迅の持つサイドエフェクトのことはボーダーの正隊員の間では有名な話だ。未来が見える、その能力を周囲は切実な思いで、あるいは半ば面白がって求めている。未だ来ない先にあるものを各々の理由によって求めている。
それは正当な欲求だ。迅も今さら否定したりはしない。一寸先にある暗闇、無数に別れる選択肢の果てしない可能性を人間は常に模索するものだから。そもそも予知能力をもっとも効率よく使い潰しているのは他ならぬ迅本人でもあった。
しかし
美嗣は違った。迅がこれまでまったく想像だにしなかった理由によって、他人とはまったく異なる理由によって、彼は近い将来の無意味な幻を求めている。
それは必ずしも正確な表現ではないだろう。
美嗣が迅のサイドエフェクトに求めているものは、確実な未来像への安心感でも、可能性のわずかに残るかすかな希望の穂でもない。どちらも
美嗣にとってはささいな問題に過ぎず、彼ほど自然体で未来を選び取っている人間を迅はほかに知らなかった。
美嗣が求めているものは、未来ではない、すでに選び終わった過去についてだ。彼が布団に入るたびに見る夢を、それが誰とも共有されることのない、現実に反映されない夢であることを確かめるために迅のもとを訪れる。
いくつもの夜を越えた今であれば、誰かの妄想を具現化したペンキの塗りたくられた世界など、現実の正当性を前にすれば取るに足らない怪異に過ぎないとはっきり言えた。
暗闇で目を閉じて、脳だけがさまよう夢の世界。それがまともな夢であればあるほど、狂気の内在しない夢であればあるほど、ふたつの世界の境界は曖昧ににじみ出す。
美嗣はほかの人間のように朝起きて夢の内容をおぼろに抜けていくことはなかったが、一般的な脳の記憶力と同程度の時間の経過で夢と現実が混濁する。
夢で知り得たことと、現実で
美嗣に期待される知識の範囲。その誤差に、これまで何度も手酷い目に合ってきたという。
迅はその失敗に手を貸してしまった共犯者でもあった。
揃いの白い隊服姿の若者たちが、背筋に緊張や期待を宿しながら始まりの合図を待っている。ボーダーの試験に合格し、いよいよ訓練生となるこの日に懸ける熱気に見ているばかりのこちらのサングラスが曇りそうなほどだった。
「入隊式前の忙しい時間に呼び出して悪い」
二階席の手すりにもたれかかりながら迅は隣に並んだ嵐山にそう断った。「どうしてもおまえに確認してもらいたいやつがいたからさ」
嵐山は手に持つバインダーで気さくに迅の背中を叩いた。
「準備のことは気にしないでくれ。もう来ているのか?」
「ああ。奥の壁際、今後ろの扉が開いて避け損なったどじっ子少年がそう」
職員の出入りに気づかなかった
美嗣が、ちょうど段ボール箱を積んだ荷台に踵をぶつけて蹲っている。職員は慌てて謝っているが、すでにトリガー体に換装しているはずだから生身のような痛みはないはずだ。むしろ意味のない衝撃や痛みに対してあの場にいる誰よりも慣れきっており、周囲へのイニシアチブを取れる状況であったにも関わらず、どんくさいという印象のみを同期たちに植え付けていた。
嵐山は手もとの資料から
美嗣の名前を探し出した。
「うん、トリオンは申し分ないほどあるな。個人ポイントの加算はなしか。迅から申請しなかったのか?」
「いや、あいつの実力を考慮した上で1000からのスタートだ。おまえが登壇したあともしっかりやらかしてくれるよ」
「……元気な子なんだな?」
「というよりも、生きるために消費活動を抑えてるって感じだな。まだ憶測でしかないけど」
「消費活動?」
嵐山が不思議そうな顔で迅を見た。
そこに
美嗣と犬を散歩させる未来はまだ見えていなかった。そこにあるのはまだ、
美嗣が誤って銃手の引率の列について行きかけ、名指しで嵐山から引き止められている未来があるだけだった。
しかし迅が会場に目を転じると、
美嗣の未来がはっきりと見える。嵐山の飼い犬が親密そうに
美嗣の頬を舐め、お返しに
美嗣がふさふさした首周りに鼻先を埋めている。
迅によって人為的に作り出された両者の接点は、それでもなお片方にのみ表出していた。
「彼に、何かあるんだな。俺が関与していることなのか」
「うーん、そのはずなんだけど、どうもこの間から
美嗣についての予知は外しまくっているんだよな」
迅は気楽に言ってのけたが、それはボーダーの体制を根本的に揺り動かす重大な事態だった。迅の予知が機能していない、その事実は速やかに上層部と共有すべき案件だ。
だが迅は、
美嗣に関連する事柄をまだ誰にも打ち明けていなかった。「そんなこともあるのか」と気負いなく迅のサイドエフェクトの不調を受け入れる嵐山だからこそこの場に呼び寄せていた。
このときの迅はまだ、
美嗣の見る夢の体質についてはっきりとは把握していなかった。消滅したペンキ塗りの可能性や、嵐山との関係、そして何よりも重要な、迅の少年時代とそっくりの子どもについて彼から聞き出すことをあれこれと試みてはいたが、これといった確かな手応えは得られていなかった。
あの頭の回転の鈍い
美嗣が、それは毎晩自分の見る夢のことだと素直に迅に伝えていなかった点は、特に不思議なことではない。会話の流れや相手の暗黙の要求に疎いということも理由として挙げられたが、何よりもまず、
美嗣自身が夢の世界を現実に持ち出すことに臆病なほどの恐怖を覚えていたからだった。
「おまえを見れば何かわかるかと思ってたんだけど、しょうがない。もう少し地道に原因を探ってみることにするよ」
「そうか、何かあればまた言ってくれ。俺でよければいつでも協力を惜しまないから」
嵐山が爽やかにほほ笑んだ。その姿が遠目にも目立つのか、階下で少しずつこちらを見上げる顔が増えている。
迅はサングラスを額の上に押し上げながら、頼もしい友人の去りゆく背中を肩の力の抜けた思いで見送り、瞬く。一度、二度。
そして一挙に不安が喉もとにまで迫り上がった。
いつの間にか未来が動いていた。それほど遠くない未来のなかで、あれほど仲良くしていた嵐山家の飼い犬に腕を噛まれている
美嗣の姿が、嵐山の背中越しに見えてしまっていた。
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