薄いカーテンの引かれた、少し埃っぽい室内。キャビネットには年代の古そうな灰色の背表紙のファイルが並べられ、入りきらなかった書類が床に無造作に積まれている。
吉野は褪せた色のソファに横になって、膝を胸に抱き寄せて丸まっていた。顎まで引いた毛布からはカビた臭いがした。真夜中にも関わらず廊下を忙しなく歩く足音が絶えずして、神経は少しも休まらなかったが、
吉野は、ひとりぼっちのあの家に閉じこもっているのとどちらがマシだろうかと考えた。
「あなた、
染井吉野くんよね?」
路地で呆然と尻もちをつく
吉野に、どこかで見覚えのある女刑事は確信を持ってそう呼びかけた。いつの間にか、男と子どもはそばから消えていた。顔色の悪い
吉野を見て、彼女はしばらく考えた末に、パトカーで警察署まで連れてきた。
テレビでよくある取調室ではなく、人の出入りが多い雑多なフロアの隅に椅子を引かれ、夜にカフェインを摂るのはよくないからとティーバッグの緑茶を渡された。
吉野はてっきり目の前で起こった事件について事情を聞かれるのかと身構えていたが、そこには触れられず、
吉野の学校での様子のことや、ふだんの生活のこと、むしろ夜中に繁華街にいたことを咎められてしまった。
つまりそういうことだろうと感じていたが、佐藤と名乗った刑事は真摯な面持ちで言った。
「あなたのご家族のことをとても残念に思っているし、今でも責任を感じています。何か困ったことがあればいつでも連絡してくれて構わないから。私は、あなたの手助けになりたいと思っているたくさんの大人のうちのひとりだと、それだけは覚えておいて欲しいの」
名刺を渡されて、
吉野は伊達のことを口にしかけて思いとどまった。この刑事に見覚えがあったのは、かつて伊達と共にいたのを見たことがあったからだ。聞けば伊達の近況がわかると思ったが、今日はこれ以上、何かに裏切られるのが怖いという思いの方が優った。何かに裏切られるという、冷え切った確信が
吉野の中にはいつの間にか芽生えていた。
吉野にとって伊達が特別な大人であっても、その反対が同じだとは限らない、その可能性の方がずっと高かった。
佐藤はぬるくなった
吉野の湯呑みの中身を新しものに変えて、今日はここに泊まっていきなさいと告げた。
「明日は学校を休んでゆっくりした方がいいわ。できればひと気のある場所がいいんだけど、そういうの、心当たりある?」
しばらく考えて、
吉野は行きつけの喫茶店の名前を挙げた。佐藤も知っているのか、あそこね、と呟いた。
「ハムサンドが美味しいらしいわね。私も仕事がなければ食べに行きたいくらいよ。確か、二階は……」
佐藤は思案げな顔をしてから、
吉野を仮眠室に使っているという小部屋に案内した。
「朝起きたら呼んでちょうだい。家まで送ってあげるから。もし眠れなくても、遠慮しないで私を呼んでね」
佐藤は色良い返事があるまでじっと
吉野の顔を覗きこんだ。
吉野は頷いて目を閉じた。
遠くで泣き声が聞こえた。すすり泣く声に、
吉野はどうしていいかわからなくなった。
部屋のドアが開いて、怖い顔をした大人がそこに立っていた。泣き声が大きくなる。
止めなければ。その小さな口をふさいで、止めなければ。
錆びた臭いがして、
吉野は振り返った。男がうずくまって、低い声で
吉野に囁いていた。
大丈夫、大丈夫だから、
吉野。
吉野の頭に刷りこむように囁かれる。
急に、右手が重くなった。
どうしてだろう、あとひとり足りない。
「ねえ、母さんはどこ?」
天井に声が吸いこまれる。
吉野は自分の声で目が覚めた。汗が額を流れ、耳たぶを伝ってソファに滲んだ。
部屋は薄闇に包まれていて、日の出にはまだほど遠かった。
目覚める前に誰かがそこにいた気がして、
吉野は宙に右手を掲げた。
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