「それで、旅行はどうでしたか?」
 夕食を済ませた塔矢家の食卓で、明子は食後の煎茶を配りながら前のめりに息子へと尋ねた。
 成人間近の子どもの休日の過ごし方について異性の親からあれこれと詮索されるのは恥ずかしいものかと思って我慢していたが、我が家の男たちは揃って無口なたちのためにとうとう自ら切り出してしまっていた。
 そこではっと気づいたように、アキラは「すみません」と先に謝罪から口にした。
「せっかくお金を包んでいただいたのに、使う当てを思いつかないまま持ち帰ってしまいました。後でお返しします」
 我が息子ながら慎ましい物言いだ。いつもそつのない振る舞いからは反したその失敗談に、明子は感慨深く聞いていた。そのままうっかり笑みまでこぼれ落ちそうになったので、湯呑みを口もとに引く振りをして手のひらでほころんだ顔を隠した。夫にはバレてるかしら、とちらと思ったが、案外彼も笑っているのかもしれない。
 何も息子の失敗がおかしいのではない。失敗するほどはしゃいだことにほほ笑ましさを感じたのだが、どちらにせよアキラが羞恥を覚えてしまうのであれば黙っているのが親心だ。
 とは言え、たまにはつついてみたい衝動に駆られることもある。
「それでしたらあのお土産はどうなさったの? アキラさんらしい渋好みで美味しかったけれど、ねえ、あなた。東京の味とは違いましたわね」
 夕食で供された変わり種の漬け物は、泊まった宿で出されたものだとアキラに勧められながらに告げられた。その場で旅行の思い出話に花が咲かないところが塔矢家らしいと言うべきか。それ以外にも旅行鞄に混じって紙の手提げ袋を見かけたから、個人的な予定を知る夫の門下生たちにも抜かりなく用意したのだと早とちりしていた。
 行洋は妻の淹れた煎茶をゆっくりと味わってから、長考から覚めるようにアキラを見た。
 いつだって塔矢家の要石は盤石だ。
「誰かに借りがあるのなら、早々に返してしまいなさい。それが何よりも相手への礼儀になる」
 神妙に「はい」とアキラが頷いたのでそれで手打ちらしい。
 それならば、と明子はまた旅先での話題を口にした。
「アキラさんはお宿でどんなお酒を楽しまれたの?」
 ごほ、とアキラが口に含んだ煎茶をむせた。
「やっぱり日本酒がお好き? あのあたりの有名な地酒に何があったかしら」
「お母さん……僕はまだ未成年ですよ」
「あら、旅の席では少しくらい羽目を外しても許されるものですよ。進藤さんもお行儀よくしていたのかしら?」
「彼は先日二十歳になりました。……そういえば、お酒を頼んでいるところを見なかったな」
「まあ! お誕生日はいつだったの? 知らなかったわ、お酒が苦手そうならお祝いに贈るのはよしたほうがいいわよね。どうしましょう」
 まあまあ、と手を合わせ、明子は踊る心持ちで思案した。
 年末の息子の成人祝いについては問い合わせが相次いでいる。気の早い者では数年前から心待ちにしているようだった。母親としてはありがたいことこの上ないが、それはそうと、祝いの品やこちらから礼儀を示すべき相手にまつわる煩慮には気の滅入るところもある。だから勝手気ままに息子の友人を祝えることは明子に開放的な気分をもたらしていた。
「進藤さんは何を好まれる方かしら?」
「それは……」
「もちろん、囲碁以外のことですからね。あなたたちは何かにつけそればかりで」
「……お母さん。進藤にその必要はありませんよ」
 明子はヒカルに似合う物や色を想像を膨らませながら考えていたが、ふとそれを止めて息子の顔を見た。
「あら……まあまあ」
 どうしましょう、と明子はアキラにはそうと気づかれないようにそっと夫のほうに視線を送った。
 アキラは珍しく拗ねているような、どこか不貞腐れているように思えてならなかった。息子である自分が優先されていないとでも思ったのだろうか。それとも友人と旅先で仲違いじみたことをしてしまったか。
 塔矢家の頼れる要石はここでも揺るがない。
 行洋は椅子を引いて立ち上がると、通りしなにアキラの肩に手を置いた。
「アキラ。自らの手でつないだ縁は大切にしなさい」
 真実がどうであれ、アキラは尊敬する父親の言葉を重く受け止めたようだった。
「はい、最高の碁を見せると約束しましたので。僕からは死んでも離しません」

 オフィスビルの休憩スペースで後輩から仕事上での悩みを打ち明けられていると、葛城の胸ポケットが振動でふるえた。葛城は相槌を打ちながら何気なく私用の携帯電話を開き、表示された発信元に意図せず口の端をゆるめた。
 画面には進藤ヒカルとあった。
「葛城さん」
「……あ、悪い」
「いえ、先に戻りますね。また行き詰まったら相談させてください」
 葛城の個人的な噂を耳にしているだろうに、後輩はその件に触れることもなくあっさりと身を引いた。ありがたい対応に片手で礼を伝え、葛城は長くふるえ続ける電話に出た。
「ヒカルくん?」
「ごめん、仕事中だった?」
「いや、大丈夫だよ。何かあったかな」
 言いながら、葛城は顎を撫でた。自販機の透明なガラスにかすかに映る自分の顔が直視するにはあまりにみっともないように思えたからだ。
 後輩の愚痴を聞くのも苦ではないが、進藤ヒカルの存在はわずか半年余りの間に大きく膨らんでいた。
「うん、あのさ……手引き書のこと、覚えてる?」
 葛城は夜のまばらに伸びた顎髭を探る手を止めた。
 葛城がいるのはまだ職場だが、手引き書と言われてももちろん仕事に関することではないだろう。
「それは……あいつの、佐為の手書きの本のことか」
 病院で、昔世話になった医師から受け取った本のことを思い出す。あれには初心者向けの囲碁の解説が易しく書かれていたはずで、記憶が確かであれば詰碁もいくつか載っていた。
 佐為の周りには、彼の情熱が伝播してか囲碁をやり始めた子どもが何人かいれば、単に気を引きたいがために教えを乞う子どももいた。動機が何にしろ、佐為は誰に対しても分け隔てなく喜んで囲碁の遊び方を教えていた。
 そのひとりが葛城でもある。もうルールすらほとんど忘れてしまったが。
「それがどうかしたかい。二世先生も俺も、あれはきみにやったつもりだから好きに使っていいよ」
「そうなんだけど……」
 珍しくヒカルの歯切れが悪い。紛失でもしたかと葛城は心配したが、そうではなかった。
「あれって子ども向けだよな。入院していた小学生用ってこと?」
「小学生でも中学生でも、興味がある相手には誰にでも読ませていたと思うよ。始めたばかりの初心者を対象にしていたから、プロのヒカルくんには物足りないだろうね」
「違うんだ。オレのためじゃなくて……」
 音がこもる。葛城は電波の調子が悪いのかと思って携帯電話を耳に押しつけた。
 充分な躊躇いがあったあと、電話の向こうの声が続いた。
「佐為みたいなやつのために、何かやってみたいんだ」
 頭上で空調が動いている。缶の底に残ったコーヒーのかすかなにおいがゴミ箱からする。それでもなお、葛城は身に馴染んだ懐かしい香りを探そうとした。
 橘さん、と呼ぶヒカルの不安そうな色に、葛城は自分が長く押し黙っていたことに気づいた。
 唇を舐め、渇いた喉を撫でる。水が欲しいな、と葛城は自販機を横目で見た。
「……そうか。佐為のため、か。いいんじゃないか。要は習い事みたいなことだろう?」
「子ども向けのイベントは棋院でもけっこうやってんだけど、そうじゃなくて……オレから直接出向きたいと思って」
 休憩スペースの前を他部署の社員が足早に横切る。葛城はそこから背を向けて、非常用の階段につながる細いドアを見た。手を伸ばして冷たいガラスを拭う。
「……もしかして、小児病棟でやりたいってことかい?」
「たぶん。オレもよくわかんないんだけど」ヒカルの声音はどこか心許なかったが、そこだけははっきりとしていた。「オレがやりたいことと、できることを見つけたいんだ」
「そうか……何にしても、まずは人数を集めてからのほうがいいんじゃないかな」
「あー、そっか、そうだよな! オレの都合のいいときばっかじゃダメだよな。しまったなあ」
 急に気の抜けたような声が上がり、葛城もまたふっと肩の力を抜いた。壁に背中をつけ、そこから細い夜空を眺めた。
「仲間かあ……久しぶりに、あかりに声かけてみっかな。筒井さんとか、住所変わってないといいけど」
「あれ、今回はアキラくんを誘わないのかい」
 葛城は聞いてから、すでに人数としてカウントしていたかとも思ったが、「えっ、なんで」と答えるヒカルの声は心から不思議そうだった。
「なんでって、きみたち友だちなんだろう?」
 電話口の向こうにぽっかりと空く一瞬の間。
「……ッと、友だち!? ぜんっぜん違うから! あいつとはそんな仲じゃねえよ、うわっ見てよ鳥肌立った! 橘さんこれまでずっとそんな勘違いしてたわけ!?」
 その後もぎゃんぎゃんと騒いだ挙げ句に、恥ずかしくなったのか唐突に電話は切れた。
 前にもこんなことがあったなと考えて、葛城はため息のような笑みをこぼし、そのまま携帯電話を操作して連絡先から目当ての名前を呼び出した。
「……二世先生? 葛城です、先日はありがとうございました。あれからまたちょっと相談に乗ってほしいことができたんですが」
 額を寄せた窓の向こうには、いくら目を凝らしても星は見えず、その代わり丸く太った月だけが空に昇っていた。

墓参りから帰った話・了 1 / 2 / 3 / おまけ