細い月が西の空にかかっている。
 廊下を互い違いに差す行灯の光を頼りに、ヒカルは薄闇の旅館の中をあてどもなく歩いていた。窓の外では虫の声が冷たい空気を細くふるわせ、あえなく息切れるはたから新たに立ち上がって果てもなく、その背後を川のせせらぎが流れ落ちている。厨房もまだ目覚めきらない夜のうちだった。
 ヒカルは寝乱れた浴衣の襟にかかる後ろ髪に手を回し、ほとんど気のせいかと済ませられるほどに軽くなった毛先の感触を楽しんだ。
 まだ高く澄んだ音がヒカルの耳の裏に残っている。

 それは持ち手の細い銀に輝く鋏だった。傍からヒカルが普段に増して落ち着きなく見下ろす中で、葛城は茶封筒の中からそっとその重みを取り出した。十数年の年月を経てようやくひとの目にもその存在が認められ、鋏はやわらかな照明の光を浴びてテーブルの上で輝いている。古い作りではあるが、まだ一度も使われたことのない硬質な美しさを金属の重なりの中に留めている。
 葛城も佐為から仔細に聞いてはいたが、そのもの自体を目にするのは初めてだった。どんな甘言を弄して、子どものおもちゃとするには行き過ぎたそれを親に買い求めたのか、幼少からの付き合いであっても察するに余りある。
 葛城は高く枕を積んで休む友人のそうと知らなければ理知に深いほほ笑みを思い返した。端正な面差しを賞賛する看護師や見舞客たちのささやき声もよみがえる。
 あれでいて、欲深いところ限りを知らない心のうちを秘めていた。
「なぜ刃物……」
 やや離れた場所から見守っていたアキラの顔が引きつっている。思わずといったように言葉がもれて、視線を何もない部屋の隅へ逸らす彼を葛城は手招いた。
「アキラくんも遠慮せずにこちらへおいで。一緒にお茶でも飲もうか」
「いえ、僕は……」
「塔矢もここにいろよ」
 中腰で無難な退座の口実を探すアキラをその場に引き止めたのはヒカルだった。封筒の中身をひっくり返し、これ以上何も出てこないのを胡乱な目つきで眺めている。
「お前を墓参りに誘ったのは俺なんだからさ、いいじゃん。気にすんなよ」
 だいたい、俺にお茶の淹れ方がわかると思うのかよ。もはや開き直ったような態度のヒカルに納得して葛城が茶櫃を開けようとするのを、アキラが慌てて膝を寄せて遮った。
「僕がやります」
「俺は渋いやつ飲めないからな」
「進藤は黙って僕のやり方を見ていろ。そう難しいことではないんだから、君は端から覚える気がないだけだろう」
「お前、オレのそそっかしさを知らないからそんなこと言えるんだよ」
「何年きみの面倒を横で見てきたと思っているんだ。もちろんそんなもの承知してるさ」
「それはそれでむかつくやつだな!」
 すっかり席を立つ空気でもなくなり、葛城はヒカルの慣れた応じ方に感心してまった。わかってやっているのか知らないが、そうでなければ彼にも見届けてほしいと願う心があるのかもしれない。曖昧に口ごもる言葉にならない思い出、お互いにとって大切な、佐為の物語を。
 佐為から預かった封筒を見た途端に示した喜びと不安に気がかりな思いもあった。ヒカルが二十歳の誕生日を迎えたその日、葛城が祝いの決まり文句を伝える前にはりきって切り出したのはヒカルのほうだったが、それが墓参りの話に転じると怯んでもいるようだった。
「それじゃあ、お湯が沸くまでちょっと昔話でもしていようか」
 アキラとじゃれるように言い合っていたヒカルの表情がぱっと華やいだ。葛城にとっては電話越しの声ばかりに慣れたものだったが、目を見合わせても雄弁に心のうちを語ってくれている。

 吐く息で窓が白く曇っている。
 これが夢だと葛城はすぐに気がついた。唇は空から舞い落ちる雪の白さに喜ぶが、年経た葛城の心には空虚な悲しみが降り積もっていた。
「佐為、雪だ。本物だ」
 カーディガンの袖口でガラスを拭き、葛城は息を詰めてじっと病室の外を見つめた。そこに映る景色が本物であるかどうか、葛城にはあまり自信がなかった。敷地の向こうに立ち並ぶ町の色彩や屋根の形は瞬きするごとに移ろう蜃気楼に似ていて、何もかもがはかなく、今はもう遠い。
 後ろで佐為が何か言っている。声の調子ははしゃいでいるが、目線は四角く切り取った外の世界とは別のものにあった。
 重ねた毛布の上に開かれた古い雑誌。先に退院した壮年の患者がもう読まないからと捨て置いていった月刊誌だ。葛城自身もつい先ほどまで、別の号に掲載されたクロスワードを解いていたはずだ。
 葛城は佐為の細い指が指し示した文面を覗き見る前に、そこに何が記してあったかを思い出していた。劣化した紙やインクの甘いにおいがよみがえる。
 佐為の口が動く。
 橘。
「橘始めて黄なり」
 ある寒い朝の日に、黄色い実が青々とした葉の下で揺れている。それはブラウン管の中に見た光景で、隣にはもう誰もいなかった。だからこのときの葛城にはまだ、その実が放つ瑞々しさも、冬の倦怠とは無縁の健やかな生気についても理解していなかった。
「佐為はその名前が気に入ってるよな。そんなにきれいな花が咲いていたのか? それともにおいかな、橘って柑橘系だろ。オレンジみたいなものか」
 葛城の眼前でベッドに横になっている佐為がにっこりとほほ笑んでいる。佐為の声が雪の向こうからこだまのように聞こえてくる。
 橘。
「……御所の実ってさ、いかにも霊験あらたかそうだよな。一つくらい持って帰ってもバレやしないか?」
 楽しそうにしていた佐為が一転して真剣な面持ちで首を横に振っている。それは葛城の悪行を咎め立てるためではなかった。
「えっ、苦いのか。もしかして食べたことある? ……違うならそんなに激しく否定しなくてもいいだろ。こっそり忍び込んだりしなかったのか」
 週末には自宅に帰ることの多くなった葛城の傍で、佐為の体は大人になることを拒絶しているようだった。碁石を持つことも難しい日には、代わりに葛城が示される十九路を探すこともあった。
 病棟を暖めるボイラーの音が壁を伝って響いているのを、葛城は天井の近くから聞いている。カーテンの引かれた白いベッドが渦を巻く。
 その先の会話をよく覚えている。窓から雪は見えなかった。あの季節はまだそれほど冷え込んではいなかった。
 それでも無性に、雪が降っていたらいいのにと思う。
 佐為が戸棚から一通の封筒を取り出した。
 そしてまた、口を開いた。今度は別の名前を、彼にとって何よりも大切な少年の名前を呼んだ。

「ヒカルくん」
 ヒカルはまだ中身の残る湯呑みをそっとテーブルに戻した。そのふるえる声に、まともに顔を見返すのも失礼な気がして、視線をどこへとやることもできずにこんなときばかりは頼れる存在へと助けを求めた。
 地の読み方、石の打ち方から教え導いた、まだ生まれる前の少年ついて語る佐為の生き生きとした表情をヒカルはすでに聞き及んでいる。それがいかに喜びに満ちていたか、千年に渡る囲碁の楽しさをいかに新鮮な思いで見出していったか、豊かなエピソードの数々をヒカルが赤面するほどに残している。
 だがこの日の葛城の様子は異なっていた。
 アキラは葛城の顔からあふれる感情をまるで予期していたことのように冷静に受け止めているようだった。動揺もなく、痛みもない。アキラはヒカルの視線に気づくと黙って顎を引き、ヒカルの情けない顔を咎めることもしなかった。
 葛城がテーブルの上の鋏を引き寄せた。
「後ろを……向いてくれないだろうか、ヒカルくん」
 銀色の光が目にまぶしい。刃が擦れ合い、高く澄んだ音が立った。
「あいつから、佐為から自分の代わりにやってくれと頼まれたんだ。……知ってるかい? 昔は子どもから大人になるために、髪を結い直したそうだよ。歴史の教科書で冠を被った絵を見たことがあるだろう、あれは成人した男の証しなんだそうだ」
 佐為の名前に心が引かれ、その拠り所を求めてヒカルは葛城の話をほとんど聞いていなかった。佐為のために後ろを向けと言われたなら、素直に従う以外のことを考えられない。
「他にもなんかサプライズあるの? 誕生日祝いが鋏って意味わかんないんだけどさあ、ヘンテコなところがあいつらしいっちゃらしいけど」
 ヒカルは葛城に背を向けて、床の間のほうに向き直った。山水画の掛け軸の下にひと振りの枝が壺に飾ってある。あの桜だろうか、とヒカルは考えた。そうであれば意外な相手からも祝われたようで面白いめぐり合わせだ。
 一度はヒカルの肩に置かれた手が離れた。葛城の気配も一緒に離れる。
「うーん、そうだね、このまま始めてしまうと本当にサプライズになりそうだから困ったな……」
「葛城さん、進藤には言葉を選ばずに直接伝えなければ何もわかってもらえませんよ」
「今のでも、けっこうストレートに言ったつもりなんだよね……。ちなみにアキラくんは俺がこれからすることがわかったかい?」
「そうですね。昔の風習としてあったことは知っていましたが、見るのは初めてです」
「俺もだよ。これが果たして頼まれた通りの正しいやり方なのか、そもそもやること自体が正しいのか、かなり悩んだんだけど。でも鋏を渡されてしまったらこれしかないよなあ」
 背後でこそこそと交わされる会話の終わりを待つのにも飽きて、ヒカルは癖のように正座していた足を崩した。畳の上で胡座をかき、ふと以前は数分も正座を続けられなかったことを思い出す。院生になったばかりの頃は両膝についた手に落ち着きがなく、背筋は伸ばしたり曲げたりと忙しかった。
 自らの囲碁だけに集中することを教えてもらったのは、やはり傍らの存在だった。やがて扇子を持つことによって、自分なりの気持ちの収まりどころを見つけもした。
「……あ」と、ヒカルは掛け軸を見て声がもれた。枝にばかり気が逸れていたが、床の間の山水画には親指ほどの墨の走りがあった。それは馬に乗った人影に見えなくもない。
「佐為の烏帽子か」
 ヒカルは首だけ捻って後ろを振り向いた。急に理解の色の広がったヒカルを見て葛城がきょとんとしている。その顔にはもう、縁まで張った緊張感のようなものは失われていた。
「烏帽子でも乗っけてくれんの」
 ひとつの瞬き。ヒカルの目の前で、再び水かさが増す。
「……ああ、そうか。あいつ、そんな姿をしてたんだったか」
「うん」と言って、ヒカルは今さらのように気づいた。「そっか、橘さん見たことないのか。佐為はこんな黒いやつを頭に乗せて、白いヒラヒラした装束を着てたんだ。泣き真似するときはいっつも長い袖に顔を押し付けてんの。それでこっちが折れてあいつのわがままを何度も押し通されたっけ」
 ヒカルはかつての日常を思い出してはくすりと笑い、やがてもうひとつの視線に気づく。
 テーブルを挟んだ向こうで、アキラが困惑の眼差しを送っていた。
 ヒカルのゆるんだ心に烏帽子が傾いた。口もとに開いた扇子があてられる。その真剣な眼差しはいつも碁石を追っていた。
 ヒカルはテーブルの上にまだ残る碁盤を見た。
 次の手をいつまでも待っている。
 塔矢行洋のその言葉を、ヒカルは自らの心のうちを見透かされたような思いで聞いていた。
 白の次の一手を、いつまでも待っている。
「それが、オレの友だち。バカみたいに子どもっぽくて、バカみたいに強いやつ」
 先ほどのヒカルがそうであったように、今度はアキラが目のやり場に困ったように顔を伏せた。
「……そうか。それが、……佐為さんか」
「おう」
「僕も会ったことがあるんだな」
「……ん」
 ヒカルがそれにははっきりと答えるべきかどうか迷っていると、肩を軽く押されて、顔を再び床の間のほうに向けさせられた。
「悪い、烏帽子は用意してないんだ。欲しかったならまた別の機会に贈るよ」
「あいつみたいなやつを? オレには絶対に似合わないって」
 ヒカルが自らの髪の上でバランスを取っている長い烏帽子を想像して吹き出していると、その髪を後ろから撫でられた。滅多に他人に触れられることのない領域での優しい感触に、ヒカルはくすぐったさを覚える。
「なに?」
「昔はね、烏帽子を被るために髪を整えていたそうだ。成人するための大切な儀式のひとつで、髪を切る役目を賜るのは名誉なことだったらしい」
 葛城の指がヒカルの後ろ髪を一房すくう。
「俺がそれを務めさせてもらってもいいだろうか」
 ヒカルの前に枝がある。
 桜が風にゆらめいている。枝に葉をつけ、葉は花を咲かせ、やがて鈴なりの実がなる。そうやって千年の間に繰り返されたいつの時代も変わらない営みがある。
「あいつの代わりに言わせてほしい」
 ヒカルは喉の奥が引きつるのを感じた。言葉が声にならない。
「二十歳まで生きてくれてありがとう」
 両肩に乗せられた重みに、ヒカルのほうこそ胸に水が溜まったようだった。
 背中から顔の見えない相手に優しく声をかけられる、もうそれがつらかった。
「……んなこと、初めて言われた」
「君のご両親に聞いてごらん。同じことを言ってくれるよ」
「……そうかな」
「もちろんだよ」

 アキラはヒカルの後ろ髪が切り離されるその瞬間を固唾を飲んで見守った。
 何か神聖な儀式に立ち入っているような、彼らの交わす言葉はあくまで軽いが、そこに含まれる命の重みを溶けた空気の内側で触れていた。
「もう二十歳って言われてもさ、急に大人になれるわけないだろ。みんな騒ぎすぎじゃない?」
 知っていてもわからないほど短くなった後ろ髪を触りながらヒカルが言った。先ほどまでの直視するのも危ういもろい顔つきはどこかへと消えていた。
 アキラはこっそりと息をつく。
「それだけ成人を迎えるのは特別なことなんだよ。きみも子どものために鯉のぼりを飾るようになったらわかるんじゃないかな」
「えー、橘さんだってまだ子どもいないじゃん」
 そうだろうか、とアキラは思った。
 葛城は確かに未婚でまだ育児を経験したこともないだろうが、それでも多くの子どもたちを見てきたはずだ。天高く、鯉より高く昇っていった彼らを。葛城は佐為だけでなく、そんな子どもたちを思っているのだろうか。すべては以前に彼が簡単に告げた生い立ちからのアキラの想像にしか過ぎない。
 葛城がごく短く切ったヒカルの髪を鋏の入っていた封筒に入れた。それを明日、佐為の墓前に供えるのだと言う。
「塔矢先生の碁石と、オレの髪かあ。佐為が祟って墓から出てきそう」
「そうかな。喜びそうにない?」
「だって髪はホラー映画の定番アイテムじゃん。呪われそう」
「ああ……なるほど。気づかなかった」
「橘さんってちょっと抜けてるよな。そのへんは佐為に似てるかも」
 葛城をじろじろと眺めて懐かしい面影を探すヒカルの様子に、アキラもまた思いをめぐらす。
 黒い烏帽子に、袖の長い装束。千年前に生きた男が半透明の姿で墓場を彷徨う。生前のよすがや執着の残したものを求めて。あるいは、その幽霊は若い青年の姿をとっているだろうか。
「……会ってみたいな」
 アキラは素直な気持ちをぽつりとこぼした。ヒカルが目を丸くしている。
「彼と検討したい棋譜が山ほどある」
「……お前、ほんとブレねえなあ」
「悪いか。思えばきみばかりずるいじゃないか、僕も佐為さんともっと打ちたかった、あの盤面で何を考えていたのかもっと知りたかった……きっとそう思っているのも僕だけじゃない」
 ヒカルと打った不可解な指導碁。軽やかに躱され、深く断たれた盤上の遊戯。プロ試験を欠席してまで打ったあの碁は、父が真剣に臨んだあの電子の中の広く平等な世界は。
 もうどこにもないのだろう。
「……ずるい、か」ヒカルが立てた片膝に顔を寄せ、くしゃりと前髪を乱した。「それ、ずっと言われたかった言葉かもしんねえ。ずるい、打たせろって、佐為もよく言ってたな。いつも一方通行だったけど」
 アキラとヒカルの前の湯のみに新しいお茶がそそがれる。明るい緑の茶柱が濁った水面に浮いている。
 葛城が急須を置いて、自らのものに口をつけた。
「千年」
 外で流れる川の音がにわかに近づき、やがて遠ざかる。アキラは固く握りしめたせいで冷えきっていた指先を湯呑みの縁であたためた。
「ずるいよな。それに比べたら二十年なんてあっという間だ。でもあいつは、何よりもそれを望んでいたんだ。自分のことじゃない、ずっと未来の囲碁の可能性について、待っていたんだと思う」
 葛城は湯気にぬれた頬をやわらげ、優しく目を細めた。
「これから先も、あいつに囲碁を見せてやってくれないか。俺や周りの人たちではできないことだったから。きみや……アキラくんたちにしかできないことだから」
「……うん」ふっと目を伏せたヒカルが、次の瞬間には歯を見せて笑った。「任せろ。今日から大人の進藤ヒカルが、誰にも負けない碁を佐為のやつに見せてやるよ」
 それがいかにも子どもっぽく、アキラは苦笑を禁じ得ず、葛城も思わず声を上げて笑っていた。

 廊下を渡るヒカルの目の端に光がちらついた。庭園の池に月明かりが映っているのかと窓の外を見ていれば、風があるわけでもないのにはらはらと木立の間から落ちていく、名も知らない花の色だった。紅葉のように赤焼けていて、しかし枯葉と見間違えようもない甘い香りが漂った。閉ざした窓から香っている。
 山裾から溶ける星に遅れまいと、大した抵抗も見せずに細い月が端の先からほどけていく。

 白々と明けゆく空に向ける横顔を幼いヒカルが覚めたとは知らずに夢の中から見つめている。いつまでも寝入らないその顔に新たな朝が染め抜かれていた。

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