ちゃぷん、と岩壁に波が砕けた。風のない洞窟で、揺れる水面は何ものかがそこに存在することを暗に示している。
次に過ぎる影はコイキングかミニリュウか、はたまたごくまれに姿を見せるというハクリューか。人間の耳には聞こえない音や、目には見えない暗所の動きを、ワタルは五感で捉えようと懸命に集中していた。
懐中電灯に照らし出された夜の竜の穴は、日中と変わらない冴え冴えとした空気を放って肌に馴染み深かったものの、鍛錬に励むトレーナーたちの姿が消えたことにより底知れない無言の気配をあたりに漂わせていた。
今このときばかりはポケモンたちの時間に支配されていた。見習いとしてこの地での修行を許されているワタルであっても、夜間の立ち入りは禁止されている。忍び入ったと知られれば三日三晩の説教は免れえないだろうし、ひょっとすると生きて再び陽の光を浴びることのできない可能性すらある。
それでもワタルが蔵から懐中電灯をつかんで単身洞窟に入ったのは、ひとえに自分と同じほどの背格好を月明かり差す滝の裏手で見つけたためだった。
それが同い年の
クレキであるとはすぐに判じられなかった。入り口に仰々しい見張り番こそ立てていないものの、竜の穴への不法侵入は毎年それなりの件数にのぼると推定さていれる。希少なドラゴンポケモンが不正に売買されている実態の解明と、闇市場に流通する不審なたまごの産地特定は、長年フスベシティの長老たちを煩わせている悩みの種だった。
窃盗団に子どもが関わっている可能性もないではなかったが、一方でワタルにはことを大きくさせたくない狙いもあった。
あの後ろ姿が
クレキであれば、同情心がわずかに疼く。
フスベシティに生まれた者は、誰であってもドラゴンポケモンに親しみを覚え、いずれは最奥の祠でドラゴン使いとしての証を立てたいと願うものだ。祭礼で今の
クレキに許されているのは、竜の穴にしずしずと分け入っていく神輿をしめ縄の手前で見送ることのみに限られ、以前はその輪にワタルも混じり、今では神輿の列に控えることを許されている。彼らの視線が対等に交わることはまれだった。
「誰かいないのか」
ワタルは入り口との距離を慎重に測りながら、懐中電灯の白い光の輪を大きく振った。侵入者がどんな人間であれ、こちらが単独である以上無闇に敵対するつもりはなかった。
その明かりの先で、ふと何かが動いた。ぬめる天井が人工的な光を弾いて無数のきらめきを落とすその波間に、不自然な泡がひとつふたつ、数えるうちに影が迫った。それはコイキングでもミニリュウでも、ましてやハクリューのものでもなかった。まさかカイリューかとワタルが懐中電灯をしっかり握り直したその瞬間、二本の腕が湖面から生えた。
驚きで懐中電灯を放り投げなかったのは、まさに日頃の訓練の賜物以外の何ものでもない。
「あれ、ワタルさま?」
クレキがとぼけた声でワタルを呼ばわる。足場に濡れた体を引き寄せ、水浴びしたゴマゾウのように顔の水気を振り払う姿はワタルの予想通りの人物であったが、その出現の仕方には度肝を抜かされていた。あらかじめ用意していた詰問の内容も頭から吹き飛び、その切れ端をつかむのに苦労させられた。
「きみはなぜここに、そこで何をして……、いや、早く湖から上がったらどうなんだ」
「こっそり入ってきたの、もしかしてバレてた? 親父には叱られるから黙っといてほしいんだけど」
「いいからここまで上がってこい」
ワタルは怒気混じりに手を差し出した。
クレキが体を預けている水辺には、野生のポケモンが多く生息している。むしろこの湖こそがドラゴンポケモンの棲家だ。遊泳場でないことは、当然
クレキにもわかっているはずだ。地の上では跳ねるしか脳のないコイキングであっても、人間にとって自由の効かない水中にあっては何が起こるかわからない。警戒心の強いミニリュウやハクリューと遭遇すればなおさら危うかった。
クレキは素直に差し出された手を取って上半身を持ち上げ、ワタルが彼の体温の低さにひやりとしているうちに、急に気が変わったように再び湖に肩まで体を沈めた。勢い、ワタルの体も湖のなかへと沈みかける。
ワタルは波に洗われた足場に何とか膝をつき、こんなときにふざけている場合かと声を荒げそうになって、動きかけた唇を止めた。
背後で物音がする。やがてひそめた話し声が聞こえ、ワタルは懐中電灯の電源を落とすと入り口に目を向けた。フスベの外の香りをまとう生き物たちの緊張に逸る息遣いが、暗闇に満ちる玲瓏とした空気をかき乱していた。
名乗られるまでもない、害意を持って竜の穴を踏み荒す窃盗団がそこにいた。これまで明かりに頼っていたワタルの目では細かいところまで見分けられないが、彼らは洞窟内のなめらかな道に足を取られては支えを求めて壁に手をつき、ついた手もつるりとすべっては小声で悪態をついていた。
握られたままのワタルの手にぐっと力が込められた。冷ややかな閃光が神経を伝って肘の先まで駆け上がる。ワタルは粟立った背筋から気を逸らしながら、
クレキを見下ろした。
クレキが窃盗団の登場に動転しているわけでないことは、最初の反応からもわかりきっていた。
「三人いる。まだこっちに気づいてない」
「……見えるのか?」
「おれは鳥目じゃないからね」
空ばかり見上げている
クレキへの揶揄にひこうポケモンを持ち出すことは定番のネタになっていたが、緊迫したこの状況での余裕あるその態度に、ワタルは彼への認識を改めさせられた。
「ポケモンの種類はわかるか」
「一匹はランターン。あとは見たことないのが二匹」
たぶんどっちも飛べない、とささやいて
クレキは再びワタルの手を強く握った。
「もしかしてやり合うつもり?」
「きみがいるからそれは無理だ」
単独でもその気はなかったが、冗談めいて牽制する
クレキの軽口にあえて乗った。
「三人程度なら、ここの野生ポケモンたちにはわけないだろうさ。心配するまでもない」
「へえ、信頼してるんだ」
「当然、俺のミニリュウは竜の穴の生まれだ。きみがいなければとっくにあいつらをどうにかしている」
「鳥目のくせに」
「もう慣れた。……彼らもそろそろ大胆に動き出すはずだ」
窃盗団は少しでも見つかるリスクを抑えてか、ランターンの光る触手も今は暗闇に溶けさせ、壁伝いに隊列を組んでそろそろと歩いている。
水場を除くと、竜の穴はさほど広くない。彼らと鉢合わせるのも時間の問題だった。
「さて、どうするか」
出口までの道は空いている。この状況では野生のポケモンたちの安全よりも、まずは自らの命を優先すべきだ。ポケモンたちの保護については、無事に町まで戻れたあとに考えるほかない。
平静を装いつつも、無難にこの場を切り抜けるのはさしものワタルにも骨の折れる作業のように思われた。
だが
クレキに視線を向けると、ワタルは楽観的な気持ちも沸いてくる。この危機的状況を一時凌ぎとはいえ、軌を一にする仲間と共有できることは、高ぶる緊張感を意外なほど和らげる効果をもたらしてくれていた。
クレキは少しも波を立てることなく湖と同化したまま、窃盗団の出方を冷静に窺っている。
「何か考えがあるのか」
ワタルが問うと、水の寒さにか少し青褪めた唇がほころんだ。
「ワタルさまはどう考えてるの?」
「打つ手もあるにはあるが、きみ次第だ」
「……おれはこのまま黙って帰るのもつまらない。先手必勝、ワタルさまのミニリュウで何とかならない?」
一網打尽で一件落着、とつい先んじて交戦に懐疑的だったその口が、一転して自暴自棄なほどワタルを唆かす。
「ドラゴン使いのワタルさまなら、野生のミニリュウたちとも協力できるんじゃない?」
白々しい煽ての言葉に、ワタルは眉をひそめた。胸のうちを嫌な予感がひらめく。
「きみはまさか、自分たちで捕縛すれば今夜のことは不問に付されるとでも思ってやしないか」
「ご褒美に長老がポケモンのたまごをくれるかも」
そのたまごの正体は、きっと孵る前から親を知る、人懐こいミニリュウだろう。だが彼ら彼女らが進化を果たしたそのとき、生半可な覚悟の者に御せるとはとても思えない。ドラゴンポケモンの不正売買は、持ち主の手に負えなくなったあとの不法投棄による生態系の破壊についても深刻な問題となっていた。
だが何よりもまず深い禍根となってあとに残るのは、ポケモン自身が救われないことだ。フスベジムに保護され、もとの親を求めて痩せ細っていく姿を何度ワタルはこの目で見たことか。
ワタルは落胆の気持ちを押し殺して首を振った。
「きみも彼らと目的は一緒か」
クレキは目だけで静かに笑った。
「じゃあ、長老への言い訳は、ワタルさまに任せたから」
「おい、きみを庇うつもりはないぞ」
ワタルの言葉は、激しく波打つ水音によって打ち消された。咄嗟に腰のモンスターボールに手の回ったワタルの腕をつかみ、
クレキが天井に触れられるほど高く飛び上がった。
当然ながら、
クレキのずば抜けた身体能力のためではない。
「マンタイン、全速力で逃げるよ!」
ワタルと
クレキを背に乗せたマンタインが、大量の水を飛び散らせながらほのかな明かり差す出口に向かってまっすぐに滑空した。その姿を窃盗団が呆気に取られて見送ったあと、俄かに顔色を変えて追いかけ始める。
もはや隠す必要のなくなったランターンのでんじはが横を掠めていった。
「もっとスピードは出せないのか!?」
「定員オーバー!」
幸いなことに、水場から出口まで大した距離はなかった。だがその先にある滝壺を水面ギリギリに迂回したところでマンタインの力は尽き、草むらをでたらめに刈り取りながら軟着陸すると、乗客の体を地面に放り出した。
ワタルは転がり落ちた体勢から素早く立て直してあたりの様子を探った。
窃盗団は発見者が子どもふたりだけと見てとると、撤退ではなく撃退を選んだようだった。月明かりの草むらに三匹のポケモンの姿が照らされる。ランターンに、パッチールとトリトドン。彼らの気は完全にワタルたちだけに注がれていた。
坊や、と男が猫なで声でささやく。
「坊や、今夜のことは怖い夢でも見たことにしてくれないか?」
「なあに、朝までそこで眠っているだけで構わない」
パッチールが酒に酔ったような足取りで一歩前に出る。
来るな、とワタルは心で念じ、実際に声を張り上げていた。
「神聖な斎場を荒らしたお前たちには、いずれ天罰がくだるぞ!」
男たちが顔を見合わせて肩を揺らす。笑いをかみ殺した声がワタルを嘲った。
「古くさいことを。鄙びた町で生まれた子どもは、鄙びたままに育つのか」
喉の奥がちりちりと痛む。ふつふつと湧き上がる怒りとともに、ここしかない、その緊張感に相棒の気配が呼応する。
ワタルは窃盗団の背後に向かって命じた。
「……薙ぎ払え。アクアテール」
滝壺からざぶんと飛沫が上がる。長い体が鞭のように振り絞られ、窃盗団をまとめて草むらに叩きつけた。勝利を信じて疑わなかった人間たちの驚愕に染まった悲鳴と、ポケモンたちの呻きとも威嚇ともつかない弱々しい鳴き声が夜の静寂に沈んでいく。
身を這いずり、目を回したまま倒れ伏すマンタインを庇いながら、
クレキが月夜に輝くそのポケモンの名を熱に浮かされたようにつぶやいた。
「……ハクリュー」
「手のうちを明かさなかったのはお互いさまだ」
ワタルのハクリューが首もとの宝玉を天に捧げながら高く鳴いた。
しかし優位な形勢もそう長くは持たないだろう。二度目の不意をつけたとはいえ、一対三のままでは分が悪い。ワタルは
クレキにフスベシティまで走れそうかと声をかけようとして、突然の横合いからの強い明かりに目がくらんだ。
真昼のようなまぶしさがワタルの頬を横に薙いだ。
「お前たち、そこで何をしている!」
フスベシティに続く木立の間から、草むらに向かって懐中電灯の光の筋が素早く走った。それもひとつやふたつではない。足音が町からいくつも続いている。
その先頭に立つのは、険しい表情のワタルの祖父だった。窃盗団の悪事とともに、ワタルと
クレキの掟破りもすっかり明るみに出ていた。
窃盗団はたちまちフスベシティの大人たちに囲まれ、抵抗する暇もなくあっさりお縄についた。その騒ぎの脇で、寝巻きに半纏を引っ掛けただけの男が地面に転がったままの
クレキの前に立ち塞がった。
「こんのバカ息子が!」
男は
クレキの体に馬乗りになると、そのまま頬を力いっぱい殴った。見ていたワタルが思わず首をすくめてしまうほどの容赦のない拳が決まった。
「おい、落ち着け!」
「無事に見つかったんだから良かったじゃないか」
クレキの父親は仲裁に割って入る大人たちに宥められながらも興奮はなかなか収まらず、肩で長く息をついていたが、それでもふと我に返って青褪める瞬間があった。
長時間水に浸かったあとの冷えきった体をふるわせながら、自分の息子が目をつむったまま一向に起き上がらなかったからだ。
騒動は別の騒動へと発展した。
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