設計図の写しがあると思われてはならない。おれたちの急所であり命綱でもある設計図を、政府役人の目の前で「もっとも大切なもの」と引き換えに消し炭にしなければならない。そうだ。引き渡すのではない。「もっとも大切なもの」であったとしても、おれたちは政府の手に渡ることを断固として阻止するのだという、絶対的な意思を表明しなければならない。これは無言の説得であり、脅しだ。この世から設計図は失われたのだと、二度と復元できないのだとやつらに納得させなければならない。
人間が市長に初当選した日の夜、おれたちは今後のことを話し合った。
「客観的に見て、おれが設計図と交換するに値するものだと考えられるのはなんだ?」
ネズミに客観視なんてできるのか? おれはまずそう言ってから、腕を組んで考えた。
お前のそばをウロチョロしているあの子分はどうだ?
「パウリーか? ンマー、あいつには困ったもんだ……おれは弟子を取らねえつもりだったのに」
人間は嬉しそうに眉をかいた。
お前に手を出すつもりならまっさきに標的になるだろうな。何せお前は師匠から直々に設計図を受け継いだんだから。
「だからこそ、ケツを叩いて早くウチから独立させるつもりだ。ウォーターセブンから離れちまえばおれとの接点は切れる。政府の関心も薄れるだろう」
人間なら右から左に動かせるが、どうしたって動かせないものもこの世にはあるぞ。
「そうだな」
人間はため息をついた。廊下を挟んだ向こうでは人間の会社の職人たちが祝杯をあげている。遠い島から輸入された貴重な嗜好品があっという間に消費される。海賊王が去ってのち、人間はこの町の復興の象徴になっていた。大手造船会社を取りまとめる社長だ。今や市長だ。英雄だ。戦争の火種がそこにあるとも知らないで。
「この町に軍艦の主砲が向けられたところで、いや向けられてこそ、おれは設計図を破り捨てることに何のためらいも持たない」
そこに憎しみはなかった。人間はいつだって冷静だ。
おれはいやだぞ。
おれは町の人間に代わって主張した。この町が高潮以外の理由で海に沈むのは見たくない。
「ンマー、心配するな。政府がこの町に武器を取って乗り込んでくることはまずねえよ。そのために市長になったんだ」
ところが、人間はこの町を手放すどころかますますしっかり抱え込み、人間の弟子はいつまで経っても人間の後ろをついてまわった。さらにその上、おれのもうひとりの弟子の弟子が突然姿を見せ、ちっとも思い通りに動いてくれなかった。
人間は右から左に動かせる。そんな馬鹿なことを言ったのは誰だ。おれだ。同意したのは誰だ。人間だ。でもあの人間はそこのところもよく承知していたのではないか。してやられた。あいつはどこまでその手で守りきるつもりなのだろう。
「アイスバーグさん!」
人間の弟子がブンブンと腕を振る。おれはその影につかず離れずあとを追いながら、潮風にひげをそよがせた。
高潮がやってくる。それは毎年やってくるが、今年は特におれのひげが警戒を促した。懐かしい。昔のおれは警告を与える相手を間違えたが、今ならわかる。この町を束ねられる人間はひとりしかいない。あのとき、おれはやり方を間違えたんだ。
職人たちの足もとを縫っておれは人間の胸ポケットにさっともぐり込んだ。
「ンマー、人懐こいネズミだな」
人間の指が久しぶりにおれの額を撫でる。鼻を近づけてにおいをかいで、おれは少し安心した。今年の高潮もきっとうまく乗り越えられる。
「――ところで、お前らの船にはニコ・ロビンという女が?」
胸ポケットで体をもぞもぞ動かし、日が暮れてひとりになった人間の部屋でそっと聞いた。
殺すつもりか?
人間は書類に目を落としたまましばらく何も言わなかった。それからふと笑う。
「おれはあいつらと違って造船技術の腕以外で誇れるものはなんもねえ。そんなおれが賞金首の海賊をやれると思うか?」
思うぞ。お前がほんとうに必要と思うなら。でもほんとうかどうかを確かめるための労力もお前は惜しまないだろ。
人間は何も答えず、仕事用のメガネを外すと長くため息をついた。
ほらな。
食糧を食い尽くし、マストをかじり倒し、船を板きれに変えさせる。体は小さいが、おれたちはなんだってできるんだ。島のネズミはそうやって生き延びた。では人間たちは、火を使い、機を織り、それで何をする? その巨大な体で何ができるというのか?
おれはチューと鳴くことさえできなかった。人間が銃撃を受けたときも。血の海に倒れたときも。襲撃者たちがおれに一瞥をくれ、ただの無力なネズミを放ったらかしにしたときも。この期に及んでこいつらはおれをただのネズミと侮っている。それが悔しかった。それに甘んじるしかないおれ自身が悔しかった。
おれは自分の毛が血に濡れるのも構わず人間のそばを離れなかった。こんなときに、どうして離れることができるだろうか?
「カリファ、……少し外してくれるか」
涙で前をにじませる子分たちを人間は遠ざけた。物理的にも、心理的にも遠ざけようとした。
このままだとあいつも危ないぞ。
「……ンマー、そうだな」
なあ、お前はよく頑張ったよ。こんなにボロボロになるまでよく粘ったじゃないか。だから、今度はおれにやらせてくれよ。
人間は顔を上げた。恐ろしい顔をしていた。包帯で半分頭を隠し、血の気の失せた、げっそりやせた顔。おれはこんなにも、こいつの顔をよく知っていたのかと思う。こんなにも見違えるようにしおれた様子に胃が痛む。
「それだけはしちゃならねえ」
どうしてだよ。設計図なんておれがチャチャッと描いてやるからあとは怪我の治療に専念でもしておけ。
「バカ野郎。インクも乾ききらない設計図を見られもしたら余計に立場が悪くなる」
だったらおれが教えてやるよ。
おれはチューと鳴いた。
おれがチューと鳴く以外のことができるって、みんなの前で教えてやるよ。
おれは人間のベッドから飛び降りた。どんどん部屋が広くなるものだから、短いおれの愛らしい足をこのときばかりは不便に思った。でも気分は上々。おれはやってやるぜ。おれはドンと胸を張って生きるんだ。広い床をビュンと駆ける。
「バッ……ッ……パウリー!」
危ない。慌てて急ブレーキをかけたおれの鼻先で扉が勢いよくひらいた。間一髭だ。
何するんだよ。
文句は届かない。弟子の視線はまっすぐに部屋の奥に向けられている。その背後の廊下では人間を心配するやつらが大勢控えている。どこかにはこの事態を喜んで見守っているスパイもいる。そのなかで、人間は弟子を呼んだ。
「お前に話がある……。カリファ、ティラノをカゴに入れておいてくれるか。目の前でおれが倒れたもんだから心配して落ち着かねえようだ」
細い指におれは拾われた。おい離せ。おれはチューと鳴いて指を噛んだ。違うだろ。離せと一言言えばいい。細い指はおれをとなりの部屋のカゴに押し込んでカギを閉めると、しばらくそこにたたずんだ。
「……許してとは言えないわね」
ふわりと血のにおいがした。目の前のやつか、それともおれにこびりついた人間のものだろうか。少なくとも、これからもっとこの血のにおいをかぐことになる。
おれのせいだ。人間にあいつの弟子を巻き込ませたのはおれのせいだ。人間の師匠にそうしてしまったように。
おれはカゴの柵をガジガジ削った。こんなもの、こんなもの。それからなぜか、脱走したおれは人間たちの手枷もガジガジ削っていた。自慢の前歯がうなるぜ。
「お前すげーネズミだな! おれの仲間になれ!」
「ンなこと言ってる場合か!」
気の抜けるようなことを言ったそいつは気の抜けるような背伸びをしたあと、ぐいんと腕を後ろに伸ばした。もしおれがネズミでなければ顎の骨が落ちていただろう。
「うりゃああああああ!」
目の前で壁がぶち抜かれていった。おれは自分がただのネズミでよかったと思うことにした。
おれはチューと鳴くことしかできない。それ以外にどうしろというんだ? 襲撃者たちは、まるでおれの仲間をなぶる厨房のやつらみたいにゴム人間たちをなぶった。海王類がただの魚に見える。
床にぐったりと倒れる人間と目が合った。血がひどい。この部屋はイヤなにおいであふれている。人間はおれを目で制止したが、もはや構ってられなかった。瓦礫と化した壁の合間を縫って近づこうとすると、バサリと影が走った。ハトだ。
邪魔するな!
おれは叫んで、叫んでからあっと思った。視線が痛い。
「ほう……」
イヤなにおいがますます強くなる。
「こんなところにも消すべき証人がいたか」
「なんじゃ、今のはワシの幻聴ではないようじゃな。いつから喋れたんじゃ、ティラノ」
おれはチューとは鳴かなかった。
いつまでも知り合い面しやがって、馴れ馴れしくおれの名前を呼ぶな。出ていくなら早くどこかに行っちまえ。もうこれ以上、人間を傷つけるな。
おれは爪を構えて威嚇した。人間以外と話すのは久しぶりだったが、そんなことちっとも嬉しくなかった。
「口うるさいネズミだ」
「……ただのネズミの言葉を誰が信用するの?」
「だが、あえて見逃すこともあるまい。仕事であれば相手がなんであろうと手を抜かずに、徹底的に。そうでしょう、アイスバーグさん?」
デカい肉球が頭上から降ってくる。おれの体は床に縫いつけられたように動かない。本能だ。こればっかりは仕方ない。
「やめろ……ティラノ!」
人間の声が悲しい。
パキンと頭蓋骨が砕かれた。それから背骨。肋骨を貫通して内臓も踏み潰される。おれの存在ごと。気が遠くなった。一瞬だろうか、それとも一生? 存在がかすんで、永遠が引き延ばされる。永遠はどこにでも生まれる。おれの友人。海の底に沈んだ懐かしい人間たち。それからおれの意思を禁じた人間。設計図。そうだ、おれは設計図を運び続けなければ。
おれは再び立ち上がらなければ。
「……ルッチ」
「ルッチ。もう時間じゃ」
威圧感が消えた。痛みは消えないが、おれをいたぶるネコの気まぐれから逃れることができたようだ。
血のにおいがする。クソのにおいも。これはおれのにおいか。消毒液がほしい。それからやさしい手も。おれは四つ足で起き上がり、床をよたよた歩いた。誰がこんなに広い部屋を設計したんだ。でもそのおかげで崩落の危機を免れているのだから大した先見の明か。なんだ、じゃあ人間のしたことか。
おれは後ろ手に縛られた人間の手のひらに額を押しつけた。
おれも役に立ったか?
「なんてことだ……」
人間の力は弱々しかった。死にかけたおれよりも手が冷たい。そのとき、後ろで大きな火柱が立ち、瓦礫の山が動いた。トナカイだ。
「ナミ! ゾロ! ルフィは!? おれの仲間をどこにやった!」
もうおれたちしかいないぞ。
「うわあ、ネズミが喋った!?」
お前が言うな。と、おれは言ってやりたかったが、人間の縄にかじりつくのに忙しくそれどころではなかった。前歯を動かすたびに欠けていく。力が出ない。人間の視線も曖昧だ。朦朧としている。全員ボロ雑巾みたいにくたりと床に転がっている。
「喋るトナカイに喋るネズミ……血の流しすぎでおれは夢でも見てんのか……?」
人間の弟子はぼんやりする頭を振っておれを見た。
惚けるのはまだ早い。ほら、次はお前の番だ。おれの前歯に人間たちはもっと感謝しろよ。
この短期間に人間の弟子を拘束から外してやるのははや二度目だ。しかも人間の建てた社屋のなかで。まったく世も末だ。
「お前、本気であのチューチュー鳴いてたティラノサウルスなのか。それにさっきの、ありゃいったい……」
全部あとだ。うっかり手首を傷つけても文句言うなよ。
「いや……待ってくれ、おれはいい。それよりここはもう危ねえ。アイスバーグさんを先に避難させてやってくれ」
熱せられた部屋の温度でおれのひげはくるりと円を描いていた。
そのためにお前のロープを外そうとしてるんだろ。まったくお前は半人前だな。これはお前のものじゃないのか? 自分の仕事道具で死にかけるなんて情けないにもほどがある。
おれの言葉を後押しする力強い声もあがった。
「そうだぞお前、どう見ても重症だ! 医者のおれが言うんだから間違いない!」
「あ、ああ……あ? 医者?」
「ンマー、お前ら……こんなときにも元気だな」
かすれた声で人間が言った。
「そこのトナカイに、頼みがある。おれたちをここから連れ出しちゃくれねえか」
「……ハッ、そうだよおれトナカイだ! おれの背中にみんな乗れ!」
ほらロープが全部解けたぞ。
だが弟子は立ち上がらない。血の気の失せた人間を支えながら、視線を床に落としている。いまだに呆然としている目は現実を直視できていない。苦楽をともに分かち合ってきた仲間たちを思わぬ形で失った痛みに耐えかねている。
「すまねえ、アイスバーグさん。あいつらをみすみす信用しちまったおれがバカで……」
だからさっきからそう言ってるだろ!
いつまでもぐずぐず下を向くおれの弟子の弟子の弟子に向かっておれは一喝した。どうしてわからないのだろうか。列車は海を走り、ネズミは島を渡る。おれは自由だ。自由であることを望まれている。でも人間は、そうではない。人間たちはいつまでも馬鹿だ。
どれほどの太陽が落ちるあいだ、お前たちのために人間が耐え忍んだと思ってるんだ。死にたいくらい後悔してもおれが死なせてやらないぞ。なぜならお前の師匠が生きてほしいと馬鹿みたいに願っているからだ。さあドンと生きろよお前は師匠の名を継いでずっとずっと生きなきゃいけないんだぞ!
人間のために。人間たちのために。海の底で眠るおれの友人たちのために、牢屋で死を待つばかりだったおれの友人のために。もっと早くに言うべきだった。
「……っ、おれは」
天井を支える柱が崩れる。轟音が響く。炎があかあかと室内を照らし出した。
「……はあ、こんなところでネズミに説教されてんのか、おれは。情けねえ」
人間は小さく笑って「お前の負けだ」と弟子にやさしく言った。「お前がウチに残ってくれて助かった」と。
社屋は焼け落ちた。ついでにおれのねぐらも。設計図はどうなっただろうか。あの底抜けの騒々しさですべての鬱屈を覆い隠すもうひとりのおれの弟子の弟子は。
たが少なくとも、人間は今日を生き延びた。おれはそれ以上を望むまい。
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