女刑事に言われた通り、吉野は帰宅してシャワーを浴びてから、開店を待って喫茶店を訪れた。学校への連絡は、佐藤に見張られながら警察署で済ませていた。遅まきながらそこで初めて、吉野は一晩お世話になった場所が単なる警察署ではなく警視庁本部であることを知り、昨日は確認する余裕のなかった名刺の肩書きをつくづく眺めた。
 朝の早い時間のせいか、喫茶ポアロには先客がひとりいただけだった。スポーツ新聞を広げた毛利が暇そうにタバコを吸っている。
 吉野はカウンターの隅のいつもの席に座った。
 安室がおしぼりと水を差し出しながら、初めて見る吉野のラフなパーカー姿に驚いている。
「僕の記憶に間違いがなければ、今日は平日だったよね?」
 安室の少し嫌味っぽい言い方に吉野は笑った。ちょっと前に新しく雇われたこの店員は、その爽やかな弁舌からあっという間に常連客の心を掴み、その甘い笑顔から一見客を足繁く通わせることにまで成功させた。彼の日本人離れした外見とコミュニケーション能力は、老若男女を問わず発揮されるらしい。
 しかし少し言葉を交わしてみれば、その口調には外見に似合わないトゲがあることがわかる。大学生かそれを卒業したばかりに見える安室は、吉野にとって親しみやすい近所のおにいさんという感じだった。地毛だという金髪のせいで定職に就けないのかな、と余計な心配までしていた。
「学校はサボりました。先生に見つかりたくないから今日一日ここに匿ってください」
 安室はちょっと片眉を上げたが、吉野がデイバッグから勉強道具を取り出すのを見て、大人ぶって説教するのはやめたらしい。代わりに朝食について聞かれた。
「いらないけど、お昼はなすのトマトパスタが食べたい」
「そんなのうちのメニューにあったかな」
「前に梓さんが作ってくれましたよ」
 やれやれ、と首を振って毛利の灰皿を取り替えに行く安室を見送って、吉野は目の前のテキストに集中した。
 それからどれくらい時間が過ぎただろうか。カランと鳴る、そのドアベルの音に意識が引っぱられる。近づく、間合いの長い足音。気づけば吉野はシャーペンを持つ右手に目を落としていた。俯いた頭上でコーヒーを注文する声が聞こえる。吉野のすぐ隣のカウンターチェアが引かれ、いつの間にか店内が混んでいることを知った。
 しかし、その割りには静かだ。人の気配の少なさを背中に感じて、吉野はまた右手を見た。
「大学院というのはずいぶん暇なところなんですねえ」
「ええ、融通が利くんです。あなたも一緒にどうですか?」
「死んでもごめんです」
 店員と客のなぜか喧嘩腰のやり取りをぼんやりと聞きながら、吉野は右手に触れた。
 震えていない、そのことにほっとする。
 まるでそのタイミングを見計らったかのように、隣から声をかけられた。
「夜の街でのアルバイトとは、高校生にはあまりおすすめできませんね」
 吉野が顔を上げると、隣に座った男の細い目が吉野を見ていて、その向こうにいつもとどこか様子の違う安室がいた。
 吉野の視線に気がついて、安室の頬が持ち上がる。
染井くん、知り合い?」
 吉野が首を横に振る前に、男が安室に答えた。
「そうなんです。前に仲良くなって」
「あなたには聞いていません」
 安室の普段にない強い口調に面食らいながらも、吉野は否定の言葉を口にした。
「知りません。それに、夜のバイトってなんのことですか? おれ未成年なんでできないし」
「おや、そうでしたか? すみません、私の勘違いのようです」
 謝りながら、男が胸元から一枚の写真を取り出した。あまりにも不意打ちだったため、吉野はそこに写っているものを真正面から見てしまった。
「あれは、ラバーナイフでした」
 吉野の右手がぴくりと動く。
 喉が急速に乾いていくのを感じた。
「……え? ラバー、なに……?」
 ラバーナイフ。男の口がゆっくりと繰り返されるのを凝視してから、ようやく吉野はその男の顔が知ったものであることに気づいた。
「昨日の……」
 沖矢さん。そう呼ばれていた。
 右手が震える。爪がテーブルに当たって、カタカタと音を立てて鳴った。
 横から腕が伸びてきて、その右手に重ねるように手のひらを乗せられた。抑えられている、と思った。あの夜のように。
 吉野は必死に奥歯を噛み締めた。そうしなければ、自分の体の制御を失う気がしたからだ。
 そのとき、ガチャンと音を鳴らしながら二人の間にコーヒーカップが置かれた。ソーサーの上に黒い液体がこぼれている。男の手が吉野から離れた。
 白シャツを袖まくりした褐色の手がカウンター越しに写真を取り上げた。
「ラバー、つまりゴム製のナイフですね。写真であればほとんど本物と見分けがつかない。これが何か?」
 安室が顔の高さに写真を掲げる。反射的に目を伏せていた吉野は、その言葉に驚きの声が漏れた。瞼を上げてまじまじと写真に写るそれを見る。黒っぽい柄に、言われなければわからない鈍い光沢。
「えっ、偽物……?」
「そうです。君が怯えていたので、お知らせしておくべきだと思いまして」
 隣の男がコーヒーカップを手に取りながら答えた。
 吉野の右手から力が抜ける。
 安室が怪訝な顔で二人を見比べた。
「一体、先ほどからなんの話ですか?」
 捕り物の瞬間に居合わせただけの吉野には、安室になんと説明すればいいのかわからなかった。吉野がちょっと困っていると、背後から声がした。
「昨日……、いや、今日の未明に繁華街で一騒動があったんだよ」
 丸めたスポーツ紙でだらしなく肩を叩きながら、毛利が灰で山盛りになった灰皿と小銭をカウンターに置いた。
「おや、さすが探偵ですね。耳が早い」
 沖矢の言葉に安室の頬が引きつる。
「ああ、遅い時間だったから今朝の新聞にも載っちゃいねえ。あんたも、そんな時間までガキを連れ歩くな、と言いたいところだが……、どうせあのボウズが進んで首を突っ込んだんだろ。悪いな」
「いえ、おかげで染井くんに怪我がなくて幸いでした」
 毛利がしばらくなんとも言えない顔で沖矢を眺めてから、染井に手を振った。
「お前も災難だったな。模造品とはいえ、あれで殴られたら痛えぞ」
「おれはこのひとに庇われたから、ぜんぜん。そっか、ラバーナイフ、へえ……」
 安室から写真を受け取って吉野はラバーナイフと呼ばれたものを間近で眺めてみる。おかしなことに、模造品と言われただけでまったく抵抗感なく見ることができた。
 毛利が店を出て行って、沖矢がコーヒーの最後の一口を飲み干してから、さて、と言った。
「私もこれで帰ります。今度は噂のハムサンドを頼みに来ますね」
「残念ですがとうぶん売り切れです。二度と来ないでください」
「おや、どうしてですか? こちらの目玉メニューと伺いましたが」
「鈍いですねえ、あなたのために作るハムサンドはないと言っているんです」
「それはいいことを聞きました。安室さんの手作りでしたか」
 高校生の吉野には仲が良いのかどうか判別のつかない会話を交わす沖矢に、あの、と声をかけた。
「昨日はありがとうございました。おれ、ちょっと動転していて」
「気にしないでください。君のことは彼から聞いていたので」
 彼、が誰のことか見当のつかない吉野に、沖矢は告げた。
「いま米花町の工藤さんのところに居候しているんです。ここのコーヒーほどではありませんが、よければ遊びに来てください。一杯ご馳走しますよ」
 吉野はあっと息を呑んだ。工藤先輩、と言いかけて、周囲の目を気にして手の甲で口を押さえた。工藤の彼女経由で、込み入った事情のために自分の近況については口外しないで欲しいと言われていたからだ。きっと工藤は、吉野がその一言で余計に心配でたまらない思いをしていることにまったく気づいていないに違いない。
 工藤先輩。吉野は心の中で呟く。心の中にとどめたつもりだったが、笑みが顔にあふれていった。そばにいないのに、気づけば吉野のことを助けてくれる工藤は、やはり吉野のヒーローだった。
 吉野は改めて、上着を手に立つ沖矢を見た。
 吉野の関知していない、その工藤の知り合いというだけで十分に興味をひいた。
「安室さん、あの沖矢ってひとと仲良いの?」
 沖矢の背中を目で追いかけながら吉野が問うと、なぜかそれから沖矢の悪口をひたすら聞かされて、昼のシフトに入った梓が安室を笑顔で止めるまで続いた。

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