「あれ」と、ヒカルがまだ半分寝ているような声で言った。「なんか今日の橘さんいつもと違わない?」
 すっかり身支度の整った葛城を、ヒカルが首を右に左に傾けながら眺めている。その揺れに自分自身で眠気を誘われたのか、それとも朝食で腹が膨れて血の巡りが鈍いのか、またうつらうつらと船を漕ぎ始めた。その背中をアキラが容赦なく叩く。
 葛城は旅館二階のラウンジでもの珍しく広げて見ていた地方新聞を畳みながら、仲が良いなあ、とのんびりと思った。旅先では身も心も寛いで、ひときわ穏やかな心持ちになる。
「痛え」
「朝から寝るんじゃない」
「だって眠てえもん」
「それは君が遅くまで起きていたからだ。出先ではいつもこうなのか? まさか遅刻などして先方に迷惑をかけていないだろうな」
 くどくどと続くアキラの言葉に、ヒカルが耳の穴に指を入れて喧しいとアピールする。それに反応するアキラと逃げるヒカルの様子を見て、仲が良いなあ、と葛城はまた思った。
 意外と言うべきなのか、職務を知っていれば当然と思うべきなのか、彼らは葛城よりよほど旅慣れていた。一泊分の手荷物は身軽でありながら必要十分で、湯上がりの浴衣姿も様になり、仲居への気配りはむしろ大人である葛城が勉強になるほどだった。出発前はいくらか引率者めいた思いもあったが、宿に着いてみれば助けられたことの方が多かった気もする。
 その肩書きはともかくとして、見知らぬ者がすれ違いざまに見れば彼らは育ちの良い大学生という風情だった、あのヒカルでさえも。座布団につま先を揃えて膝を折り、畳に手をつく所作はいかにももの慣れている。
 あれは、千年前に生きたという佐為から教わった振る舞い方なのだろうか。
 葛城は彼の親友がどうだったかを知らない。彼が腰を落ち着ける場所といえばもっぱらベッドか車椅子の上で、いつも力なく体を預けていた。すらりと伸びた背中を見ることができたのは年に数えるほどで、病室は違えども同じ病棟であれほど長く起居をともにしていたというのに、佐為はそれほどまでに年がら体調を崩していた。医者からは十まで生きればよく頑張ったと言われ、二十まで生きれば奇跡だと言われる、その奇跡は彼のもとに訪れなかった。
 往年の趣き残る磨りガラスの外で柳が風を受けてしなっている。陽だまりの落ちた池では鯉が鱗を乱反射させながら気持ちよく泳いでいるが、風向き次第ではひと雨降りそうな空模様だった。
 進藤ヒカルと初めて会ったその日から、葛城は佐為を思い出す時間が長くなっていた。この十数年間は日常の水面に浮かぶ些細なあぶくに押し流され、忘れかけた頃に肌に立つ産毛を薄く掃かれる程度のことだったのが、葛城の中にある想像上のヒカル少年と少しも変わらない感情の発露を目の前で見せつけられたことで、少しだけ、ほんの少しだけつらく感じるようになっていた。この世のどこにもいない親友のことを。
 進藤ヒカルも同じ思いを抱いているのだろうか。いつまでも死んだ亡霊の影を追っている、その無意味さをこの世で一番理解しているのがヒカルだろう。あるいは、この世の中の無意味さを一番理解していると言えるのか。
 彼は無意識なのだろうが、肩越しにふと誰もいない後ろを振り向くことがある。焦点の定まらない視線を束の間彷徨わせ、そしてまるで今のことがなかったかのように前を向いて屈託なく足を投げて歩き出す。その感情の落差を目の当たりにしたとき、葛城のみぞおちが痛覚を通さずに鈍く痛んだ。まるで昔のように、検査では別の場所が異常を示すのに、葛城の体がそこで痛みを訴えていた。
 初めて進藤ヒカルと現実に繋がり、まだ彼の実像をこの目で確かめる前のことについても、いつまでも上書きされないまま葛城の心の中に残っている。葛城は電波越しに何時間と息つく暇もない長電話を受けていた。時間も場所も構わず着信が入り、職場であらぬ噂が補強されてしまったこともある。しかしどれほど日常に影響を及ぼそうとも、聞き手の相槌を待たない広長舌が繰り返されようとも、葛城は拒絶の態度を少しも示そうとは思わなかった。葛城もまた、お互いの知る佐為のことを、それが幻覚でもなく妄想でもないことを言葉を尽くして確かめたかったからだ。
 どれほど相手に救われて、どれほどこの手から失われたものの輪郭をまざまざと思い知らされたか、他人には理解できない感覚だろう。葛城は生者を失い、ヒカルは死者を失い、それでもまだその先があることを身を持って体験しているが故にいつまでも縋り付いている。
 全く報われないことだと、大人である葛城がまず冷静に諌めなければならないはずだ。
 佐為の両親と面会したとき、当然のように彼の今の所在についても語られた。火葬されて白い骨だけになった後は故郷の墓の下で静かに眠っていると、彼の生みの親ですらその事実を淡々と受け入れている、そのことに葛城は自らが持つ暗い情念を恥じてしまった。恥じたことが進藤ヒカルへの手酷い裏切りのようにも思えた。
 だから、佐為の墓参りへヒカルを誘ったのは、死者との決別を促すためというよりも、まだほのかにともる佐為のぬくもりを手渡すためだったのだと、いつか告白しなければならないときが来るだろう。
 葛城が窓の外から目を戻すと、ヒカルが向かいの席から体を伸ばし、壁際の本ラックから年代物の雑誌をたぐり寄せていた。立ち上がればいいものを、無理な姿勢を自らに強いて今にも指先から崩れ落ちそうに見えた。

 階段を登るごとにあちこちの庭先で咲く金木犀の香りがアキラの背中を追いかけた。
 石と、苔と、砂利道。急斜面の坂の先にその墓地はあった。
 線香の煙が細く昇っている。見知らぬ家の墓に向かって手を合わせる経験を他人はそうしないだろう、それも故人とは面識のないままに。それでも行きしなに買った花を立て、借りたたわしで墓石を磨いた。側面に彫られた名前に実感はなく、追い求めたその者の眠る場所だとはいまだに信じがたいことだった。
 揃えた両手を先に下ろしたのはヒカルのほうだった。封筒の中身を確かめた昨晩と同じ目つきで墓を眺めている。その封筒もまた黒い碁石とともに線香の前に供えられている。
「やっぱり、そう簡単には化けて出てこないよなあ」
 アキラは隣の独り言を黙って聞き流し、黒石に手を伸ばした。つい昨日までは、自宅に数ある碁石のひとつに過ぎなかったものが、今はあるひとりの意思を宿して遠く離れた墓前に置かれている。その奇妙なめぐり合わせに思いを馳せた。
 アキラの手のひらの上で、黒石は秋の静けさに物憂く沈んでいる。他に参拝客の姿はなく、肌にまで染み込む深い木目のかおりに、まるでこれから一局打とうとするかのような錯覚をアキラは得た。
 碁盤を宇宙に見立てることはよくあるが、それが自然の静寂の中にあっても何ら不足はない。朝露が下の葉に垂れ落ちるその一滴ですらアキラの内側からこだました。
「塔矢」と呼びかけるヒカルの声の色にも同じ思いを見つけた。
「進藤、きみと打ちたい」
 遠回しな物言いは必要ない。同じ舞台に立つ者同士の眼差しがぶつかり合う。
 アキラが差し出した碁石をヒカルは掠め取るようにしてつかんだ。
 他に石はない、折り畳みの碁盤も車に置いてきている。そのもどかしさを欲望がはるかに上回った。
「目隠し碁でもするか?」
「きみが半端な碁をしないと約束するならいいだろう」
「言ったな」
 先番を決める前からもう言葉の鍔迫り合いが始まった。
 その後ろから、やんわりと声がかかる。鋭く反応した両者に気後れすることもない。
「ふたりとも、もうすぐひと雨来るそうだよ」
 借りた道具を水場へ返しにいっていた葛城が、傍らにひとを伴って戻っていた。
「……そちらの方は」
「よくお参りくださいました。予報ではすぐ止むそうなので、お急ぎでなければこちらで雨宿りなさってください」
 法衣に袈裟の姿は誰かと紹介されるまでもなかった。住職が穏やかにお辞儀をし、上げたその顔で相好を崩した。葛城の勝負師たちへの慣れた態度とはまた違った、その場の空気を軽やかに超えたところへすでに気持ちが走っていた。
「ところでもしや、あなた方は塔矢先生と進藤先生ではありませんか?」アキラが肯定するより先に、前のめりで言葉が続けられる。「いや私もね、素人ながら囲碁を嗜んでおりまして。これがみっともないほど下手の横好きではありますが、まさかうちで先生方にお会いする日が来るとは思ってもみませんでした」
 「これも仏さまのお導きですかねえ」と興奮から顔を赤らめている住職にプロの務めとして応対するアキラの横で、ヒカルが空を見上げた。かざした手のうちで黒石が透明に輝く。
「お、ほんとに降ってきた」

 雨宿りついでに囲碁を打ちたいと頼むヒカルに、住職は快諾した。それだけに留まらず、庫裏の中から妻を呼び出して奥の座敷への案内を託した。
「プライベートでも囲碁一筋とはさすがのお心構えですね。移動用の簡易なものでは足りぬところもあるでしょうから、よければうちの足つきの碁盤を使ってください。先生方に使ってもらえたなら箔がついて自慢になる」
 生臭いことを笑って言って、住職は寺の裏手にある自宅の駐車場へ葛城をひとり連れて行った。
 その背中を靴を脱ぎかけていたヒカルの声が追いかける。
「橘さん」
 葛城は、おや、という顔でこちらを見る住職にひとつ苦笑した。
「ヒカルくん、またあとで。俺はちょっと用事を済ませて来るから」
 軽く手を上げる葛城の脇から住職が言い添えた。
「こちらの方が橘中の仙人をご所望なので、我々は彼らを訪ねに仙境へ。爛柯となる前にきちんと皆さまのもとに連れて戻りますのでご安心ください」
 まったく意味のわかっていなさそうなヒカルと、わからないなりにも落ち着いた様子で見送るアキラにもう一度手を振り、葛城たちは本格的に雨の降り出す前にと車に乗り込んだ。
「このあたりでは、橘の木は家の境界によく使われましてね」ワイパーの回る音に合わせて住職の指が軽快にハンドルを叩く。「昔は何本もそこら中に生えていたそうですよ。今は実の始末が大変だと仰って伐ってしまわれる檀家さんも多い。橘さんには悲しいことかもしれませんが」
 助手席で葛城はまた苦笑をこぼした。
 水場でプロ棋士の連れだと気づいた住職から声をかけられた葛城は、自身が碁界関係者であることを否定しながらも彼の囲碁談義に応じていると、その専門用語の多さや棋士たちの目指す栄光のはるかな高みに、ふと自分だけ故人との縁の頼りなさを身に染みて覚えた。
 佐為と直接の面識のないアキラですら、彼の残していった足跡に通ずるものがあるようだった。葛城やヒカルが口にする些細な断片にも理解の色を示していた。
 それはインターネットを介して打ち合ったということだけが理由ではないだろう。
 囲碁には定石と呼ばれるものがある。誰であろうと、それが何であろうと、打ち筋に呼び覚まされる人となりがあるという。
 葛城のこれまでの人生で何度もその機会がありながら好んで手を伸ばさなかった碁打ちたちの情熱が、今は壁となって目の前に立ちふさがっている。葛城には足の踏み入ることのできない世界がそこにある。
 それでもなお、囲碁について知りたい、勉強したいと思わないのはもはやそういう性分なのだろう。こればかりは簡単には変えられない。彼らが変えられないのと同じように。
 一日休めば、という話を聞いたことがある。一日休めば落ちた自分の腕前をわかってしまうと言う。囲碁の道にも通じる考えなのだろうが、それにしても彼らは自分の勘を衰えさせないためだけに旅先ですら碁盤に向かっているようには思えなかった。
 ふと目を離せばいつでも彼らは碁を打ち始めていた。その真剣さ、他者を一切排した姿には、佐為がラジオに耳を傾ける顔つきとしばしば重なった。
 葛城は東京を発つ前に塔矢行洋から渡された碁石の感触を思い出しながら空の手を握りしめた。今はヒカルの手の中にあるはずだ。佐為に囲碁を見せてやってくれと頼んだ以上は、それが本来の正しいあり方なのだろう。
 昔語りを好んだ佐為の様子が目に浮かぶ。千年前の御所のことも、二百年前の江戸城のことも、そして未来で花開くひとつの才能についても、葛城にとってすべては夢物語に過ぎなかった。
 縁が切れてしまうのはたやすい。つなぎとめておくのは難解だ。それが死者であればなおさらに。
 フロントガラスの向こうに雑木林が見えてきた。
「橘の香りが際立つなら、私には却ってそのほうが喜ばしいことかもしれません」

 雨の打ち付ける音にまぎれて、ヒカルがパーカーの懐から取り出した碁石を碁盤の上に置いた。すでに一戦終えたあとのことだった。
「塔矢先生は迷わず黒石を手に取った」
「……ああ」と、アキラはそのときのことを思い出しながら頷いた。
「芦原さんも驚いていた」
 黒石、つまり自分を下手とし、佐為に対して挑戦者の気概で臨んだつもりなのだろう。日本のプロ棋士を引退した身とはいえ、今なお尊敬され打倒すべき目標と見なされている元名人が、依然として碁界の嵐の目であるあの塔矢行洋が、少しの迷いなく黒石を手に取った。アキラは父親が一手目を口にした瞬間の身震いのする思いがよみがえっていた。
 だがヒカルの考えは違うようだった。
「秀策への挑戦状かと思った」
「……なぜここでその名が?」
 確かに初手の右上スミ小目は本因坊秀策の代名詞と言えた。進藤ヒカルの棋風にも秀策の影響が色濃くあり、彼の囲碁の師と思われる佐為もまた同じだろうことは容易に想像できる。
 だがここで、秀策まで一足飛びに結びつけるのは不可解だった。
 失言だった、という顔をする対面のヒカルを伺い見て、アキラはこの旅先で少しは形作れてきたかと思われた進藤ヒカルの中核をなすものが、手の中でほろほろと崩れるのを感じた。崩れた傍から散っている。
 また次なる謎を突きつけられた気分だ。
 問い詰めたい、というアキラの気勢は茶器を持って現れた住職の妻によって逸された。
「おふたりとも熱心ですねえ。貰い物のお菓子ですが息抜きによければどうぞ」
「わ、やった!」
 ヒカルが大げさに喜ぶと、アキラが遠慮の言葉を口にする前に、住職の妻はさっさとヒカルの傍らに膝をついてお茶を配りはじめてしまった。
「お気を遣わせて申し訳ありません」
「いいのよ、もうすぐお連れさんもお戻りになるみたいだから、どうぞゆっくりしていってちょうだい」
 住職の妻は立ち上がりしなにふと碁盤に目をやって、昨夜の葛城のようにどこを見たら良いのかわからない顔をした後に、ぽつりと誰に聞かせることもなくつぶやいた。目線はたったひとつだけ置かれた碁石に向けられている。
「あら、鬼門の方角ね」
「鬼門?」と、遠慮のないヒカルが即座に反応した。
 住職の妻はぱっと口もとにお盆を寄せると、若い碁打ちが続きを待っているのを見て顔を赤らめさせた。
「本職でもない私がぺらぺら喋ったなんて、うちのものには内緒にしてくださいね」
 水仕事であかぎれ立った指が碁盤の天元に触れた。そしてつうっと黒石まで直線を引く。
「ほら、中央の太い点から見ると、ここは右上、つまり上を北とするなら北東になるでしょう。北東からは鬼がやって来ると言い伝えられていて、そこを鬼門と言うの」
 アキラは座布団から立ち上がって碁盤を回り込み、ヒカルの傍らからその中心を眺めた。
「なるほど、鬼門。聞いたことがあります」
 プロの棋士の興味を引けて嬉しくなったのか、彼女はまた意味ありげなことを言った。
「でもここに石があるのは鬼を抑えるためかしら、それとも迎えるためかしら?」
 呆然と話を聞いていたヒカルが勢いよく顔を上げた。
「迎える? 鬼を迎えるの? 鬼って悪いやつだろ、そんなことしていいのかよ」
「そうね、鬼の出入りする鬼門は忌むべきものだと言われているけど、彼らを厚く敬えば徳の詰まった袋を授けてくれるという考え方もあるそうよ。つまり鬼自体が吉兆の印ね。禍福は糾える縄の如し、とはちょっと違うのかしら?」
 それははじめて聞きました、とつぶやくアキラに、「まあ迷信ね」と、仏門の嫁にあるまじきことを小ざっぱりと言い切ると、ふと気付いたようにまた口もとに手を当てた。
「あらやだ、でもそちらさまから見れば鬼門じゃないわ、南西の方角にもなるのね」
 住職の妻は空いた座布団をちらと見て照れたように「さっきの話は忘れてちょうだい」と言い捨てると、そそくさとお盆を手に立ち去った。
 彼女は黒石をどちらが打ったか知らないのだろう、そもそも囲碁の知識すらなさそうだった。
 アキラとヒカルはじっと碁盤を見下ろした。アキラがすっと黒石を指す。
「北東だ」
「鬼門か」ヒカルも嫌そうながらに小さく頷く。「でも星じゃない、小目だ」
 一般に、棋譜は黒番を下に置いて見る。黒の右上スミ小目は確かに天元から北東方向にあったが、わずかに東へ傾いている。
「父はわざと星を避けたのだろうか?」
「そもそも鬼門とは関係ないんじゃねえの?」
 それはせっかくあれこれ説明してくれた彼女に失礼だろう、と聞こえやしないかとアキラは奥の襖を見て、まるで本当に聞こえたようにそこがすっと横に開いたことで人知れず肝を冷やした。
「おっかえりい」
 ヒカルが気軽な声で、現れた葛城に手を上げた。
「悪い、待たせたね」
 葛城が綺麗に片付いている碁盤を認めて申し訳なさそうな顔をした。
 見ればひとつだけあった碁石も消えていたが、ヒカルは素知らぬ顔で茶をすすっている。
 アキラは先ほどの言葉をゆっくりと思い返した。
 鬼門から鬼がやって来る。
 葛城の脱いだ上着からは、朝にはなかったいつもの香りがほのかに立ち上っていた。

月の桂・了 1 / 2 / 3 / おまけ