おれはしっぽの先をインクで汚す覚悟までしていたのに、人間はおれの英雄的行為を禁止した。おれは怒った。毛の艶が失われ、ひげがしなしなになるほど怒り狂った。
「ンマー、それを人は悲しいと言うんだ」
 人間はおれを設計図の上からすくい上げると、反対の手でやさしく頭を撫でた。それがあまりに気持ちいいのでうっかり眠りこけそうになったが、設計図に染みついた自分のしょんべん跡を目の前に突きつけられてさすがに鼻を背けた。
「こいつはお前の仕業か?」
 そりゃないぜ兄弟。このおれが職人の大事な仕事道具を汚すと思うか? こう見えておれは、お前よりもずっと歳上でおもらしなんてはるか昔の……。
 おれは前足をすり合わせながら必死に言い訳を並べ立て、見上げた人間と目が合うとはたと言葉を止めた。そしてチューと鳴いてみる。無駄だった。
「トムさんが言ってたのはこういうことか……」
 大きなため息が降ってくる。何だよ知ってたのか。先に言え。
 おれは再び設計図の上でごろりと横になった。今のおれは怠惰な気分だ。荒れた町の仕事にあぶれた親父の気分。高潮で木材は海の藻屑。鉄は高騰、客は寄港すらしやしない。華やかなりし造船業の町は今や昔ととぐろを巻いていた親父どもは、ちっぽけなおれの存在なぞ気にもしないで海列車を歓呼して迎えた。その生みの親をどこに連れて行ったか承知しておきながら。
 まあネズミのおれには関係ない。
「随分とまァ、人間くさいネズミだな」
 人間はさっきよりもずっと気安くおれを作業台の端に寄せると、設計図をくるりと丸めた。
 そいつを早く燃やそうぜ。
 おれは言葉の上では景気よくそう言った。そうでなければ胃がムカムカして、これまで飲み込んできた怨嗟の全部を吐き出してしまいそうだったが、人間は冷静な顔でおれを見下ろしただけだった。ドンと根を下ろした造船会社の職人が、自分ひとりきりになったというのに。
 それで、お前はどこまで聞かされたんだ?
「どこまでだと?」
 設計図をぽんと渡されておしまいにされちゃいないだろ。現におれのことは知ってたわけだ。
 おれは何も知らされちゃいなかったが。また胃がムカムカしはじめたので、おれはそのあたりに転がっていた木屑をかじった。前歯にあたる心地よい感触が気持ちを落ち着かせる。上質な木材だ。木目が整っている。いっぱしの目利き、腕の立つ船大工になったものだ。
 人間はどうしてあんな紙切れのために死にたがるのか、人間はどうしてあんな紙切れのために互いを殺したがるのかってこと。
「おれが先に白状するのはフェアじゃねえ」
 師匠と違い、弟子は言葉選びに慎重だった。こんなやつだったろうかとおれは考える。おれにとって人間は、区別するのも難しい。内心を推しはかるのはもっと難しい。
 人間は設計図を書類鞄の隠し底に仕舞うと、製図室をぐるりと見渡し、それからおれを肩に乗せた。
 高い。
「怖いか?」
 地面なんてクソくらえだ。
 おれは人間の首筋にしがみついた。カエルの背中に乗せてもらったときだってこんなに高いと感じたことはなかった。
「トムさんは、おれたちに設計図を託してもその出どころについては口を固く閉ざしていた」
 おれはぎくりと体を強張らせた。
「一度は落ちぶれた造船の島にあんなものが密かに受け継がれていたなんて誰も思わない。なぜだろうな。あの人が海賊王の船を任されるほどの職人だから? いいや違う」
 こいつの恩師に設計図を渡したのはおれだ。おれがあいつを巻き込んだ。つまり、おれが殺したも同然だ。そうと知って人間はおれを恨むだろうか?
「全部おれにブチまけてくれ」
 知ってから後悔するんじゃ遅いぞ。
「覚悟はとっくにできている。それに、おれはトムさんの意思を引き継ぐつもりだ。だからお前はもうこれ以上、おれたちに付き合う必要はない」
 おれは人間の肩で揺られながら正面から吹きつける潮風をひげで感じた。遠い海の向こうからは波打つ線路に車輪を走らせて材木が運ばれている。港には活気があった。
 この町が落ちぶれたのが、一度や二度で済むものか。どんくさい人間たちは高潮の塩っ辛い水を何度も浴びた。そのたびに荒廃して、復興して、また荒廃した。この町に物質なんて意味がない。意味があるのは形を持たない技術だけだと、お前たち人間は誇らしそうにそう言った。ネズミのおれに向かってな。
 あの線路の下にはおれの大事なものが沈んでいる。お前だけが悔しい思いをしてるわけじゃないんだぞ、人間。
 人間の指がおれの耳の裏をかいた。
「……悪かった」
 フン、人間の事情にネズミは関係ないからな。
「ンマー、そうでもない。お前とはきっと長い付き合いになるよ、兄弟」
 人間は長い足を使ってトンテンカンテンガッシャンバッタンうるさい裏町を見て周り、中心街の店のカウンターに札束をぽんと投げ出すと、すこぶる愛想のよい店員に向かってショーウィンドウを指差した。
「あの派手なスーツを上下一揃え用意してほしい。おれの新しい仕事着だ」
 製法のしっかりとした胸ポケットにおれの体は収納された。店員は、見違えるように素敵になったと人間を褒めそやした。というよりも自社のスーツを褒めた。まるで別人のようだと。
 なんだよお前、船大工をやめて裏稼業の元締めでもはじめるつもりか? このあたりの海賊を束ねて昼島まで乗り込むつもりか?
 おれは背伸びしてポケットから顔を出した。人間の顔はもっと上にある。太陽と被さって、おれにはいつもその表情を窺い知ることができない。
「……ンマー、似たようなもんだ」
 人間は指先でおれの額をくすぐった。
 それならそうと早く言え。
 おれは了解の印としてその指を軽く噛んでやり、人間が驚いている隙にさっと飛び出した。
 お前はこれから町をまとめるのに忙しいだろ。だったら偵察はおれに任せろ。得意分野だ。
「バカ言うなッ!」
 人間が突然地面に向かって叫び出したものだから、周囲の喧騒が一瞬止んだ。チャンスだ。人間が気まずそうに肩を縮めるあいだにおれは颯爽と海列車のホームまで走った。
 人間の言葉は正しかった。おれはいつの間にか小さく暮らすようになっていた。おれだってほんとうは、ドンと胸を張って生きていたい。

 チャンスだと思ったのはおれだ。馬鹿だ。人間の社会はネズミにとって難しすぎる。あれから人間の言葉でどれほど経ったか知らないが、あちこち出入りしてわかったのは人間の造船会社に政府の秘密の役人がひそんでいるということだけだった。そんなの自明だ。おれはもっと人間の驚く顔が見たかったが、人間のもとに帰るたびに見上げたのはドンと覚悟を決めた人間のあの静かな顔だけだった。
 満身創痍の体を引きずって、おれは通気口に流れるにおいをたどって人間の部屋に続く隙間に落ちた。
「侵入者ッ」
 久しぶりの帰還の歓迎にしては手荒すぎる。おれはたぶん三度死んだのだろう。一度目は体に靴先がめり込んだとき、二度目は壁におれの形の型がついたとき、三度目はずるずるすべって床にぺしゃんと落ちたときだ。
「はっ……ネズミ?」
 もっと早く気づいてくれ。こんなにいたいけな動物を虐待するなど海列車まで走らせた人間のすることか。おれは死に絶えながら思ったが、あたたかい手のひらがおれの体をやさしく包んだことでまだ生きていると実感した。
「カリファ、救急箱を持ってきてくれ」
「すでにご用意しています」
「ンマー、さすがだな」
「ですが……」
 ネズミですよ? 言葉尻から困惑が滲んでいる。
「お前はウチの業界に入って日が浅いからまだ知らねえと思うが、こいつらネズミはおれたち船大工にとって、特におれにとっては親友も同然だ。大事に扱ってやってくれ」
 消毒液を容赦なく振りかけながらとんでもない嘘を平然とつく人間に、親友扱いされたおれは慄然とした。ネズミが嫌われものということくらいおれでも承知している。いくらなんでも乱暴すぎる。
「申し訳ありません。勉強不足でした」
 簡単に信じるな。おれはうめくこともチューと鳴くこともできないまま忙しく頭を動かして思った。人間はこの町の人間たちに信を置かれすぎている。前にそう報告したとき、笑っていいのか困っていいのかわからない顔を人間はしていた。
 人間の部下が殊勝にメモを取る傍らで扉が勢いよくひらかれた。今度はなんだよ。
「アイスバーグさん!」
 馴染みのある声が聞こえた。人間の弟子だ。つまりおれにとっては弟子の弟子の弟子。うるさいやつがやって来た。人間はこいつのことをどうする気でいるのだろうか。弟子といっても押しかけ弟子のようなもので、考えてみれば人間だっておれの弟子の押しかけ弟子をしていた。ただの似た者同士か。
「おう、どうした」
「新しい社屋の見取り図を引いたんで確認してください」
 こいつら、また人間の部屋をデカくするつもりか。おれの短い足をもっと慮ってほしいものだ。人間に体をひっくり返され、おれは大人しく天井を見上げた。
「どうしたんですか、そのボロ雑巾」
「パウリー、セクハラよ」
「雑巾に!?」
 連呼するなよ雑巾じゃない。おれはまだチューと鳴く元気もなかった。
「アイスバーグさんの親友です。言葉を慎みなさい」
「ンマー、ネズミだな。怪我してんだ、おれがこれから面倒を見る」
「ああ、新しいティラノサウルスですか」
 ひょいとおれを覗き込み、訳知り顔で弟子が頷く。ティラノサウルス。人間がネズミを拾ったとき、必ずティラノサウルスと名前をつける。愛着があるのか横着なのか、誰もおれが同一個体だと気づいた様子はない。それも当然か、おれはただのしがないネズミだものな。ケッ。そう仕向けておきながらおれの胸中は複雑だ。ネズミにもこんな複雑な感情があることを人間たちは想像もしない。
「そういうことだ。カリファ、今日の予定は全部キャンセルしといてくれ。パウリーも悪いな、今は手が離せねえ。そこに置いといてくれたらあとで見ておく」
 人間はおれを治療しながらテキパキと指示を出したが、人間の子分たちは手伝いたそうに周囲をウロウロした。さながらおれの仲間のようだ。他の島に置いてきた仲間たちがふと恋しくなる。
 早くのんびり暮らしたいもんだぜ。
「アイスバーグさん、何か言いました?」
 おれがチューと鳴く代わりに人間はウオッホンと咳払いした。まああれだ。悪かった。
「早く職場に戻れと言ったんだ。カリファもわかったな、明後日まで予定は全部キャンセルだ」
「それは無理かと」
 しれっと追加した日程をすげなく断られながらも、ようやく部屋は静かになった。
 おれは試しにチューと鳴いてみた。掠れているが、調子は戻ってきた。
 お前も随分と懐かれるようになったんだな。
「会社がデカくなりゃあおれの周りも多少は慌ただしくなると思っていたが、ンマー、想定外だな。これでもカリファのおかげでうまく回ってる。それで? この傷はどこでもらってきたんだ」
 そこの駅を降りてからハトにやられたんだ。前に昼島でおれとやり合ったハトだ。あいつ、こっちに引越してきてたんだな。厄介だよ。おれだってやられっぱなしにするつもりはないけどさ。
 人間はせっかく治りかけているおれの傷口をまじまじと見つめた。おいやめろ。恥ずかしいだろ。
「そりゃ確かに厄介な問題だ」
 何だよ、そいつとは喧嘩ばかりしてるわけじゃないぞ。たまにはおれが遊び相手をしてやってることもある。仲はいいんだ。たまにそいつがやり過ぎるだけで。まったく誰に似たんだか。
「そのハトに飼い主は?」
 おお、いるぞ。人間だ。
「ンマー、そりゃそうだろ。飼い主はお前のことを知ってんのか」
 おれのように人間と意思疎通できたらな。
 人間はおれのひげから血をこそげ落とし、ぴんと張りそろえる手を止めた。
「ハトと? ンマー……微妙な線だな」
 含みのある言い方だ。おれは鼻先を持ち上げた。それから後ろ足で背伸びしてみる。もう痛みはない。いや、もっと痛いふりをしておくべきだろうかとおれは人間の子分たちを思った。
 おれの偵察がとうとう役に立ったか?
「……そうだな。だから、もう普通のネズミに戻ってみるか」
 人間の静かな目がおれを見た。
 おれだってもっと役に立つ確実な手段を取りたいんだ。でもお前が賛成しないだろ。おれはしっぽをくるりと巻いて、人間の手のひらに甘えるように叩きつけた。

 そうだおれは甘かった。人間が書類仕事を放り出して造船工場の職人たちに混じるのを部屋の窓から眺めていると、後ろから声をかけられた。
「元気になってよかったわ、ティラノ。ところで私とは楽しくお喋りしてくれないのかしら?」
 おい。
 おいおいおいおい。
「冗談よ、フフ。毎日お世話していると不思議とネズミにも愛着が湧くものね。ルッチも同じなのかしら?」
 おれの鼻面を細い指で撫でながら、堪えきれないようにそいつは笑った。馬鹿にするというよりもずっと親しみを込めて。
「まさか、あのルッチが?」
 これはどっちだ? どっちなんだ? 喋るネズミに気づいたのか、そうでないのか?
 おれはぐるぐるぐるぐる駆け回りたいのをぐっと耐えた。珍しく太陽ののぼる数を好物の種で数えもした。人間にこっそり話しかけられるとチューと鳴いて応えた。さすがの人間は、ちょいと眉を上げたくらいで、まるでおれの言葉がわかるように会話を続けた。そのあいだも細い指はおれの身の回りを快適に整えた。ぷくぷくと太った。食っては寝ての生活だ。最高。
 そして、おれは人間のもとから脱走した。これ以上のストレスはおれの胃がもたない。
 おれはしばらく普通のネズミをやった。そのうち人間はおれの子分の一匹を拾い上げてティラノサウルスと名づけた。おれに似て賢いやつだ。おれの代わりは存分に務まるだろう。でもおれは、おれ以外が人間からティラノと呼ばれていることに据わりが悪く、造船会社を縄張りから外した。
「ネズミと皿ァ並べんのも懐かしいんががが!」
「ゴンベはネズミを襲わないよ!」
 人間の子どもはおれに友人の賢さを自慢したが、においでわかる。それはウサギだ。おれの天敵じゃない。

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