ぼんやりしているね、とよく言われる。真面目に話を聞いているのかと疑われることもままある。これでも
美嗣はしっかりと目を見開いて生活しているつもりだし、注意深く耳をそばだてて気配を窺っているつもだが、それらは他人の目には不完全なものとして映るらしい。
意識のない夢のなかでは、誰しもが等しくそうであるように。
ジョッキが勢いよくテーブルの上に下ろされて、
美嗣はびくりと肩を揺らした。中身の飲み物が周りに少しこぼれている。濡れたテーブルを拭こうと
美嗣があたりを見渡していると、手のひらに軽い感触を得た。見下ろせば、学校の掃除ロッカーに
美嗣が入学する前から放置されているというまだら模様の雑巾が握られてあった。
「おい、俺の酌で酒が飲めないっていうのかァ……ひっく」
しゃくり声を上げながら首まで真っ赤に染めた風間がテーブルに上半身を半ば崩れ落ちさせている。
美嗣を睨みつける目はぼんやりと焦点が合わず、親しい誰かと取り違えているようだった。
「これ、お酒なの?」
美嗣は胡乱にジョッキを眺めて首を傾げた。
「酒だ」
「そうかなあ」
「お前は酒を知らんのか」
「知らないよ、飲んだことないもん」
「何だとォ? 面と向かって俺に嘘をつくとはいい度胸だ……」
呂律の怪しい風間が再びジョッキを持ち上げようとして、案の定バランスを崩してテーブルに倒れた。額をぶつけた痛々しい音がする。横倒しになったジョッキの中身もどんどんこぼれて、あたりはもうほとんど川のようになっていた。
川よりも広く際限のない、この世の果てまで続く純白の大海だ。風間も
美嗣も首まで白く浸かっている。
「おい、酒だ」
「お酒じゃないよ、これは」
そこにあるのは牛乳だった。とろりと冷たく、水面をかき混ぜる
美嗣の指の股をすべっていく。
「見ろ、魚が泳いでいる」
「あれも絶対にお魚じゃないと思うけどなあ」
ふたりで牛乳の波をかき分けていると、向こうからどんぶらと流れくるものがあった。眩しいくらいに白い海のなかにあって、どこからか紛れ込んでしまった異物。牛乳に浸かっていてもまださくさくとした黄金の衣をまとっている豚カツだった。
それをアジフライでも串カツでもなく豚カツだと判じれたのは、風間がそうと認識したからだった。漂流物は豚カツであり、酒と称されるものは牛乳であり、
美嗣は
美嗣でなかった。
風間の目に
美嗣は映らない。風間が豚カツを追いかけて進むうちに、スパイシーな香りがあたりに漂いはじめる。
ふと目を転じると、
美嗣は白い縁のお皿に銀色のスプーンをすべらせて、カツカレーのなかで溺れそうになっている風間をすくい上げているところだった。小さな体が活きのいい魚のようにじたばたと暴れている。
「……えっ、これをぼくが食べるの?」
茶色いルーが飛び散って、服が汚れる、そう思ったときにはもう目が覚めていた。
カーテンの裏に朝の気配が満ちている。牛乳も、広大な海も、カツカレーもない。あるのは見慣れた自分の部屋だけだ。寝転んだまま、
美嗣は無意識に両手を鼻先にまで持ち上げていた。腐った牛乳みたいな雑巾のにおいがまだ忘れられなかった。
美嗣は夢を見ていた。風間の見る夢だ。風間はあれを、いったいどんな夢のつもりで見ていたのだろうかと、
美嗣はいつもながらに不思議に思う。
夢は現実よりもはるかに不自由で、理不尽に満ちている。なぜならそれは、
美嗣のためにある夢想世界ではないからだ。
ベッドの端に腰掛けて、頭越しにテレビ画面を見つめている。もう何十時間とそうしているような気分だった。右に流れ続ける赤い帽子のキャラクターを目で追いかけて、不吉なフォントで縁取られたゲームオーバーの文字にももう見飽きてしまった。
「ぼくもやってみたい」
ぽつんとこぼされた言葉は平然と無視された。
「ぼくもやってみたい」
美嗣にしては珍しくはっきりと口に出された願いは、振り向きもせずに手だけで押し付けられたスナック菓子の袋が答えだった。
「ぼくもやってみた……」
「うっさいわね!」
はっ倒すわよ、と言われる前に
美嗣の体はシーツの上に倒されていた。スレンダーな影が
美嗣に覆いかぶさる。
今日の夢の主人は支配的だ。
香取に馬乗りの姿勢で見下ろされて、
美嗣は冷や汗をかいた。年頃の女の子の部屋に、ふたりきり、ベッドの上、相手の意識は
美嗣に向けられている。シチュエーションは完璧だが、空気は最悪だった。
「こわい」
「はあ?」
「ぼくもやってみたかった」
「下手くそなのに? あんたが簡単に死んでいくところをただ横で見てろってこと?」
「香取さんだって死んだじゃん」
「なに、ぼそぼそして聞こえなかったんだけど」
美嗣はごくんと唾ごと言葉を飲み込んだ。
「……何でもないです」
「つまんないやつ」
部屋にひとつしかないゲームのコントローラーはまだ香取の手のなかにあったが、飽きることなく同じステージを映し出していた大きなテレビはいつの間にか消えていた。どことなくあたりも薄暗く、周囲はベッド以外何もなくなっていた。
これからとんでもないことが起こる、それは
美嗣の経験から考えれば当然の予測だった。
夢を見ている。今まさにどこかのベッドのなかで香取が見ている夢だ。夜になって布団を被り、朝を告げる曙光や街の生活音や、母親の起こす声で目を覚ますまでの、長い空白の時間を埋めるためだけにあるもの。
夢とは得てして不条理の連続でもあった。美術の授業で初めてマグリットの絵を見たとき、
美嗣は危うく気を失いかけたことがある。毎夜の夢の世界がそこにあったからだ。現実と虚構の重なりに目がくらみ、夢のなかだけでももう手いっぱいなのに、現実にまで奇妙な現象に侵され始めた日には正気を保っていられる自信が持てなかった。
美嗣の体は這々の体でどうにか香取の拘束から逃れていたが、想像以上にひどい夢が目の前に迫っていた。
ベッドから転がり落ちた
美嗣を見つめて、シーツの上で胡座をかいた香取が唇をぺろりと舐めた。コントローラーがその手のなかで握り直される。
そして次の瞬間から、
美嗣は自身の体の制御権を失った。
「ふーん、ちゃんと動くんだ」
「う、わ……」
香取がコントローラーのスティックを右に倒した。指先ひとつ、だが、もたらされる効果は甚大だ。
美嗣の体が連動するように不自然な体勢で右へ動き、息をつく間もなく左へ動く。
内臓の潰れたような不快さが喉もとに迫り上がる。それはあくまで感覚の上で、実際に吐いてすっきりすることはできないが、それ故にいつまでも違和感が貼り付いて長く残った。
美嗣が不測の事態にあえぐ合間にも香取の目は嗜虐心に輝いている。右のボタンを押すと上にジャンプして、別のボタンで下に屈む。
美嗣の意思などお構いなしに、まるで見えないコードが背中に刺さっているかのように、
美嗣の体は香取の意のままに操られていた。
「や、やだ……これ、やだ…!」
「うわ、走るの遅い。あんた運動神経ないのね」
「やめて!」
美嗣の切迫した叫び声に、コントローラーを持つ香取の手がぴくりと止まった。一瞬だけ呆然とした顔を見せ、それから憎らしげに
美嗣を睨みつける。まったく理不尽極まりない。
香取はしっかりとコントローラーを握りしめたまま、
美嗣に向かって一歩一歩近づいていった。まるで
美嗣がちゃんとそこにいて、自らの意思で抜け出せないのを確かめるかのように。まだ今なら走って逃げても許されるだろうかと、ちらりと考えたその頭の横に両手をつかれる。
気づけば壁際まで追い込まれていた。何の壁際かはわからない。夢はいつだって唐突で、
美嗣の存在なんて誰も気に留めない。
ごく近くでふたりの目が交わった。暗闇のなかで彼女の目だけが光っている。美嗣の目は、彼女からどのうように見えたのだろうか。
「……あーあ、これが烏丸くんだったらよかったのに」
別人の名前を呼ぶ声はひそやかで、まるで香取自身がまったく別人に入れ替わったかのようだ。急に現れた知っている人物の名前に
美嗣は少しだけ動揺し、少しだけ落ち込んだ。
どれだけひどい目に遭わされていようとも、お互いに恋愛感情を抱いていなくとも、年上の女の子に顔の近くまで身を寄せられる、それだけでときめきを覚えない思春期の男の子なんていなかった。たとえたった一夜の幻だとしても。
美嗣は自分の部屋で目が覚めて、ちょっとだけ泣いた。
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