おれは窓枠に立ち、鼻をひくひくとさせた。右を向いてひくひく、反対にもひくひく。潮風がひげをなぶっていった。
 もう時間がないぞ。
 眼下には肩を寄せ合ってひしめき建つ家々と凪いだ海が広がっている。もう時間がない。おれは後ろを振り向いてくり返しそう言った。
「わかってる……きみのその言葉は何度も聞いたさ。でも王室お抱えの建築家といえど、わたしみたいなちっぽけな存在では町の人たちを動かす力なんてどこにもないんだ」
 言葉どおり作業台に力なく頭をもたせた人間は小さくため息をついた。諦めるように、どうしようないみずからを納得させるように吐き出したため息で作業台の木屑を弱々しく吹き落とした。
「上はもうきみの言葉を、わたしが信じるきみたちを信用していない。だから手遅れさ」
 手遅れだろうと、もうじき海の彼方からあれはやってくる。
「そんなこと、この町の誰もが知ってるよ。今年のアクア・ラグナは三日後と正式に発表された」
 違う。もう間もなくだ。
 人間は顔を上げておれを見た。おれは鼻をひくつかせた。
 太陽が落ちたあと、人間の言葉では真夜中の日付が変わってすぐだ。月がのぼると同時にあれがくる。今度の引き潮は短いぞ。それからどでかい波がやってくる。
「きみの仲間はもう逃げたのか」
 最後の準備に走り回ってるところだ。
「高台は狭い。きみたちだけで今ごろあそこは満室だろうね」
 人間が低地でのんきに暮らしているおかげでな。お前はどうするつもりだ。
「……わたしのやるべきことは決まっている。町のあちこちできみたちがこんなにも異変を起こしているというのに、わたしたち人間ときたらちっともわかっていない。だから、わたしが最初からやるべきなのはこれだったのさ」
 人間は棚の奥から古びた羊皮紙の束を引っ張り出すと、作業台にそれを広げた。目で招かれて、おれは窓枠から飛び降りた。床をてってけ走り、人間の脚を伝って這い上がり、作業台にぴょんと飛び乗る。たったそれだけのことで、高台まで避難するための貴重な時間を削り取った。人間の部屋はおれにとって広すぎる。
「この町はもうじき高潮に飲まれるだろう。だから、これをきみに頼みたい」
 正気か? 長年の癖に従ってくるくる丸まろうとする羊皮紙の端を足で踏んずけながら人間を見上げた。こんなにデカいものを運べないぞ。
「わかってるよ」
 人間の指がおれの頭をちょんとつついた。そのわずかな力にも抗いきれず、羊皮紙の上に尻もちをつく。この体は人間の手のひらよりずっと小さく、力はずっと軟弱だ。おれはつつかれた額を両手でごしごしとしごいて毛繕いした。
「きみの体は小さいけれど、この頭に詰まったものはそんじょそこらの人間よりもずっと大きい。頼むよ、わたしの友人。この設計図をきみの頭で運んでいってくれ」
 毛先を整えていた爪がぴたりと止まった。それはつまり、この図面を覚えろってことか?
「そうだよ。そして高潮が引いて何もなくなったこの町に、古代兵器の図面を復元させてほしい」
 正気か? おれはもう一度言った。
「正気さ。わたしのおじいちゃんのおじいちゃんのそのまたおじいちゃんから受け継いだものを、こんな文明の末路で失わせるわけにはいかない」
 お前のじいさんのじいさんのそのまたじいさんは、この設計図をとっとと燃やしたがってたぞ。
「わたしはそれが羨ましい。燃やせるほどの動機をわたしは持たない」
 心から羨むように、人間は設計図を優しく撫でた。
「竜骨の優美なこの線を見てごらん。それに用途不明のこの艤装。どうやったらこれほどの重量に耐えられるのか、どうすれば想定される熱に耐えられるのか。わたしたちはもうこの船を再現する手立てがない」
 だったら捨てちまえよ。そんなものを海に浮かべたところで、次の高潮が来る前に沈むだけだろ。
「うん。わたしには無用の長物さ。だから後代に託すんだ」
 そうじゃない。おれは目の前の人間の頑是なさに呆れ返った。
 お前は今度の高潮を乗り越えるつもりがないのか。
 人間は羊皮紙の上であぐらをかくおれを見下ろして、小さく微笑んだ。
「わたしは船大工だ。それも人間の船大工だ。この町に残してきたものが多すぎる。それをひとつひとつ拾い集めて高台へ持って上がるには、ひどく時間がかかるだろうね」
 なおさらそんなもの、捨てちまえよ。と、おれは言いたかったが、寸でのところで飲み込んだ。代わりに作業台の製図道具を一瞥し、人間に尋ねた。
 ペンはどうする。おれの脳みそにそいつを叩き込んだところで、描くものがなければ意味がないだろ。
 人間はにやりと笑った。久しく見ていなかった会心の笑みだ。
「きみのこれで勘弁してくれないか」
 人間はあろうことか、おれの自慢の前歯に次いで大切な、キュートなお尻からくるりと伸びるおれのしっぽをつまみ上げてみせた。その先が黒いインクに浸かるさまを想像し、おれは即座に全身の毛という毛を逆立てさせてしっぽを取り返した。
 断る!
「そうだと思った。でもきみは、友人のわたしにも秘密にしていることがあるだろう。きみは設計図にクソを落としてまで嫌っているのに、絶対にかじって破損させたりはしない。きみの毛並みと一緒できれいなままここにある。だからこの設計図には、設計図としての価値以上の何かがあるとわたしは思っている」
 何かって何だよ。おれは無害を装ってチューと鳴こうとしたが遅かった。
「古代兵器はこの世のどこかにもう造船されているんだろう? だからきみはその守り手だ。これは創造のための設計図ではなく、破壊のための攻略図。その主砲が世界に向けられたときの最後の番人、最後の整備士。それがきみだ」
 おれはそんなに立派なモンじゃないぞ。チューと鳴く代わりにおれは言った。お前はどこかで勘違いしている。おれにできるのは精々が、船にぶら下がった大砲の穴にねぐらをこしらえることくらいだ。
 人間は声をあげて笑った。
「作ったんだね、きみは。実際にそのねぐらを作って棲家にしていたのか」
 気持ちよいほどの笑い声が部屋にこだまする。
 おれは黙って足もとの設計図を見た。おれの知る歴代の船大工たちは、これを見て喜んだ。悲しんだ。恐れた。そして職人としての本能が心臓をうるさくした。
 わかったよ。
 おれはぽつりと言った。でもおれが覚えるための時間はいらない。他の人間の手に渡る前に、これを早く燃やしちまえ。それからとっとと避難するんだ。
 おれは人間を見上げた。人間はこんなにも巨大なのに、どうしてこんなにも心細そうに生きているのだろうか。
 その設計図は、おれが描いたんだ。お前のじいさんのじいさんの、そのまたじいさんのじいさんに同じように頼まれてな。お前たちは馬鹿だよ。こんなもの、おれたちが船底をかじって沈ませてやるから。だから早く、逃げてくれ。おれの言葉を信じてくれ。おれの言葉を信じるのは、もうお前しかいないんだから。

 人間の傲慢さが人間を滅ぼす。設計図がそうであったように、歴史がそう語っているように。人間たちは何度も嵐の迫る崖縁に立ってはおれにさよならを言った。

 高潮が町を襲った。人間の友人も、おれの仲間の何匹かも、海の底に沈んだ。それでも今なおおれたちはこの島にしがみついて生きている。
「ぎゃっネズミ!」
 食料庫を漁っていると上から包丁が降りそそいだ。おれは颯爽としたステップで殺意を躱すと口にくわえた一日分の食料を仲間のもとにまで運んだ。おれが運べるものといえば所詮はこの程度だ。設計図は今も脳みその片隅に埋まっている。
 人間が死んで、仲間が死んで、それからたくさんの人間が死んで、それからもっとたくさんの仲間が死んだ。おれはまだ生きている。太陽が真上でカンカンに照りつける日々も、進水式を間近に控えた船が大嵐で木っ端みじんに吹き飛ぶ日々も、おれは後ろ足で背伸びして彼らの最期を目撃するだけだった。
 高潮は町を何度も襲った。いつしか人間たちは、この町をウォーターセブンと呼ぶようになった。その由来をおれは知らないが、幾度の水害を経ても海を愛するこの町をおれ自身も愛している。
 魚人の血を引く人間と出会ったのはその頃だ。人間は人間を差別する。おれたちネズミだって仲間のネズミを差別するのだから当然だ。行くあてのない人間におれは喜んで鉋の使い方を教えてやったが、そいつはひどく悲しんだ。人間の作業場を間借りして、おれが設計図を描きあげたからだ。人間は一目見てその有用性と引き換えに起こされる惨劇を理解した。理解できる職人に育ったからこそおれはそいつに設計図を託した。言ってみれば責任の押しつけだ。罪の分散だ。人間が生み出したものは人間が管理するべきだというおれにとっての理に適った、世界の誰にとっても益にならない考えに従った。おれもいつの間にか心細く生きるようになっていた。仲間はばたばたと死んでいく。一匹でいるのはつまらない。一匹で生きていくには、この生は長すぎる。
 おれは人間の弟子たちの前ではチューと鳴いた。まるで無害な小動物のように。
「おいチビ、食うか?」
 人間の子どもの指が新鮮な魚の身を目の前でゆらゆらと揺らした。チューと警戒したあと、本能のままぱっと飛びつくと、何が面白いのかそいつは腹を抱えてゲタゲタと笑った。
「ンマー、たまには野菜でも取れ」
 差し出された根菜をぽりぽりかじると、人間の子どもはおれの頭を優しく撫でた。それがどうにも懐かしくて、おれは海の底に沈んだ友人をつかの間偲んだ。
 いつしか橋の下の造船工場は手狭になり、人間たちと同じ皿がテーブルのおれの席にも用意された。
「ネズミを飼うなんて正気かい」
「たっはっはっ! 飼ったことなんて一度もねえよ、そいつはワシの友人だ」

 人間が作ったものは、人間に返すべきだろう。かつて、おれはしっぽの先のインクを丹念に舐め取りながらそう言った。お前たちは海の向こうで海賊だの海軍だのと争っているらしいが、おれにとってはどちらも同じ人間だ。太陽を塞ぐ巨大な壁だ。うまい食事を生み出す料理人、それで仲間を誘き出す毒殺者。おれはチューと鳴く以外に生き延びる方法を知らない。
 人間に比べればはるかに短い四つ足をえっちらおっちら動かして、おれは看守の脇を通り抜けた。看守はチラッと見るだけで小さな生き物の侵入を許した。ここまでは楽勝。ここからが正念場。濃厚な血のにおいが堅牢な石畳みを迷わず案内してくれた。
「どうして来たんだ……おめーはよう……」
 たっはと笑う声に力はない。鉄柵の隙間をひょいとくぐっておれは横たわる人間に近寄った。床にこびりついた血の感触がおれに毛繕いの衝動を促すが、今は本能に従っている場合ではない。
 おれの弟子を見物しに来たんだ。
 背伸びして人間の顔を覗き込む。いつもはるかに見上げるばかりの人間の顔をおれのつぶらな両目では区別のつけようがないが、今は普段のありさまから劇的に変わっていると想像がつく。人間はふるえる指を動かして釘をつまむようにおれをつまみ上げると、自分のぶ厚い胸に乗せた。足裏で心臓が強く脈打っている。
 ドンと生きるんじゃなかったのか、お前は。こんな世界の隅っこでくたばるつもりか。
「たっはっ! はっ……! ……! カハッ」
 人間は笑いながら血を吐いた。ふーっと大きく息をつき、おれの体をぐらぐら揺らした。
「ワシの師匠は随分小さくなったもんだ」
 おれはお前が生まれるずっと前からこの大きさだぜ。
「ワシの水かきも母親のケツから落っこちたときからこの大きさだ」
 平然とウソをつくな。
 頭上から水かきが降ってきて、おれは人間と水かきのあいだで押しつぶされた。
 牢屋の鉄格子が蹴飛ばされる。
「さっきからごちゃごちゃうるせえぞクソジジイ。この死に損ないの海賊風情が」
 おれはチューと鳴きたかった。海賊ではなく船大工だ。棟梁だ。見回りの兵士の吐き捨てた唾が人間の流す血に混じる。
 ひそめた声が手のなかに吹き込まれる。
「早く海列車に乗って帰るんだ。ワシの師匠なら無賃乗車くらい目をつぶろう。お前を探してヨコヅナが海中の古い町まで泳ぎに行くぞ」
 あいつならおれを探すよりもっと重要な役目を果たしているよ。
「お前たちは何を企んでる」
 何ってそんなの、敵討ちだ。
 返事がない。水かきの下からじたばた這い出ると、人間は目を閉じていた。心臓はまだ鼓動を止めようとしていない。
 こんな世界の隅っこで、お前もおれを置いて死ぬつもりか?
 あまりにもみっともない泣き言に、おれは最後にチューと鳴き添えてそっぽを向いた。視線を外すまでもなく、人間は例の笑い声をあげる気力もなく、大きな水かきでおれを撫でる元気もなかった。
 おれはおれの役目を果たしにこんなところまで遠出したんだ。だからなあ、言ってくれよ。設計図をお前に託すと言ってくれ。
 足場が大きく上下する。
「……もうお前には関係ないことだ」
 関係ないことあるものか。あれは世界を滅ぼすぞ。町を海に沈めるぞ。おれの友人たちが全部消えてなくなるんだ。
「すまなかった」
 それは心に染み入る声をしていた。おれは背伸びして人間の目を覗き込んだ。人間はまぶたを上げてやさしく笑っておれを瞳に映していた。
「これまで誰もお前に言わなかったのなら、ワシが代わりにお前に言おう。人間のみっともない事情に巻き込んで、すまなかった」
 人間は酒樽のコルクを慎重に抜くようにおれをそっとつまんで床におろした。
「さあ行くんだ。ドンと胸を張って大きくなれよ、ティラノサウルス」
 これ以上大きくなるものか。人間は馬鹿ばっかりだ。

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