風が強く吹いている。耳もとをちぎれた音がすり抜ける。
ワタルは雲の切れ間の青い輝きに身を投じ、カイリューの頭越しに姿の変わり果てたグレン島の全容を見下ろした。
その報告が緊急でもたらされたのはもう一年以上前になる。
グレン島の噴火が収まった直後、ワタルはふたご島へ避難していたカツラとともに遠目からその様子を確認しに行ったことがある。あのとき身のうちに萌した自然への畏怖は、今でもワタルのなかから拭われていない。
カツラはすぐさまグレンジムの再建をリーグに願い出たが、ことがそう簡単に進まないだろうという予感はその後の調査報告書からも明らかだった。
島の集落にまで押し寄せたマグマの固まりは、人間の営みもポケモンの暮らしも何もかもをも覆い尽くし、噴煙によって昼と夜とを奪い、果ては冷たい海にまで燃え立つ舌を伸ばした。ポケモンセンターの建設許可も、熟考の末のようやくの決断だった。行き場を失った野生ポケモンを保護する必要に迫られなければ、それもまた先延ばしにされたことだろう。
カイリューは溶岩の冷え固まった大地の上を選んで降り立った。ポケモンセンターからも、係留する調査船からも離れたこの場所には、草木ひとつ、人影ひとつなかった。
もちろん、そんなわけがない。
波打つ岸壁の音に混じり、海面にぶくぶくと泡が立つ。やがてマンタインの魚影が浮かび上がり、ついでダイビングスーツに身を包んだ青年が現れた。
彼は海面から顔だけ出すと、手のひらよりも大きなゴーグルを首まで下げた。すっかり日に焼けてはいたが、ワタルのよく知る面影がそこにまだ宿っていた。太陽の光を浴びて笑う顔がきらきらと輝いている。
「よう、チャンピオン。夏のバカンスに浮かれるのはまだ早いよ」
「やあ、博士。ところがそのバカンスにきみを誘おうかと思ってね」
「おれとお前でバカンスだって?」
クレキが笑って問いかける。
あれからはや何年か、先んじてワタルがフスベシティを立って以来の再会だというのに、
クレキはまるで月日の隔たりを感じさせない屈託のなさを見せていた。
「いいね、それならホウエンはどう? あそこまで足を伸ばせるなら、いくらでも案内したいところがある。カイナの科学博物館にフエン温泉、ルネでカイリューとダイビングするのも楽しいよ。ヒワマキのツリーハウスはオフシーズンじゃないと予約が取れないけど、そこはおれのツテでなんとかしよう」
淀みなく挙げられる候補先に、意外と学問漬けでなかった日々が想像できて苦笑がもれた。
「どれも魅力的で簡単に決められそうにないな」
「お前の休暇に合わせるよ。どうせ大してリーグを空けてらんないだろ。今日は視察か? 報告書の不備は班長に伝えてくれ。おれがチャンピオンの知り合いだって気づかれたら、めんどくさい仕事を押し付けられそう」
リーグから派遣された調査隊に
クレキが加わったのはつい最近のことだった。有言実行でホウエン地方へ留学を果たし、地道に研究成果を積み重ねてきた幼なじみの名前をカントーの地で見つけた奇跡を思うと、ワタルは何かしらの導きを感じずにはいられない。竜の穴に忍び込んだ
クレキに、あれから拳以上の天罰がくだることはなかった。
そうやってワタルが報告書の署名を眺めて感慨にふけっているうちに、人生の途上ですれ違った彼の背中はまた遠のきつつあった。彼が離れたわけではなく、ワタルの立場が変わったために。
その可能性についても考えてはいたんだが、とワタルは腕を組んで思案した。ポケモンセンターにたった一台だけあるテレビでは、離島まで満足に世俗の情報を伝えられていないらしい。
すでにチャンピオンではなくなったことをどう切り出すべきかワタルが思い悩んでいると、
クレキが再び口を開いた。
クレキはマンタインの背中に肘をつき、何か眩しいものでも見るかのようにワタルとカイリューを見上げていた。
「おれが話した夢のこと、覚えてる? ほら、昔病室で。お前はもうすっかりおれの憧れは叶ったって言ってたけど」
「ああ、もちろん。覚えているさ」
懐かしい話題を持ち出され、ワタルもまた目を細めた。深い山あいの閉ざされた小さな町で、幼い彼らは将来の展望に疑いひとつ持たなかった時期をともに過ごした。ひとりはドラゴン使いのジムリーダーに、ひとりはドラゴンポケモンの研究者に。それぞれの道ははじめから交わらず、道そのものも思いがけない山頂に続いていたが、ワタルはいつでも先払いされた友情の証を持ち歩いていた。
「叶ったじゃないか、カイリューに乗れて。それとも今度はホウエンまで連れて行こうか?」
「フィールドワーカーの体力を舐めるなよ」
クレキはにやりと笑い、「実はもうひとつあったんだ」と、いつか大切なものをてらいなく差し出したように、ワタルにそっとささやきかけた。
「おれの夢。癪だけど、またお前に叶えてもらった」
「それは覚えがないな」
クレキとは久しぶりに再会したばかりだった。お互いに故郷を離れてからは連絡を取ったこともない。その事実をすっかり忘れてしまうほどに幼なじみとのやり取りは昔と変わらないままだったが、寄せられる信頼にワタルは戸惑いを覚えた。
クレキはにやにやとするばかりで、首を捻るワタルになかなか核心を告げようとしない。
「こっちのことは覚えてないとは言わせない。約束しただろ、友人として手を貸してくれるって。実はさ、高原の涼しいところで報告ばかり受けてないで、さっさとここまで降りて来いってさっきまでは思ってた」
「すまない、きみに会いにいきたいとは思ってたんだが」
「それはいいんだ」と首を振る
クレキの唇は昔のように青褪めてはいなかった。まるで海こそが自分の本来いるべき場所なのだと、気持ちよさそうに頬をゆるめさせている。
「忙しいんだろ、気にすんな。こうやってカイリューにまた会えて、おれのマンタインも喜んでる」
雲の上の寒空とは違い、すべてを作り変えられたばかりの島の上では潮風が優しく吹いていた。
クレキの背後から波が立ち、ごつごつとした岩場に砕けてはその下にまで海水を染み渡らせている。
水蒸気の白煙がのぼる様子はもう見られない。大地の鳴動は鎮まり、海は早くも新しい生命の循環に順応しようと活発に働いている。その黒く真新しい島の上で、足もとに打ち寄せる潮鳴りの不思議な響きを、理知的な瞳を輝かせてカイリューが聞いている。
穏やかな波に身を任せながら、
クレキがそっと歌を口ずさんだ。
――昔はみんな、海で暮らしていた。昼は輝く波をつかまえて、夜は月明かりの庭で眠りについた。
クレキのマンタインがひれをひらめかせて、どこまでも続く海の裾野に揺蕩っている。
「カイリュー、お前も昔はそうやって、火山島に巣を作っていたんだろうか?」
ひげをそよがす竜の王さま。
ああ、とワタルはため息をつきかけた。呆れではなく、胸をくすぐる優しい懐かしさがこみ上げてきたために。ワタルは風にたなびくマントを手で押さえ、その懐にある冷たくもほのかにあたたかい記憶に触れた。
「火山島で暮らすカイリューを見つけること。それが研究者としての、もうひとつのおれの憧れだ」
故郷を離れ、肩書きを得て、研究対象を移すごとに軽やかに新しい道を選び取る。
いつまでも同じ場所に囚われていたのは自分だったのかもしれないと、ワタルは気づかされた。祖父の過信への戒めが今でも耳に痛い苦言として生々しく響いた。
ワタルがチャンピオンであることは、彼にとって友人がドラゴン使いであることと同じ程度の重みでしかない。
気づけば先払いの利子はもう随分と嵩んでしまった。四天王となり、チャンピオンとなり、いつかのうちにさっさと連絡を取ればよかったものを、ずるずると待ち続けた自分の愚かさに苦笑がもれる。
昔話を信じ続ける難しさ。
下げられた顔を覗き込む、その恐ろしさ。
「
クレキ」と、ワタルは彼の名を呼んだ。いつまでも対等になれない寂しさを、はじめて自分自身の手で捨て去った。もうとっくに彼が故郷に置いていっただろう因習を、凍傷のように固く結んだ拳を、吹き流れる風に向かって開いた。
手のひらに残されたのは確かな重みのあるものだけだった。
「きみがドラゴン使いの一番の友人であるというのなら、もしまだそう考えてくれているのなら」
打ち寄せる水の冷たさが身にしみる。空はどこまでも高く続き、だが海の深さもまた底知れない。
「カイリューのたまごを俺と一緒に育ててみないか」
フスベの海がやがて大地となって生きものたちを包み込んだように、たまごもやがては海に還って自らの定めを知る。そして再び大地に戻ることを選ぶその日まで、彼にならって友情を先払いしてみるのも面白いかもしれない。友人の目を覗き込めば、ワタルの心に楽観的な期待が満ちていく。
幼なじみとともにフスベの掟を破るのはこれで二度目だった。三度目は、おそらく破ったとすら自覚を持たないのだろう。
クレキはうっかり海水を目に入れたように何度も瞬きを繰り返し、もうすっかりあざの消えたその口が自分の名前を呼び返す姿を、ワタルはどこか清々しい思いで見つめていた。
――きみがそうと望むなら、俺はこの世で最も優れたドラゴン使いとしてあり続けよう。
一滴の水が海となり、大地となり、やがて伝説を生み出す礎となるように。
昔はみんな、海で暮らしていた・了 1 / 2 / 3 / 4