雨上がりに濡れた花弁が茂みの中でそっと色を添えている。深谷は泥に汚れる学生服を気にとめることもなく這いつくばると、単焦点レンズを近づけてシャッターを切った。
 四年前の大規模侵攻を機に、三門市には報道カメラマンを名乗る大人たちが大挙して押し寄せた。放棄されて住む者のいなくなった街を遠景に、仮設住宅に詰め込まれて苦心する家族の肖像や、近隣の市からやってきたボランティアたちの心暖まる献身、突如鳴り響くサイレンに不安そうな商店街の人々と、彼らを守る歳若いボーダー隊員たちの颯爽と出動する光景。そうしたセンセーショナルな構図に食傷気味になるほど接した地元の学生たちは、かえって三門市以外のどこにでも見ることのできるようなありふれた光景を自らの街の中に見出してそれを写真におさめたがった。
 深谷は角度を変えてもう一度シャッターを切った。屈折したレンズが花びらの一枚いちまいを捉え、ひとつも落とすことなく精密な記憶にとどめ、人間の手には届かない美を暗闇の中に再現する。深谷にとっての現実がそこにある。
 葉に残った露にゆがんだ色が映り、花に影が差した。深谷はカメラから顔を上げ、寝転んだまま空を見上げた。人間の目では露出補正がすぐには間に合わず、軽く瞬く。
「荒船さん」
「ひでえ格好だな」
 雨雲の立ち去ったばかりの空に明るいブレザーの色がまぶしい。深谷はカメラを持ち上げかけ、すぐに自重した。人物写真は許可を取ってからでなければ何かと都合が悪い。
「うちの高校に何か用事ですか」
「いや、今日は勧誘に来た」
「おれはもう写真部に入ってるんで、映画研究会はお断りしますよ」
 荒船は鼻を鳴らし、深谷に手を差し出して彼が起き上がる手伝いをした。
「バカ言え、人数は間に合ってる」
「えっ、ほんとにあるんですか? ボーダーに? 予算出てますか?」
「部長はあの城戸さんだ……と言えば信じるか?」
 深谷は首を振ってがっかりした。ボーダーで映画研究会の設立が許されているのであれば、写真同好会を創設する希望も見えた気がした。だが現実は厳しい。
 ほかに荒船と話す内容といえばひとつしかない。あの日の訓練で唯一深谷からポイントを奪った人物が荒船だとわかると、周囲はこの異色の新人に一目置きはじめ、当の本人は超至近距離で発揮された深谷の度胸に強い関心を示していた。
「じゃあ、例の勧誘ですか」
「例の勧誘だ。さすがにスナイパーの合同訓練でやるわけにはいかないからな。前に話した銃剣型トリガー、俺と深谷で形にしてみないか」
 深谷はすっかり泥で湿った学ランの上着を脱ぎながら、つくづくと荒船の真面目な顔を眺めた。本気で理想の戦闘員の量産体制を目指し、将来に向けて熱心に活動に取り組んでいるらしい。映画研究会よりもパーフェクトオールラウンダーの同好会を立ち上げた方がよさそうにも思えた。まず最初の活動として、ぜひこの舌を噛みそうなほど長い名前の略称を決めてもらいたい。
 深谷は土の跳ねたシャツを袖捲りしながら太陽の方角を確認し、それから荒船に視線を戻した。
「アタッカーの件、考えないこともありません。でもその代わりに条件があります」
「交渉の余地があるなら上々だ。何をやってほしい」
「おれの被写体になってください」
「被写体? そのカメラのか?」
 深谷の首からぶら下がっているものを荒船が顎で示した。格別に古いわけでもなく、かといって最新機種というわけでもない、ごく標準的な機能を有した一眼レフカメラだ。これを使う撮影者の腕前も特筆すべきほどのものではない。
 特別な瞬間のためのシャッターチャンスを待ち続けること。それだけが深谷の特技だ。ただし風景写真専門で、人物を入れたことはこれまでほとんどなかった。
「そうです。荒船さんの写真を撮らせてもらえませんか」
「そんなことでいいのか? だったら早く済ませちまえよ、それからボーダーに寄って今後の予定を立てるぞ」
「いえ、撮るのはまだ先です。まずは構図を考えないと。それにテーマも」
 深谷が撮りたいものは決まっているが、それをフィルムに焼き付けるのはまだためらわれた。スコープ越しに覗く荒船のあの笑みを泥だらけの深谷がこの世に残していいものか、どこか場違いな気がしてならない。
 深谷はその場から一歩下がり、視界の中に見えないグリッド線を引いた。
 校舎裏の園芸部員だけが訪れるような場所に他校の生徒が立っている。トレードマークの帽子はなく、高い偏差値を無言のうちに誇示するブレザーを着て、肩には見慣れない通学鞄がかけてある。深谷のよく知らない荒船哲次がそこにいる。
 トリオン体でない荒船とお互いの存在を意識しながら対峙するのははじめてのことだった。
 深谷が新鮮な眼差しで荒船をじっと見つめていると、不意に顔を背けられた。ついで手をかざして深谷の視界を遮った。
 ちらりと見えた頬の輪郭がこわばっている。
「やめろ」
「やめたら交換条件になりません」
「……もっと他にやり方がないのか?」
 深谷は首を傾げた。嫌がっているようでいて、実のところそうではないようにも見える。しばらく考えて、人物写真特有の弊害に思い当たった。
「もしかして照れてます?」
「うるせえな、慣れてないんだよ」
「……意外だな、荒船さんのプロマイドを作れば文化祭で飛ぶように売れそうなのに」
「一高はそんなことやってんのかよ……」
 深谷はその質問には答えずにカメラを持ち上げた。コミニュケーションを取りたがる被写体との慣れない作業であっても、両手にかかる重みが深谷にやるべきことを教えてくれている。
 ファインダー越しに荒船を捕捉する。小さな世界が極限にまで拡大する。たとえ遮蔽物が標的を隠していようとも直感的にそこにいるとわかるように、広げられた手の向こうに隠れた荒船の様子が深谷には手に取るようにわかった。
「荒船さん。このカメラをアイビスだと思ってください」
「いや、無理だろ」
「そうですか? おれはいつもそう思いながらアイビスを構えていますよ。これはおれのためだけにある最高のカメラだって、おれの目を通して見るよりももっと精細に美しく世界へ焦点を当てて切り取ってくれると信じてます。だから荒船さんもおれを信じてください」
 写真を拒む手が根負けして下ろされるまで、深谷はカメラを構え続けた。
 風の音、街の声、荒船の素の表情が照準を合わせた一点に凝縮されはじめているのを感じる。
 カメラを構える前から現像される写真がどんなものになるかわかっていることはほとんどない。日々は移ろい、世界は装いを変え、人間はまぶたを下げるごとに異なる存在へと変貌する。新しい目、新しい顔、新しい存在へと生まれ変わる。
 荒船の目がカメラを捉える。
「ほら、荒船さん。おれを見て。荒船さんのためならおれは何年でもその瞬間のために待っていられるから」
 建物の陰でアイビスを抱えたまま息を潜めて身を隠す時間も、花びらが虫や鳥やほかの生き物たちに向かってささやきかける小さな声に耳を傾ける時間も、深谷にとってはどちらも同じことだ。最高の瞬間のために最大の努力を払っている。
「……クソッ、覚悟しとけよ、深谷。俺の弟子になったら容赦しねえからな」
「まあ、考えときます」
 深谷は心の中でシャッターを切った。そしてファインダーから目を離し、本物の自分の目で荒船を見つめる。
 荒船を捕捉するにはカメラでは物足りない。アイビスがあればいいのに、と深谷は思う。アイビスのスコープであれば荒船のそのままの姿をその一瞬の中に閉じ込められる気がした。
 太陽が陰り、色のない空気が動く。
 シャッターチャンスが目の前から消えようとしている。
 おまえはアタッカーに向いている、と荒船は言った。合同訓練が終わった直後でのことだ。その通りであればこれほど嬉しいことはない。スコープを覗き込む攻撃手が許されるのであれば、深谷はそうなりたかった。
深谷
 カメラを下ろした深谷に向かって荒船があいた距離を詰めた。そしてその胸に指を突きつける。まるで先日のお返しのように、あるいはまだ見ぬ銃剣型トリガーを模しているのか、どちらにせよ荒船の構想は深谷のはるか先を行っていた。
「いいか、深谷。わかっていないようだからもう一度言ってやる。俺はおまえを最初の試作品として、最初の完成品として必ずパーフェクトオールラウンダーに仕立ててやるつもりだ。初号機が型破りなのは定番の設定だろ? おまえには才能がある、最高の師匠がついている。俺の理論を信じてついてこい。……それが俺から提示する、絶対条件だ」
 荒船の、本人はそうと気づいていないだろう口もとに浮かんだ笑みに、やはり深谷はどうしてもアイビスがほしくなった。
 脱いだ学ランの上着が、足もとで土まみれに転がっていった。

ドーナツの輪の真ん中から考える・了 1 / 2
(タイトルはエナメルさんより)