくなって肩を揺らした。今日の訓練を無為に過ごしてしまったことにそのときようやく気がついた。
「なーんだ、そうだったんだ」
怪訝そうに荒船の眉が寄せられる。
「
深谷?」
深谷は立ち上がり、いつもの防衛任務につくときのように、自らに与えられた役割をまっとうするときのように、そして日常の中にふっと現れては消えかける美しいものを見つけたときと同じように、彼は窓のない部屋でアイビスを構えた。この距離では照準を定めるまでもない、あとは引き金を引くだけで今日失いかけたもののすべてに始末がつく。
左胸に硬い感触を得ながらも、荒船は咄嗟のことにまだ呆然としている。先ほどまでの和やかな談笑からは想像もできないほど空気が乾いている。ボーダーには徒手で戦う発想はなく、もとより合同訓練の特別ルールによって一度的中させた相手に対して二度目のポイント付与はない。狙撃手のセオリーに反して身ひとつで特攻する荒船の戦闘スタイルは、まさにパーフェクトオールラウンダーの草分け的存在としてうってつけといえた。
「荒船さん、前言撤回します。あなたはスナイパーをやめるべきじゃない……いや、これはおれが決めるようなものでもない。だから、お願いします。あなたが弧月で戦うところをまた見せてくださいよ。おれは荒船さんの笑ってる姿が何よりも一番好きでしたから、おれのアイビスでこれからもたくさん撃ち抜かさせてください」
引き金を引く無音の響きと同時に、訓練終了の合図が鳴った。
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