夢には秩序がない。理論がない。そこには筋道だったストーリーや意味は存在せず、感情と情動だけが降り積もっている。だから
美嗣にとって刹那的な夢の世界は根源的でわかりやすいものだと言えたし、本能のままに振る舞う人間の限りない欲望を恐ろしいとも感じていた。
かといって、夢の世界に比べて現実のそれが生やさしいわけではまったくない。
美嗣ならではの生きづらさがそこかしこに蔓延っていた。
ボーダー本部の廊下で、向こうから気だるそうに歩いてきた香取を見つけたとき、
美嗣はびくりとふるえる体を隠すことができなかった。臓器の揺さぶられた感触は未だに生々しく体内に残っていた。
自分を見てあからさまに怯えたC級隊員に、香取の顔が歪んだ。その後ろを歩いていた三浦が彼女を庇うように早足で前に出て、隣に並ぶ染井が「葉子、あなた何したの」と静かに自供を促すが、それらは見当違いの考えに過ぎない。
たとえ夢のなかで怪我をしても、誰もが羨む億万長者になれたとしても、虚構の成果物は現実世界にまでずかずかと乗り込んではこない。ひとたび夢から覚めてしまえば、あとはもう朝の日差しに溶けていく。ぼんやりとまぶたを持ち上げ、何か奇妙な夢を見たと感じ入る、それだけのものにすぎない。
香取は何も覚えていない。だから染井の言葉も三浦の行動も、不快な態度を取るC級隊員へ鋭い一瞥をくれる若村の苛立ちも、すべては現実の
美嗣ただひとりが軽率に引き起こした無意味な揉め事の萌芽でしかない。
まるで水と温度の関係のように思う。冷え込む夜を迎えると空気中の水蒸気は水となって人間の目に捉えられるが、日中の気温上昇とともに弾けて霧散してしまう。そこに確かにあるはずなのに、冷たい夜を知る
美嗣の目には映るのに、誰もそれに触れて確かめようともしない。まるで触れる手段を知らないみたいに。
美嗣は今回もまた、裏切られた気持ちと簡単に期待する愚かな自分にひそかに傷つけられながら、うなだれ、できるだけ目と耳を心の手で塞ぎ、彼らとすれ違う瞬間を黙ってやり過ごした。
「
美嗣」
消沈する
美嗣に声がかかったのは、後ろで無罪を主張する香取の声がまだ聞こえる範囲でのことだった。
「前に、京介に礼を言いたいって言ってたろ。ここで待ってたら会えるぞ」
迅が廊下の床を指差しながら立っていた。その言葉にまっさきに反応したのはぼんやり者の
美嗣ではもちろんなかった。
去ろうとしていたはずの香取の背中がぴたりと止まった。
「うお、急に止まるなよ、危ねえな」
「ヨーコちゃん、ランク戦に遅れるよ?」
乱れた足音にまぎれて聞こえた「……葉子?」というチームメイトの圧力に折れた香取が、振り向きざまに
美嗣のいる場所を名残惜しそうに眺めてから、彼らは立ち去っていった。
美嗣はほっと息をついた。
「今の、どれだ?」
「香取さん。昨日夢に見たばかり……でも話したこともないよ」
「可能性が高いのは京介関連だな」
多忙を極めるはずの迅は、たまにこうして無意味な夢の法則性を確かめようとする。夢の相手を推論し、
美嗣との関係性を解きほぐし、いつ、どんなときに夢を見るのか情報を蓄積する。いまだサイドエフェクトとも胸を張って呼べないこの体質に迷惑を被っている本人よりも、よほど熱心に取り組んでいるかもしれない。
廊下で並んで壁にもたれて、ほんとうに烏丸は来るのだろうかと少しわくわくした。
美嗣は迅の未来視によく頼って生活しているが、実際に予知された出来事としてその通りに進む現実を見るのははじめてだった。
「香取さんのあれって、そこまで秘密のことじゃなかったんだね。ちょっと気が楽になったかも」
美嗣が香取を見て怯えたのは、制御権を失った体への恐怖がよみがえっただけではない。それも八割方あったのだが、残りの二割は誰にも言えない秘密を抱えてしまったのではとの尻込みからだった。中学生の
美嗣から見ても、香取隊の恋愛事情は複雑そうに思えた。
夢のなかでは、誰もが欲望に忠実となる。ときには自制心を働かせることもあるが、それもまた心の強い人間でありたいとする欲望の現れだ。夢のなかで何かをする、その行動ひとつとっても人間の内面に隠された本性の再現としては十二分に
美嗣を圧倒した。
香取は
美嗣に三つの自分を示してみせた。露悪的に振る舞うことに対する他者からの許容と、それを否定してほしいという願望、そして愛する相手への慕情だ。
だが三つ目は、すでに詳らかにされているものだったらしい。
「香取さんの好きなひとのこと、迅さんも知ってるんだね」
迅は苦笑をこぼした。
「あれだけわかりやすいとな。夢で恋バナでもしたか?」
「まさか、すごく怖かったんだよ……でもちょっと、ぼくには過激だったかも」
美嗣はごく近くにあった女の子の体を思い出して顔を赤らめさせ、迅から生あたたかい眼差しを受けた。
「昨日京介と話している間、近くに香取はいたか?」
「わかんない。いなかった気がするけど、ぼくが気づいてなかっただけかも」
「あそこはひとの出入りが激しいからな、おまえがブースに入っている間のことならしょうがない」
「夢の相手が香取さんでまだよかったよ」
美嗣はため息とともに本音をこぼした。昨日、
美嗣はボーダー本部で同じC級隊員たちに絡まれていた。それだけならよくあることだが、今回は相手も暇だったのか、個人戦の連戦を立て続けに仕組まれた。複数人に対してこちらはひとり。最後の相手とやる頃にはくたくたになっていたし、相手も
美嗣の体たらくぶりを眺めているうちに飽きがきているようだった。そこに烏丸がたまたま通りかかり、大型ディスプレイに表示される一方的な戦闘記録を不審に思って声をかけ、
美嗣が気づいた頃にはなぜか烏丸による実技指導がはじまっていた。これには
美嗣に絡んできていた彼らも大喜びで、
美嗣のことなどすっかり忘れ去られて熱心な烏丸の弟子入り志願者組の長い列に加わっていた。
今さらいうまでもなく、
美嗣は戦闘行為がとてつもなく苦手だ。トリオン体に切り替わったところで日頃の注意散漫な性格が簡単に治るわけがなく、
美嗣が一生懸命目の前のことに取り組んでいる間に周囲は倍の速度で成長していく。
美嗣はことの次第を飲み込めないまま、恩人である烏丸に師事することも思いつかず、ロビーの隅っこで彼らの楽しそうな様子をぽかんと眺めていた。
迅から所有する個人ポイントを尋ねられ、
美嗣は手の甲を差し出した。そこにはまだ2000を優に切った数字が刻印されている。
「かなり巻き上げられたな。これだけやればコツはつかめたんじゃないか?」
わかっていながら迅が聞いてくる。
「まだ他の部門のほうが適正あるんじゃないかなあ」
「
美嗣がオペレーターやれる自信があるんだったら推薦するけど」
「そんなのこれっぽっちもないよ。レーダーと数字だけを見てみんなよく的確に判断できるなあって思ってる」
まったく勘所を押さえていないオペレーター業務の感想に迅が笑い、
美嗣の頭をぽんと叩いた。
「おまえは焦って正隊員になる必要はないんだからさ、学校の部活に参加してる気分でぼちぼちやってきな」
廊下の角から烏丸が現れ、迅がその手をひょいと上げた。
美嗣に隠れてこっそり待ち合わせをしていたわけではない証拠に、烏丸が驚いた顔をしている。
その烏丸の表情の変化はささいなものだったが、
美嗣には充分認識できていた。戦闘技術だけでなく観察眼にも乏しいが、よく知っている相手についてはさすがに気づくところがある。
烏丸は
美嗣の夢の世界の常連だった。
「ああ、昨日の」
烏丸が素知らぬ顔で
美嗣を見る。昨日の助けが偶然のことなのか、日頃から迅の頼みでさりげなく見張っていた賜物なのか、込み入った事情までは
美嗣にはわからない。
だが烏丸もまたこれまで出会ってきた人々と同じだということだけは、
美嗣にとって間違いようもない真実だった。夢で何度も顔を合わせ、ときには実の弟のように扱っていることすらすっかり忘れられてしまっている現実に違いはなかった。
迅のような人間が現れることは滅多にない。いかにボーダーが特別な機関だと世間で噂されていようとも、夢の世界を現実でも共有しようとする奇特な人間はそういない。
烏丸はまるで初対面みたいな顔つきで、「やっと俺に紹介してくれるんですね」と言った。そこに悪意はかけらもなかった。
覚えているだろうかと期待して失敗する、その積み重ねを経て
美嗣はようやくのこと生きてきた。本物の香取に会うことも、あるいは遠目にその姿を垣間見たことしかない風間とすれ違うことですら、
美嗣にとっては恐ろしい。
夢で兄と慕う相手のそっけない態度に
美嗣は目を伏せた。もう治ったはずの噛み跡が袖の下でじくりと痛んだ気がした。
1 / 2 / 3 / 4 / 5