晴人はお父さんとお母さんのどちらが好き?」
 自らのサイドエフェクトの功罪をはっきりと自覚したのは、そんなありきたりな質問からだった。離婚の決まった両親を持つ子どもにとって、選択肢があること自体が恵まれたものだったのかもしれないが、その問いかけは運命の分岐路だった。
「どちらの方がうんと好き?」
 幼い晴人は質問の裏にひそむ緊張に気づかないまま、きょとんとした顔で、しかし正しい答えをするりと口にした。
「お母さん」
 一瞬の戸惑いもなかった。
 どっちも好きだよ、という心の声は、本能によってくしゃりと丸められた。執拗なまでに小さく小さくつぶされた感情の痛みに、晴人は不思議そうにうつむき、きゅっと眉根を寄せた。
 それは幼なじみの女の子が奇妙な白い影につきまとわれたとき、知らない路地裏を一緒に駆け抜けながら心のなかにわき上がった高揚感とはまったく違うものだった。
 興奮のない、静かな、澄んだ決断。逃れようのない天啓。
 その数ヶ月後、晴人は母親に手を引かれて生まれ育った街を離れた。
 最後に父親に撫でられた前髪が、ときおりふと、その離れがたい重みを思い出すことがある。見上げた父親の顔に差す影が陽炎のようにゆらめく。
 幼い頃、初めての道で袋小路に迷い込まなかったのには理由があった。マークシート式の大学受験では少しだけズルをした。将来の進路にかつての実家のあった街を選ぶ息子を、母親は澱のように沈む罪悪感とともに受け入れてくれた。
 誰であっても時間を巻き戻すことはできない。幼い子どもに両親の離婚を止めるすべはない。父親が家族を食わせていけるだけの商売をたたんでまで市外に引っ越す必要性は、あの時点でどこにもなかった。いっときは家族として同じ屋根の下で暮らしていながら、晴人たち母子だけが生き延びた理由など世間にありふれた夫婦間の顛末でしかないのだと、因果を飲み下そうとして何度も吐き気を催し、痺れるほどの苦い味がいつまでも口内を満たした。
 晴人には並べられた手札のどちらが正解か、考えるまでもなく理解できる。与えられた選択肢を絶対に間違えることがない。
 幼い息子が迷わず「お母さん」と答えた理由を、母親はどこかで気づいていた。

 混み合う食堂の片隅で定食に箸をつけながら、晴人は気のない様子で一年生用のシラバスをぱらぱらとめくった。経済的に裕福とはいえない母子家庭ながら無理を押してまで進学した大学学部の授業内容に、早くも興味を失いつつあった。もとより晴人にとっては生まれ故郷に戻るのが目的であったのだから、その手段は進学か就職か、少なくとも学ぶ意欲が理由ではなかった。
 選ぶのは得意だ。それが二者択一であればなおさら。進学と就職、どちらを選ぶべきか直感的にわかる。
 だが今回の場合は、第三の選択肢が横合いから新しく提示され、結果として晴人はその勧めに応じる形で三門市立大学に入学した。
 三門市を拠点に未知の脅威に対抗する武装組織、ボーダー。高校三年生のオープンキャンパスで知り合った彼らは、晴人がその場で受けた簡易テストの結果をもとに怪しい高額アルバイトを紹介してくれた。
 勤務時間は応相談。臨時報酬、昇給あり。未経験者歓迎。技能養成システム完備。
 労働者にきわめて都合の良い待遇のなかで出された雇用条件はただひとつ、この街を守る戦力となること。
 ボーダーのシンプルな目標設定は想像していたよりもずっと晴人の肌に馴染んだが、当初鼻先にぶら下げられた高額な給金まで手が届くかどうか、そこには不安しかない。
 口うるさい壁が晴人の行く手を阻んでいた。
「こんなところにいたのか」
 テーブルの対面の椅子が断りもなく引かれる。シラバスを眺めながら頭のなかで時間割を組み立てていた晴人は何気なく目線を上げ、相手が誰であるかわかると口もとを引きつらせた。
「……二宮」
 無駄に長い脚が大学の安っぽいテーブルの下におさまる。晴人からにじみ出る歓迎せざる空気を、二宮の涼しい顔が跳ね返した。
 目下の障害がそこにいた。
「話がある」
 だからさっさと食い終えろと晴人に無言のプレッシャーをかける本人は、ホットコーヒーの紙コップを片手に偉そうに膝を組んだ。ひと目を引くそのたたずまいに周囲からの視線が痛い。
 二宮匡貴は、晴人にとって学部の違う同級生であり、ボーダーの所属日数からいえば鞭撻を乞うべき先輩にあたる。そして出会ってわずか数週間のあいだに、横暴な為政者もかくやというほど傍若無人な態度で晴人の選択権をことごとく奪い続けていた。
 食事のトレーが片付けられたテーブルに一枚の紙が差し出された。晴人は片眉を上げた。
「何だこれ」
「見てわからないのか」
「二宮、入学してもう学部変更する気になったのか?」
「どうしてそうなる」
 お前と同列に語るなと呆れられる。晴人の学業に対する熱意の低さは、二宮にも筒抜けのようだった。それも驚くほどに。
「だよな、はは……じゃ、何だこれ」
 晴人は嫌な予感に乾いた笑みを浮かべた。紙には一週間の時間割が印字されていた。記載されている科目はどう見ても晴人の学科のものだ。
「お前の受講表だ」
 端的に、当然のこととして二宮は言い放った。そこにさらにもう一枚紙が加わる。
「俺と予定を合わせた。この曜日の午後は外せない講義があったが、そこはお前の自主練にあてる。サボるなよ」
 サボるサボらない以前に、まずこの状況が受け入れがたい。自主練とは何の話だ、おれのカリキュラムに口を出すなと言えればどんなに気が楽か。
 二宮は、晴人が自らに唯々諾々と従うことを前提に行動している節がある。ある種の絶大な信頼感にめまいがする。ふざけるなと席を立って、二宮をきっぱりと拒絶するのは当然の権利にさえ感じるほどだ。
 勝手に時間割を組まれ、合間の自由時間すら取り上げられ、モラトリアムと揶揄される夢の大学生活はそこにはない。ボーダーの活動に私生活の大半をつぎ込むことをはじめから覚悟していたとしても、そこにもれなく二宮がついてくるのは想定外だ。
 晴人は自らの感情を隠すように片手で顔を覆い、うめき声をもらした。
「お前はさ、二宮、お前はいい奴だと知ってるよ。基本的に善意でやってくれてるんだよな。それはわかってる。でもさあ」
 指の隙間から、晴人は恨みがましく二宮を睨みつけた。ボーダーで渡り合えるだけの実力を手っ取り早くつけさせようと、新人の晴人を鍛えようとしてくれるのはありがたい。同期生が歳下ばかりだったので話し相手になってくれるのも正直言って助かる。
 ただ、二宮は根本的に、角を矯めて牛を殺す性格だ。自分を曲げて相手に合わせようなどとこれっぽっちも考えていない。
「おれに、シューターは、向いてないんだよ……!」
 男としてそれなりにあったプライドは、新人相手にも手加減を知らない二宮との模擬戦によってすっかりぺしゃんこにされていた。この短いあいだの訓練で身に染みてよくわからされた。
 シューターは幅広い見識と視点を必要とする。攻防どちらの対応も兼ね備える。その取れる戦術の多さは、晴人の本能であるサイドエフェクトとの相性が絶望的なまでに最悪だった。
 晴人の怨嗟に対して、二宮は軽くいなすようなため息で応じた。
「努力しろ」
「まず才能のなさを認めてくれ。間違った努力はしたくない」
「そんなこと、ど素人のお前が判断するものじゃない」
 二宮はにべもなく言った。晴人の顔がひきつる。
 わかっている。二宮に他意がないのはわかっている。
 二宮は親切だ。繕うべき言葉が圧倒的に不足しているが、善意と厚意で何の得にもならない同級生の師匠役を買って出てくれている。ボーダーに知り合いのいない晴人にとって、それは奇跡のような申し出に違いない。
 選ぶのは得意だ。どの職種に適性があるのか説明されるまでもなくわかる。実際に、正隊員に昇格するまで大して時間はかからなかった。団体ランク戦にしても、集団によるキルポイントの奪い合いというこれまでの平穏な日常にない常識の連続に驚きはすれど、怖気づいたりはしなかった。やれと言われてやりきる自信があった。
 肝心のチームを組む前に、ボーダーに関わるすべての時間を二宮に取り上げられてしまったわけだが。
「押しかけ師匠ってガラでもないだろ、二宮は。何でシューターの才能のないおれにここまでこだわるかな」
「それはお前が……」
 二宮の、それだけで人を殺せそうな眼差しが剣呑にとがる。
「お前が、腑抜けたツラをしているからだ」
 晴人は思わず自分の顎を撫で、二宮の手のなかで変形した紙コップからそっと視線をそらした。
 二宮が何らかの使命感に燃えていることはよく伝わっていた。意外にも義と情に厚い男だ、与えられるその第一印象に反して。腑抜けた顔と言われても、叱咤激励のつもりなら見逃してやろうかという気持ちにさせられるくらいには晴人も絆されていた。
 入学後のガイダンスで知り合った学科の友人が、遠目から晴人を見つけて手を挙げかけ、向かい合う二宮のオーラに圧倒されてすすっと避けていった。
「脅されても余裕があるのは、おれが二宮と違って見た目で得をしてるからだな」
「何の話だ」
「二宮は他人に厳しすぎるってこと。これでも期待の新人として引く手あまたなんだよ、実はさ。A級隊長ってだけでおれにデカい顔していられるのは今のうち、おれが自分で選べばお前と肩を並べるのはわけないよ」
 それこそど素人の大言壮語と鼻で笑われようと、晴人には確信があった。声をかけられたチームのどこを選べば自分の実力を引き上げてくれるのかは、いつものサイドエフェクトとやらが教えてくれるだろうから。
「だから二宮。そんなに焦んなくてもすぐに追いつてやるからさ」
 晴人はしみじみと、こいつって馬鹿だなと思う。こんなに他人のことで損をしている人間も早晩いない。晴人のために自分の人生を犠牲にしようとするなんて、いったいどこからその発想が生まれてくるのだろうか。
 晴人はテーブルに置かれた二枚目の紙にちらりと目を向けた。
 二宮が自分の大学生活をつぶしてまで晴人に付き合う義理はどこにもなかった。スコーピオンの使い手としてチームの勧誘を受けてはいても、二宮に師事していると伝えれば誰もが不思議そうな顔をした。シューターとしてのポイントは、C級にも劣るありさまだ。中距離の覇者に目をかけてもらえるような人材ではない。
 アタッカーを選んだのは晴人の最後の意地で、シューターを選ばせたのは二宮の傲慢さだ。
 職種も、ボーダー内の人間関係も、今後の大学生活も、ひょっとしたらそれ以外のすべてのプライベートさえも、二宮は掌握しようとしている。
「ちょっとはおれにも選ばせてくれよ」
 ぽつんと落ちた言葉には苦笑がにじんでいた。
 これまでの人生で、晴人は無意識のうちに自分の利となるものを選んできた。ツイているの一言では説明しきれないほどの幸運が転がり込んできた。晴人の胸の奥で本音をねじ曲げてまでも主張する神のような存在が、きっと他人にとっても恩恵のあるものだとは、元夫の訃報に接する母親の深刻な顔を見た瞬間から素直に信じられなくなっていた。
 今、すべては二宮の手のなかにある。いつもは出し惜しむように他人の目から隠されている両手が晴人の本能を入念に握りつぶしている。そこに選ぶ余地はなく、考える暇だけが与えられ、最終的には後ろから蹴り飛ばされた方向に転がり落ちていくだけ。訳もわからず、無我夢中で、澄み切った本能などどこにもない。
 笑ってしまうほど自由だ。二宮に覚える反発心も、与えられたものだけで溺れそうになる苛立ちも、自由な感情のひとつと思えばこころよい。サイドエフェクトの前に小さく小さく丸められ、くしゃくしゃでみっともなくつぶされた自由な晴人の心を、二宮はその不器用な指先で拾い上げてくれた。
「……おい、晴人
 馴れ馴れしい呼び方に晴人の肩がぴくりとゆれる。ボーダーの初めての訓練を終えてブースを出た晴人の腕を無造作に捕まえたその日から、二宮は晴人に馴れ馴れしかった。
 端正な顔が不機嫌そうに硬くなる。
「言いたいことはそれだけか」
「言いたいことって、まだ半分も言えてないけど」
「遅いな」
 思考が、懐柔するための話術が、勝ちを狙って踏み込むまでの判断が。遅いと言いながらその眼差しは晴人を見捨てない。
「お前が何かを決める必要はない」
「それこそ、二宮が決めることじゃないだろ。おれは自分のために人生を決められないほど臆病じゃないよ。シューターはやらない。ボーダーでどう生き残るかは自分で選び取る。大学の授業は……まあ、ほっといてくれ」
「……そうか」
 二宮がゆっくりと息を吐き出した。
 ため息ではない、静かな呼吸の間。プレッシャーをかけることに手慣れた人間のつくる居心地の悪い沈黙。
 このときばかりは二宮が正しい。
 晴人は遅かった。あえてその沈黙を許した。本能に従わないとはつまり、そういうことだ。
「なら俺を選べばいい」
 冷たくそっけない声にひそむ律儀なほどの優しさに、晴人は強く目をつむってやり過ごした。
 この優しさを、晴人はよく知っていた。父親と死別する前、生まれ故郷を離れる前、近所でよく遊んだ友だち。
 今さら「久しぶり、匡貴」と旧交をあたためるのも気恥ずかしく、それがかわいらしい女の子だと思っていた幼なじみの相手が、気づけば自分よりでかい男に成長していれば尚のことだった。
 一生の不覚だ。美しき幼少の思い出の「まーちゃん」がむくつけき男だったとは。
「馬鹿だな。救いようのない馬鹿だ。どうしてお前はそんなに見た目で損をしてるんだ」
「……返事がそれか?」
「違うよ。……そうじゃない」
 きっとこの瞬間のためだけに帰ってきたのだろうと、そのためだけに自分は帰ってきたかったのかと、選んだもののあまりの馬鹿らしさに晴人は片手で顔を覆った。
「おい……、……晴人
 かたんと椅子が鳴った。テーブルの向こうから伸びる影が、人間の離れがたい体温が、ぎこちなく晴人の前髪に降りていく。
 いつもはポケットにつっこまれているその手を掴んで、握りしめたものをぶちまけて、それで馬鹿だなと言ってやりたかった。
 この街に残してきたものがまだそこにあると気づいたとき、晴人は安堵で立ち上がれなかった。

コップの中へようこそ・了 おまけ