たまに、薄暗く静かな部屋にひとり帰るのが怖くなることがある。誰もいない、とわかっていながらそのむなしさを再確認する作業は鈍い痛みを伴って体の芯をゆっくりと貫いていく。
 遠くに響くサイレンをぼんやりと聞きながら、吉野は缶コーヒーに口をつけた。
 隣から甘い香りがする。
 肘が触れるほどの近さで女のひとが吉野の隣に立っていた。彼女は何かを問いかけるように柔らかく首を傾げていて、ゆるく巻かれた長い髪が風を受けて肩からこぼれ落ちる。ネオンの明かりが艶のあるワンピースを不思議な色に仕立て上げていた。
 彼女の細い指が吉野の胸に触れる。吉野は黙ってそれを見ていた。
 日常を淡々とやり過ごすことに耐えきれなくなったとき、気づけば彼女たちは吉野のそばにやってきた。皆、顔かたちは違ったが、求められるものはいつも同じだった。
 そのまろやかな手に引かれるままついて行った先に、何があるのだろうか。いっときのぬくもりを得る代わりに、何を失うのだろうか。そんな破滅的な誘惑に駆られることがないかと言えば嘘になる。まさに今のように、何をしてもぼんやりと現実味が薄れ、生きている、という実感がなくなっているときに限って、彼女たちは吉野の前に現れるから。
 吉野は口に含んだコーヒーの苦い味を舌に転がした。
 ねえ、と香りと同じだけ甘い声が空気に溶けたそのとき、また誰かが隣に立つ気配がして、乱暴に肩を掴まれた。緩んだ手から転がり落ちた缶コーヒーがコンクリートの上に黒いシミを広げる。もったいないなと、考えたのはそれだけだった。加減なく掴まれた肩の痛みも痺れた頭ではよくわからない。
 甘い香りがタバコの臭いでかき消えた。細身の黒いスーツの男が、じろりと吉野の学生服を睨んで、女のひとのそばから吉野を追い払った。
 夜に酔った大人たちの雑踏が街を埋め尽くす。
 吉野は行き場を失って、一歩、二歩、喧騒が背後に遠ざかり、代わりに圧倒的な深い闇が吉野に覆い被さった。その端で、暗がりに紛れる鈍い光がちらついて、見てはいけない、と吉野は咄嗟に強く願った。
 それが何かに気づいてはいけない。
 それを手に持つ誰かを見てはいけない。
 急に地面が近くなり、鼻先で饐えた臭いが広がる。目の焦点が合わない。荒い息が耳の後ろから聞こえて、しばらくそれが自分のものだと気がつかなかった。
 目の端が白く滲む。
 喘ぐ息を抑え、塗装の剥げかけた壁に体を寄せて、吉野は冷たい空を仰ぎ見た。
 影が薄く伸びていて、吉野の足元と交差する。誰かが路地裏に立っていた。
 鈍い光が手元で反射する。誰かが叫ぶ。誰かが吉野を見ている。
 吉野は目を瞑った。あるいは目を見開いた。
 影が吉野の顔まで迫る。
 体の中心に痛みが走った。それは熱くも冷たくもなく、ただ痛いと思った。
 痛い。痛い。痛い。
 思考が痛みに埋め尽くされる。痛みが体を駆け回る。吉野は呻いた。
 ほんとうの痛みとは、こういうものだったのだろうか。
 自問して、それが幻覚だということを、吉野の周囲に人だかりができてからようやく気づいた。
 たくさんのひとの話し声、車のクラクション、反響するサイレン。急に夢から覚めたように、閉ざされていた五感が戻った。音の洪水に目眩がする。
 はじめから、夜の繁華街はいつにも増してうるさかった。
 アスファルトのゴツゴツした地肌が吉野の頬に当たった。何事かから助けられたらしい、ということだけが、突然目の前に現れた騒動の片隅にいる吉野にただわかったことだった。
 折り重なった人々の中から、声を張って時刻が読み上げられる。
 体に痛みはない。後ろから背中を押し倒されていたが、それは守られるような安心感があった。あたたかい手のひらに肩から抱き起こされる。
 吉野はお礼を言おうと立ち上がりかけて、今度こそ幻覚だとわかりながらも、それを知覚した。
 瞬きの合間にすべてのことがゆっくりと再生される。
 連続で焚かれるカメラのフラッシュ光。人垣をシャットダウンする黄色い規制線。荒々しく行き交うたくさんの革靴の合間に、吉野の目はそれが滑り落ちるのを見た。
 路上に音が響く。何度か弾む、乾いた音。
 右手が震える。
 何か声をかけられた気がしたが、吉野の耳には入らなかった。絶えず動く世界の中で、鈍い光だけが吉野の心を捉えていた。
 黒い柄に、鈍く光るそれが。
 目の前が霞む。現実が再び遠ざかる。
 右手がどうしようもなく震えた。
 視界からそれが取り上げられてからも震えが治らなくて、衝動的に地面に右手をたたきつけようとして、横から腕を捕まえられた。
 吉野が顔を上げるのと、その場に似つかわしくない子どもの高い声が聞こえたのは同時だった。
「沖矢さん」
 吉野は傍らで自分の背中を支える男を見上げ、それからその子どもを見た。
 子どもは目に見えて動揺していた。
 男が子どもの名前を呼んで、そういえばそんな名前だったかと吉野は記憶の片隅で思い出した。無意識に目があの鈍い光を探している。
 吉野はもはや、それを見たいのか見たくないのか、自分でもわからなかった。
 右手はまだ震えていて、男に抑えられたまま静かにうずくまっている自分が信じられなかった。
 痛かった。それがたとえ幻覚でも、体中が痛いと叫んでいた。
 今そこにほんとうの痛みがあれば、どれほど救われただろうか。

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