町一番のカイリュー乗りによって病院に運ばれた
クレキは、謹慎の解けたワタルが見舞いに訪れた頃にはけろりとした顔でベッドのなかから出迎えられるようになっていた。手厚い看護の甲斐あってか、後遺症といえば父親から受けた拳で欠けた奥歯くらいのもので、むしろそれが窃盗団との交戦の際に負った怪我ということで有耶無耶にしなければならないほど厄介な問題になりかけていたらしい。
「退屈で死にそうだったから大歓迎、と言いたいところだけど、お前に会ったのバレたら親父に殺されそう」
「やめてくれ、さすがにそれは冗談に聞こえない」
ベッドに近寄りながら首を振っても、
クレキは肩をすくめて笑うばかりだった。
「冗談下手は父親譲りなんだ。周りの目が厳しいから、もう当分のあいだは殴られることもなくなってついてるくらい。ついでに畑作業から解放されたし、もうしばらく入院生活を満喫しときたいな」
ワタルに課せられる修行も厳しいが、
クレキの家も大概に思える。それともこれも彼なりの冗談のうちだろうかと、ワタルは苦い思いを飲み下した。すでに彼の下手な冗談でいっぱい食わされていたことは忘れようがない。
「次に嫌なことがあれば竜の穴に逃げ込まないで、俺のところに来たらいい。きみを匿うくらいは今の俺にもできる」
「長老の家に? いいね、親父が泡吹いてぶっ倒れるよ」
クレキが布団の上にばたりと倒れ、くの字に体を折って死んだふりをする。まったく堪えていないその様子にワタルが呆れて脇腹をつつくと、くすぐったそうに身をよじった。
その手に石が握られている。ワタルに見られたとわかると、
クレキは恥ずかしそうに握りしめた。
「握力が戻らないのか?」
「そっちは問題なし。でも親父のせいで入院が長引いたらどうしよう」
「頼むから脱走なんて考えてくれるなよ」
「そのときは匿ってくれるんだろ?」
ワタルは真面目くさって答えた。
「きみに対しては、もっと慎重に言葉を選ばないといけないことがよくわかった」
「そりゃすごい気づきだ。お前こそ今度は騙されるなよ」
「もちろんだ、きみの悪事に加担するつもりは毛頭ない」
「さすが、謹慎食らったやつの言うことは違う」
「病院のベッドに縛り付けられるほど軟弱な鍛え方はしていないからな」
ふたりは一瞬だけ黙り込んで顔を見合わせると、同時に吹き出した。
ちょっとした危機をともに乗り越え、気心の知れた眼差しがどちらからともなく交じわった。
「きみはみず使いだったんだな」
「当てようか、ひこうだと思ってただろ」
いつかのように、
クレキは目だけで静かに笑った。
「お前はドラゴンタイプにしか興味ないから知らなかっただろうけど、最近おれがみずタイプに凝りだしたのは学校のやつらみんなが気づいてるよ」
「ああ、知らなかった。悪かったよ」
「そこでドラゴンタイプについては否定しないところがおれたちのワタルさまって感じ。みずタイプもかっこいいの、身にしみてわかっただろ」
「うん。ひこうタイプもな」
「その通り。マンタインは空を飛べないけどね」
クレキは手のひらに遊ばせていた石ころをぽいっと真上に放り投げると、それを反対の手の甲で受け止め、器用にまたそれを上へと放り投げた。まるでモンスターボールの扱いに慣れているトレーナーのようだった。
「はじめはカイリューに憧れてたんだ。あいつの背中に乗って山を越えられたら、どんなに気持ちいいだろうかって」
その夢は、本人が意識を失っている間に一応は達成されたが、
クレキは絶対にそのことを認めないと唇を尖らせた。
――フスベの里に生まれついた者は、すべからくドラゴン使いを目指すべし。
その伝統的な風習は、多くの選択肢を持ちえる現代の子どもたちにもいまだ強い影響を与えている。
「おれがドラゴン使いになれないとはっきりしたとき、親父が珍しく旅行に連れてってくれたんだ。あの背中で何でも語りたがる親父がさ、タンバシティの夕日の落ちる浜辺で、昔の自分もミニリュウに選ばれなかったんだとこっそり打ち明けてくれたんだ。だからおれんちにいるのは農作業にうってつけのヘラクロスだけってわけ」
「知ってる。毎年雪下ろしを手伝ってもらっているから」
「フスベシティで一番の働きものはあいつで間違いないよ」
「きみは父親の跡を継がないのか?」
ワタルは当然、父や祖父のような立派なドラゴン使いになり、そう遠くない将来にはフスベシティのジムリーダーとなる覚悟を決めていた。
周囲から寄せられる期待が理由のすべてではない。誰よりも強いドラゴン使いとなり、ドラゴンポケモンの素晴らしさを、先日の騒動のような悪事を思いつく者が二度と現れないほどの優れた強さを、世にあまねく知らしめたいと考えていた。
祖父からは自分の力を驕るなと叱責された。その通りだとワタルは思う。あの危難を乗り越えられたのは、ワタルひとりの力ではない。お互いの機転があってこそだった。
ほんの少し前まで、彼が早くから故郷を離れたいと願うのは当然だと決めつけていたワタルは、今ではそうあってほしくないと願っている。フスベシティの大人たちがワタルの祖父を陰に日向に支えるように、ワタルの近くで
クレキにもそうしてもらえたらどれほど嬉しいだろうかと淡い期待を抱いている。
しかし
クレキは首を振った。
「親父はおれに跡を継がせたいみたいだけど、でもこのまま残って悪さするくらいだったら、さっさと出て行かせたほうがマシかと思い始めてる」
自分の息子と同じ歳の子どもを「ワタルさま」と呼んで敬う
クレキの父親は、今回の件で息子がワタルを巻き込んでしまったことを、長老ですら気遣うほど気に病んでいた。
そしてそうした態度を取る者は彼に限った話ではなかった。
「ここを出てもあてはあるのか。きみのことだから、タンバシティで漁師にでもなるつもりか?」
「いいや、あそこはいつでも行けるってわかったから」
クレキはとっておきの秘密を打ち明けるようににやっと笑い、枕の下からいくつかのパンフレットを取り出した。
そして半身を病院のベッドに預けながら、すこぶる健康的に宣言した。
「おれはホウエン地方に留学する。そこで博士になって、海の研究をするんだ。目星をつけた大学教授たちにはもう手紙を送ってある」
海に関する学部名の並ぶパンフレットの表紙を見せられ、ワタルは呆気に取られた。彼らはまだ大学入学資格すら取れる年齢ではない。
「本気か?」
もちろん本気に違いない。目を見れば彼が下手な冗談を言っているのでないことはわかる。
かつて聞いた言葉がよみがえる。ワタルのジムリーダーと、
クレキのワタッコひとっ飛び、どちらが早くに実現するか。尊敬するドラゴン使いを前に照れくさっておどけて言ったよもやま話のなかで、あえてくさタイプを持ち出してきたあたりに親の愛情が詰まっていたのかもしれないと、ワタルは詮ないことを思った。せめて家業に親しいポケモンをと願っても、子どもの背中に生えた翼はすでに遠くへ飛ぶ力を蓄えていた。
タンバシティですら遠いと思った。それが別の地方とは。
「きみにドラゴン使いの才能があればよかったのに」
誰よりも詮ないことをワタルは思わずつぶやいたが、しかし次の
クレキの言葉に沈んでいた顔を上げさせられた。
「知らないのか?」
クレキの企みに満ちた声がする。
「ドラゴン使いになれなくても、カイリュー博士になることはできるんだ。この世で一番優れた使い手が友だちにいるおれは、もうなれたも同然だよ」
ワタルには
クレキの言っている意味がひとつもつかめなかった。
「カイリューについて研究したいなら、ここに残ればいいじゃないか」
「友だちとして手を貸してくれる?」
「それはもちろん」
ワタルは大きく頷き、しかし
クレキの決意が固いことをすでに悟っていた。
クレキが軽く息を吸う。指が拍子を取り、石のつるりとした表面を叩いた。
「昔はみんな、海で暮らしていた」
まだあざの痕の残るその口から、フスベシティの生まれであれば誰であっても耳にしている童謡の一節が流れ出す。
――昔はみんな、海で暮らしていた。昼は輝く波をつかまえて、夜は月明かりの庭で眠りについた。揺れる海藻、群れなす小魚、ひげをそよがす竜の王さま。みんな海の息吹に抱かれて眠っていた。
「カイリューの子守唄か」
太古の深い海のなかで、賢く慈しみにあふれたカイリューが、そこに息づくポケモンたちを統べている、そんなおとぎ話のような世界が
クレキの口を借りて歌い上げられる。
「カイリューは海の竜だ。竜の穴は昔そこが海だったことを教えてくれる」
「そしてフスベでは山の守り神になった。フスベシティのカイリュー博士ではだめなのか?」
クレキがまた石ころを放り投げた。今度は放物線を描き、ワタルの手もとにまで届けられる。
「このあたりは豪雪地帯だろ。年中溶けない氷の抜け道に、屋根を押し潰すぶ厚い大雪。冬の一番大事な時期におれんちのヘラクロスに活躍を譲ってしまうくらい、カイリューたちは寒さに弱い。それでも彼らはどうしてこの地に留まっているんだと思う? こおりタイプが苦手なのに、どうして温暖な地域に移り住まないんだろう?」
「それは……」
それは子どものための童謡ではなく、神話のなかに答えがある。
大人たちが大真面目に語る、フスベシティの縁起譚。外から訪れたドラゴン使いが黙って語り部の言葉に耳を傾け、あとは静かに口を引き結ぶ子ども騙しのような物語。彼らが信じているのかどうか、それはフスベシティの者にとってはあまり関係がない。
寒冷地にカイリューが根付いたこと、それはワタルや
クレキたちの遠い祖先と、フスベのはじまりのカイリューが友誼を結んだからだ。カイリューは人間の営みを守り、人間はカイリューそのものである自然を守った。絆は代を変えても受け継がれ、ワタルたちの世代にいたっても長く続いている。学校の初等教育で噛んで含めるようにそう教わり、その伝承をもとに祭礼が執り行われている。竜の穴の祠と神輿に乗るカイリューの像は、フスベシティの象徴であり、またドラゴン使いの誇りでもある。
深い山あいに拓かれたフスベシティのドラゴンポケモンは、彼らにとって魂の片割れと同義であった。
そうした伝承が人間に都合の良いように作られ、捏造された法螺話とまでは言わないまでも、非科学的な考え方だということはみなが知っている。知っていて、深くは考えない。禁忌に触れることへの畏怖と崇敬の思いは、伝承に近いワタルの意識にこそ強く植え付けられていた。
こおりとドラゴン。山とカイリュー。
「それは、なぜなんだろうか。なぜ彼らは不利な環境下にあっても俺たちのよき隣人であり続けてくれるんだろうか。……それとも、その思い込みそのものが人間の傲慢な考え方なのか?」
「なぜかなんて、おれにはわからないよ」
真剣に考え込むワタルの言葉をあっさり打ち破り、
クレキは歯を見せて笑った。
「だからおれはホウエン地方へ勉強しに行くんだ。山に棲むカイリューとずっとお隣さんで暮らして研究が進まないなら、海に行けばいい。カイリューたちが昔暮らしたような場所で勉強すれば、何かわかるようになるかもしれない」
どこにいようと、誰といようと、カイリューたちとの絆は変わらない。むしろ深まると心から信じきっている。
「きみは、もう決めてしまっているんだな」
きっとワタルと友だちになる以前から。ワタルが竜の穴で修行に励むその同じ時間を、彼は空を眺めることばかりに費やしてはいなかった。
ワタルは手のなかの石ころを病室の白っぽい蛍光灯にかざしてみた。すべての角は丸みを帯び、少しも光を通さない。美しさはハクリューの宝玉に遠く及ばないが、どこか親しみを覚えるものがあった。
「おれたちの冒険の記念にそれやるよ」
「冒険?」
「鍾乳石。おれはそれを採りに行ってたんだ」
「なんだって」
ワタルはぎょっとし、手のなかのものを
クレキに突き返した。
そんなものは受け取れない、と強く思う。そんな大切なものは、自己本位のためだけに彼をフスベシティに引き止めようとしたワタルには受け取る資格がなかった。
あの夜をふたりの冒険譚に引っくるめられて語られることに納得のいかない思いもわずかにあったが、気軽に渡されたこの石が、それだけの危険を冒してようやく手に入れた宝物であることに違いはなかった。
「大切なものじゃないか。俺なんかがもらうわけにはいかないよ」
「いいんだ。お前にとってはその辺に転がってる石と同じ価値しかないだろうけどさ。でもお前の友情の代わりにおれがやれるものといったら、これくらいしか思いつかないから」
そこで
クレキは口をつぐんだ。病室のドアが開き、花瓶を手に戻ってきた
クレキの母親が、息子のベッド脇にいるワタルを認めて戸惑いと畏れの混じった表情を浮かべた。
「先払いだ」と小声でささやいた
クレキが再び自分をかしこまって呼ぶ前に、ワタルは手のなかの石ころをそっとポケットに忍ばせた。
「……きみがそうしてほしいなら」
口からついて出た言葉よりも、告げた声の響きの切実さにワタルは狼狽えた。一瞬だけ視線が正面から混じり合い、あとは離れていく。
閉ざされた病室のドアがワタルを現実に引き戻した。
遥か太古の岩陰で、ひと粒の水滴が垂れ落ちる。音もなく、形もなく、見守る者もいなかったゆるやかな大地の変遷が手のひらで冷たく馴染んでいる。
* * *
雪道にてんてんと足跡がついている。裸の枯れ木がまばらに立つ白い影に、ふと自分と同じ背格好の少年を見た気がして、
クレキは後ろを振り向いた。彼の視界には、霞んだ空の下にあたたかく灯る明るい窓がぼんやりといくつか映っていた。
そのどれにも見つけたかったものはない。
雪が降り始めると、故郷に続く道は静かに埋もれていった。
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