夢を見る。それは迅の夢ではない。迅にとって馴染みのある、美嗣という他者を介して見る未来のなかで、そうとは知らずに夢の世界を旅していた。
 美嗣が床に広がる思い出のかけらを指差して尋ねた。
「あれは何?」
「ボスのカエルだよ」
 幼い迅が答える。
「カエルならボスにだって釣れるかも」
「そう……、なのかな? カエルって簡単に釣れるものなの? まあいっか、じゃあ、あっちのぴかぴかしてるのは何だろう」
「城戸さんの新しい車。斬られたからおれが新品のやつをあげるんだ」
 美嗣がぱちりと目を瞬く。
「……えっ、斬られた?」
 戸惑う夢の相手を置き去りに、迅が色とりどりの折り紙の草原から白いチューリップを摘み取り、邪気なく笑った。
 笑う顔を迅は茫然と見つめていた。
「これは母さんに。おれを忘れてほしくないから」

 願いは閉ざされているからこそ流露する。知られていないからこそ解き放たれる。
 移ろう曖昧な境界線は容易くふたりの人間を飲み込み、咀嚼し、現実へと吐き出した。ふたりだけにある誤差の生じた現実へと。
 それが夢であること。それが現実には起こらないこと。確かめる手段がこの世に存在する覚めない希望を、彼らは夜を跨ぐごとに握りしめていた。

 朝の静けさのなかに軽快な着信音が鳴り響く。美嗣は目を閉じたまま手探りで枕元の携帯電話をつかんだ。
「迅さん?」
 発信者の名前は確かめずとも予感があった。美嗣を現実へ呼び起こしてくれるのは、このところいつも迅の役割だった。目覚まし時計よりも正確なモーニング・コールの電子音。
 まるで何かを待ち望んでいるみたいだと思う。
「おはよう、美嗣
 本物の人間の声が手のひらのなかから返ってくる。誰かにとって都合の良い、その場限りのものではない本物の声が聞こえてくる。それがどんな音の連なりであるのか記憶に留めていようと、美嗣は目を閉じたままじっと耳を傾けた。
「窓の外が見えるか? カーテンを開けてみろ、夢の時間はもう閉じた。これからはおまえが生きていく時間帯だ……、美嗣? こら、また寝るなよ」
 笑いをはらんだ声がささやく。起きてるよ、と美嗣は応えたかったが、喉をきちんとふるわせられたかどうか自信がない。
 迅の言う、閉じた夢の感触が、鼻先をかすめたにおいの残滓が、網膜にこびりついて離れない剥き出しの感情が、朝日に紛れて泡沫のように消えることはない。夢の世界は美嗣をどこまでも追いかけている。
「……迅さん」
「どうした、怖い夢でも見たか?」
 まぶたの裏に今でも鮮烈に張り付く夢幻の光景。自分はあれを怖がったのだろうか、恐ろしいと感じたのだろうかと、美嗣は他人事のように考えた。
 きっとそうではない。夢の延長線上に漂う美嗣の体を、後ろからそっと押し出す小さな手があった。どこへも迷わず、誰をも傷つけず、何をも恐れない小さな手が。
「ううん。……たぶん、しあわせな夢を見た気がする」
 朝を導く声によって飽和する空気に溶けていく。これはなんと自分にとって都合の良い現実だろうかと、耳の奥でこだまする幼い笑い声をそっと払いながら、美嗣はベッドのなかでゆっくりと目を覚ました。
 青い空の下を紙吹雪と見間違うような季節外れの粉雪が舞い落ちていた。それが夢か現実か、美嗣にはもう区別のつけようがない。

暁に褪せる泡沫・了 1 / 2 / 3 / 4 / 5