期待ばかりが胸のうちにあった、と言えば嘘になる。薄ら寒い恐ろしさも臓腑のひだを撫でていて、それを単に表白しないだけだった。
そんな主張をしたところで誰からも冗談に捉えられてしまうだろうが、思ったことを何でも口にする迂闊な性分だと自らでさえ認めていても、佐為に関することであればいくらか腹芸を心得ていた。心得る機会は多かった。
だから葛城から墓参りの話題が迂遠な言い回しで提供されたときも、電話口の声をふるわせることもなく、ただ手もとに引き寄せた本の表紙をなぞるだけでその提案を前向きに受け入れることができた。
少なくとも、進藤ヒカルは隠し通せたと考えていた。
佐為がヒカルのもとを去って五年が経つ。その間のことは、自らの打つ手に宿る面影を追うことに没頭するあまり足早に過ぎていったとも思われたし、何か心躍る手を見つけては肩口を振り返って、隙間風と言うには途方もなく大きな欠落を絶えず意識していたとも思われた。
それでも、五年の歳月を幼い子どものように指折り数えて惜しむことはなかったと、そのことだけはきっぱりと断言できた。対座から差し伸ばされた扇子の先を見つめる日はもう二度と訪れないのだと、盤面に臨むほどに身に刻まれて理解していたからだ。
ヒカルが同世代の塔矢アキラと競るように棋力を伸ばすと、そうしたヒカルの年とともに沈着した心境とはうらはらに、二人のプロとなる以前の経歴の対称性にしばしば目が向けられるようになった。片や囲碁界の巨星を父に持ち、幼い頃から将来を有望視されたサラブレッド、片や確たる実績もないままに一度目のプロ試験で合格を決めた無名のダークホース。特にヒカルが院生として頭角を現す以前のことについては不明瞭で、プロの手合いで上手の棋士を勇猛に食い破る姿からよほど名のある指導者から手ほどきを受けていたのだろうとささやかれた。
だからといって、佐為と進藤ヒカルを結びつけるような風評が改めて立つこともなかった。インターネット上に彗星のごとく現れ、そして瞬きするようにはかなく消えたsaiのことを囲碁界が完全に捨て去ることはなかったが、再び姿を見せることのない幻影をいつまでも追い求めるほど現代囲碁の発展は遅鈍でなかった。検討の中で誰かの口を借りてよみがえるsaiの名前にヒカルの心が激しく反応しても、手が似通っていたからと、さらりと流されて終わってしまった。
そこにはもはや、saiという存在が彼ら棋士たちによって研究し尽くされた過去の人物であるという事実だけが冷然とあった。saiが、恐ろしいほどの才能と実力を有したあの佐為が、新たな棋譜を世に放つことはないのだと、もう永遠に。
今ではヒカルの棋風にも佐為以外の色が数えきれないほど乗っている。五年という月日の隔たりは、指折り数える以上に長かった。
佐為が世間から、自分自身から失われる虚しさを思えば、ヒカルは声高に叫び出したい蛮行に駆り立てられることもあった。後世にも語り継がれるいらかの波の下で成し遂げた彼の偉業を、コンクリートの道の上に引かれたヒカルだけが知る彼の軌跡を、あるいは現代に生きる全ての棋士の打ち筋に脈打つ彼の拍動を披瀝したいと願うことの愚かさは、それでもヒカルの口を封じるまでには至らなかったが、ヒカルの傍らに立つ塔矢アキラの強い眼差しや、遠くある緒方精次の剥き出しに晒された激情、そして何よりも、一線を退いてなお衰えるところを知らない塔矢行洋の囲碁への欲深さにヒカルの心が臆してしまった。臆してしまえばもう言葉を尽くすことは叶わなかった。
「でけえ」と、薄く開いた口から声がこぼれ落ちるのを耳が拾った。葛城は後ろから歩み寄って、その影を踏む前につと立ち止まった。
桜の大木が秋の風に枝をしならせ、長い時間を経た果てにその威容を葛城たちの眼前に晒している。
葛城は桜の前に立ちすくむヒカルにくらりと目眩を覚えた。老いてたわんだ枝に葉が茂り、季節柄そこに花びらはもちろん見えないが、今しも横から白い桜吹雪が舞い散って深く埋もれてしまいそうな心許なさをその反った背筋に見つけてしまい、葛城は膝から先の感覚が弱まった。
都内を朝方に発って数時間、間に食事を挟んで昼過ぎにはもう彼らは山をいくつか越えていた。
男だらけの道行きに旅の計画もあったものではないが、とりあえず宿から近場の観光名所へと葛城は車のハンドルを回していた。
「ふたりとも、このあたりでは桜が有名らしいよ。シーズンを過ぎているけど寄ってみようか」
「さくらア? そんなん見て面白いの。俺、花見もやったことないよ」
「あれ、最近の若い子は友だち同士で見に行かないか。川沿いの桜並木にブルーシートを敷いたりして、休日にピクニックなんかやらないのかい」
「橘さんのその言い方、ジジくさい」すっぱりと年上の心を切り捨てて、ヒカルは同乗者をちらりと横目で笑った。「塔矢は年寄り趣味とかありそうだな。碁会所の爺さんたちと花見すんの」
「する」と、アキラも短くきっぱりと言い切って、ヒカルを冷たく見返した。
にわかに雲行きの怪しくなった後部座席をバックミラー越しに呑気に笑って眺め、葛城は案内標識に従ってブレーキを踏み、白線を乗り越えた。
鄙びた家屋がぽつぽつと連なる丘の上にあれかと思えるような巨樹の枝が自ら身を乗り出すようにして風にゆらめいている。
車を降りた葛城は秋めいた風を感じて上着を羽織った。
「うわー、田舎だ」
「長閑なところですね」
東京育ちの若者が揃って同じ感想を口にした。観光客向けに整備された駐車場が用意されてはいるものの、あたりに人気は疎らだった。
手書きの看板に従って、軽トラックの頭が半分はみ出た門扉の突き当たりへと逸れる他はほとんど一本道と言っていいような坂を三人して上った。道沿いにススキのあわい毛先が群れを生し、その反対手に収穫を待つ稲穂の波が黄金に輝いている。むしろこちらの方が観光の名物にさえ思えて、葛城たちは景色が開ける度にまるで示し合わせたかのように歩をゆるめ、なだらかに波打つ裾野に見入った。
桜は屋根瓦の間を見えつ隠れつさせながら太い幹の節を張り出している。
「大きいな」
「ぜんぜん近づいた気がしねえ」
葛城は雑誌の煽り文句をちらりと思い出して口にした。
「確か、樹齢千年とも二千年とも言われているそうだ」
「それは途方もない。それほど昔だと、まだ集落もできていない頃でしょうか」
「どうだろう、少なくともこの棚田はなさそうだけど」
あるいは今より栄えていた時代があったかもしれない。どこかで落ちた実を啄ばみに鳥が弧を描いて低く飛んでいる。
並んで歩くもうひとつの影が後ろに流れ、葛城は振り返って声をかけた。
「ヒカルくん?」
「桜……」
ヒカルはぼんやりと丘を見上げて立ち尽くしている。
「うん?」
「千年」とつぶやいて、急に何かに気づいたようにヒカルが駆け出した。あっという間に葛城たちを追い抜いていく。
元気のいいことだと葛城はその後ろ姿を見送って、次の言葉に咳き込んだ。
「左近の桜!」
違うから、と同時に首を横に振る葛城とアキラを、すっかり背中の遠くなったヒカルにはもちろん見えていない。
喉を押さえながら笑っている葛城に、アキラがそれしかやり方を知らないように頭を下げた。身内代わりの殊勝な体でいて、肩の線に軽い怒りを含んでいる。
「進藤がいつもすみません」
「楽しい子だよね」
まだ笑いの残る頬を撫でて葛城は深く息をした。田舎道に広がる、ほのかに甘い熟れたにおいが肺を満たした。
ヒカルの頭上から葉擦れがさやかに降りそそいだ。見頃をとうに過ぎた大木の周りは閑散としていたが、囲いの外に立つヒカルの足もとにまで地を這う根の血潮が感じられて、ヒカルは大地に横たわるはるかな時空の流れに身を投げ出すような心地がした。
丘の上にそびえる巨大な桜の木がヒカルの頭を撫でるように枝を伸ばし、太い幹によって天を支えている。この永遠とも思えるような生命のどこかに知った痕跡はないかと気づけばヒカルは目を凝らしていた。乾いた樹皮の今にも剥離しそうなささくれや、行き交うひとの足に踏まれて土に帰る葉のかけら。さえずる小鳥の姿すら隠す幾重にも重なった枝ぶりがすべての存在を凌駕する。
入り組んだ盤面に容赦なく打ち込む石の音が風にさらわれて、どこかから聞こえてきそうだった。
「進藤」
南中を過ぎた陽が青々とした大樹の向こうから影を投げ落とし、その揺らぐ影に革靴のつま先が重なった。ヒカルは自らの泥の跳ねたスニーカーを見下ろして、その内側を少しだけ擦り合わせた。
「桜って、春以外にもちゃんと存在してたんだな」
「……僕たちが生まれるずっと前からこの木はここで葉を落とし、翌年の春にはまた花を咲かせているはずだ」
ヒカルの素朴な感慨に対してやや呆れ顔ながらも、隣に並んだアキラが桜の木を見上げて言った。枝の先からようよう色づき始めた葉が空へ手を伸ばすように揺れている。暦の上ではもう秋の終わりも迫っていたが、桜紅葉の足音はまだ遠くあった。
「幹回りが十メートル以上もあるそうだ」
ヒカルは真面目くさった顔で立て看板を読むアキラの脇を通り過ぎ、幅広く取られた柵をぐるりと周った。地面を押し上げる根に足を取られたか、巨大な存在にやんわりと体を押し戻されたか、何度か足もとを見失い、乾いた土がスニーカーをまた白く染め上げた。
周囲では、腰の曲がった老人が熱心に桜に向かって拝んでいる。柵で遊んで親に叱られる子どもがいる。こんな季節でも重たいカメラの脚立を持ち込む人間はいるもので、秋の気配を写すレンズの前をわざと横切って、そこに何が残るだろうかとヒカルは考えた。
葉の落ちかけた木、日差しの弱まった太陽。老人の祈りやベソをかく子どもの声を誰が記録に残すだろうか。誰しにもそれを残したいと思う相手がいるのだろうか。
ヒカルが元の場所に戻ってもアキラはまだ熱心に文字を追っていた。桜の由緒に保全活動の苦労にと、細々としたものがそこに書き連ねてある。
現代を生きる人間の走り書きを読むくらいなら、そこにある本物の桜を鑑賞すればいいのにと、ヒカルは他人事のように思った。自然はこんなにもあるがままに存在し、誰の目からも自由に解放されている。
「花見もいいもんだな」
桜は見るべき花を葉の下につけていないが、祭り囃子のような葉擦れの音が調子を変えつついつまでも鳴り止まない。
耳を澄ますヒカルの横で、アキラの返事はためらいがちなものだった。
「……僕は怖くもある」アキラは目を伏せて、むしろ桜から心を離しているようでもあった。「僕はこんなに長くは生きられない、この桜のようにいつまでも盛りを誇って春を待てない。その前にきっと力尽きてしまうだろうから……千年の悠久の時間を生き長らえる桜が僕は羨ましい」
ヒカルは絶句してその言葉を聞いていた。
「羨ましくて、恐ろしい」
塔矢アキラは人間だ、桜ではない。進藤ヒカルと同じように。
「お前ってさあ……」
塔矢先生の息子だよな、と言わずもがなの事実をヒカルはしみじみと噛み締めた。桜の大木に張り合おうとする人間が、この世にいったいどれほどいるだろうか。
アキラがようやく顔を上げるのにつられて、ヒカルもまた桜を見上げた。
桜は千年のその先からあえかな人間の営みを静かに見下ろしている。
二人のうちのどこに立てば良いのか、アキラは身の置きどころのない思いをわずかに抱えながらもその日が暮れていった。
湯冷めした体を庇うように茶羽織を肩から掛けて引き戸を開ければ、畳の上に二つ敷かれた布団の白さがやけに目についた。知らない空の下の気疲れにアキラの心ははしたなくもさっさと頭から布団を被って寝入ってしまいたいような、あるいはことの次第をきちんと見届けて済ませてしまいたいような、どちらともつかない感情に揺れ動いていた。いずれにせよ、秋の夜は気だるく感じるほどに長い。
さしたる成り行きもないままに一泊二日の旅路へと連れ出され、誘った本人は知らん顔で外の暗がりに目を落とし、まだ馴染みの薄い顔は浴場から戻っていない。アキラは葛城が部屋を訪れる前にヒカルと膝を詰めて話しておくべきだと思いながらも、絶えず初めの言葉を選び損なっていた。
彼らの間には常にもうひとつの存在が横たわっている。それを人間として数えて良いものかどうなのか気の迷いが生じて、アキラにはどこまでも彼らと共感しきれない思いのうちを認めた。
荷物の整理を終え、手持ち無沙汰になったアキラが鞄から取り出したのはやはり碁盤だった。部屋の隅に寄せられた低いテーブルの上に一式を広げ、アキラはいつまでも頭から消すことのできない棋譜を並べ始めた。
どれほど無数の可能性を探ったか、それこそもう頭ではなく体が覚えている。それと前後して打ち合った因縁あるもうひとつの対局については、お互い知っての上で並べ直すのも悔しかった。若さ故の読みの浅さを後年になって許容できることがあったとしても、相手を侮りかかった驕慢にはいつまでも歯痒い思いがわだかまる。
その相手が誰であるのか。対面する席に着いていた者の顔はわかっていても、いまだにはっきりとした確証をアキラは持たない。それを得たいと思ってはるばる他県へ出向いたのか、今となってもわからなかった。
プラスチックの弾く乾いた音に引かれてか、ヒカルが背もたれに預けていた体を起こして広縁の椅子の上からアキラの手もとを見下ろした。アキラは強い視線を意識しながらも並べる手を最後まで止めなかった。
「飽きないな、お前も」
頬杖をついて乗せられた顎の下からヒカルがぼそりとつぶやく。
「きみは碁に飽きることがあったのか?」
アキラはヒカルを見もせずに言った。
あるいは気まずい声で「ある」と答える有段者も中にはいよう。進藤ヒカルに棋戦不戦敗の続いた時期があったことを知る者であればしたり顔で目配せしたかもしれない。
しかしヒカルの答えは聞くまでもなかった。アキラはいっそ一息に言葉を継いだ。
「僕はここで投了してしまったが、この一手の先にある終局までをずっと考えている。考えて考えて考え抜いて、今日ここまでやってきた。これは僕をプロの道へといざなった手だ。……いや、いっそ奈落に突き落としてくれた手とも言える。いまだ這い上がれた気もしないし、また指導碁を打たれるかと思うと我慢ならないが、いつまでも眺めふけっていられる」
美しい、と一言添えてアキラは口を引き結んだ。
部屋の音が途絶えて長く、遠く沢の流れ落ちるざわめきが畳の編み目を伝った。
「……もっと」喉の奥に声が張り付いたような、他人の体温の混じった空気に触れるのも拒むような尻込みした響きが場に落ちた。「もっと美しい碁を、オレだって知ってる」
アキラはヒカルの俯いた顔をじっと見上げ、黙って座を譲った。それでもしばらくは動かないままで、ようやくヒカルの重い腰が上がったのは入口からの控えめなノックによってだった。アキラが葛城を迎えに出ているうちに、ヒカルは座布団の上で胡座を組んでテーブルの碁盤を睨みつけていた。
湯上がりのさっぱりした顔を和ませながら、葛城が遠巻きに立ち止まった。
「お邪魔だったかな」
「いえ、昔の棋譜を並べていただけですから」
アキラは首を横に振って葛城と同じように立ったままヒカルを見下ろして、ついと眉根を寄せた。
アキラが空にした盤上からほとんど局面は進んでいなかった。上辺で十数手打ち合ったまま、どこかで明らかな失着があったわけでも、格別に斬新な手を見出せるわけでもなく、どちらかが不意に気を削がれて打ち掛けてしまったような、飲み物を取りに席を立ってそのまま戻らなかったような中途半端さがそこに残っていた。
アキラは居心地の悪さをまた覚えて、ヒカルの傍らに膝をついた。テーブルの下で丸められたヒカルの手には少しも動く気配がともらない。
「白番の次の手は?」
「ない」
耳障りなほど明朗な声で言い切って、ヒカルは葛城を振り仰いだ。
「橘さんはこの続き、知ってる?」
「……いいや」
申し訳なさの含んだ眼差しで答えて、葛城がヒカルの背後から碁盤を覗き込んだ。目線が石の固まる左上から順に下へ辿って、どこに目を留めおけばいいのかわからないように彷徨った末に、踵に重心を変えて後ろで手を組んだ。その手に一通の封筒が握られている。
「あいつとは囲碁の話をほとんどしなかったから、俺にはわからない」
アキラはその封筒から目を逸らし、再び碁石の並びを見た。初めて見るアキラでさえも打ち合う展開の流れを再現できそうな、まだ序盤に過ぎなかった。あえて言うなら白の二連星に目が引かれたが、それとて今さらのことのようにも思われる。
徒人の身に耐えきれるはずもない時間旅行の話はすでに聞き及んでいた、いずれ虚言の類いにしても。
そこにヒカルの言う美しさの兆しはまだ表れていなかった。
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