右足が動かなくなったときのことをよく覚えている。
テレビに映るバラエティ番組のひな壇が急にどこかの報道スタジオに切り替わって、それもまたすぐに別の場所へと切り替わった。芸人のお決まりのコントへの母親の半笑いの顔がまだリビングには残っているのに、隣の家で上がる明るい笑い声ですらまだ聞こえているのに、テレビの中では崩壊する日本の街の様子が克明に中継されていた。ふるえる記者の声にやがてふたつのサイレンの音が重なり、それが救急車と消防車であることに気付いたのは実際に街の様子をこの目で確かめたときのことだった。
この非常事態に鉄道は途中で止まっていたはずだから、どうやってそこまでたどり着いたのか今となっては思い出せない。ただ自分とは反対を行く道、三門市を脱出する道路ばかりが渋滞を起こしてクラクションと怒号が鳴り響き、誰かのすすり泣く声がしていた。
そのとき、自分も怒っていたのだろうか、泣いていたのだろうか。いったい地球上のどこに隠れていたのか、頑丈な鱗で覆われた巨大な生命体が家や電柱をおもちゃのように薙ぎ倒して、瓦礫と化すばかりの背後には気にも留めないままにまた新しいおもちゃを探し回って整然とした街並みを破壊する姿に。
たぶん、笑っていたのだと思う。火災のために出動したはずの放水車が立ち上る火の手ではなく消防士自身の身に迫る危険のためにでたらめに放出される水圧に、少しもたじろぐ様子もなく前進する姿を見て。
頭の中は冷たく静かで、家を飛び出す前に掴んだランドセルから、学校の清掃活動用に入れられていた軍手を取り出していた。その間にも足は勝手にステップを踏んでいて、背面からその巨大なトカゲの鱗のような体を駆け上る。放水車と接触する直前にだらしなく空いた口の中へ練り消しで重心を調整した鉛筆をぱらぱらと投下すれば、大した被害を与えられたはずもないのに気をひくには十分で、その生き物は目の前で腰の抜けた大人よりも頭の上で飛び跳ねる子どもに照準を移したようだった。
体を恐ろしく愚鈍に振り回して目障りな虫を追い払おうとするが、すでにこの場所を拠点にすると決めていた。高く開けた視界から破壊される三門市を見渡して、やはり心から笑っていたのだろう。
自我が芽生える前から見ていた光景に瓜二つで、それが夢ではないとようやく確信を得られたから。鉄筋コンクリートも上空を旋回するヘリコプターの影もその景色の中には何ひとつとして存在しなかったが、巨大な手のひらが無辜の民を容易く払い除ける無慈悲なありさまにはよく覚えがあった。
それが何かは知らない。その思い出も、沸騰する体温も、死の手触りも、生まれたときからそこにあり、死ぬまで体の外側に溢れないのだと思っていた。自分ではない誰かが笑って、愛をささやき、泣き叫ぶ。そして別の何かを、人間の形をした何かをためらいもなく殺す。
鋭い脚を持つ新たな生命体が地面を這うようにトカゲもどきの周りに集まり始めたのを見て、手のひらを定規でぱしんと打ち鳴らした。ちょうど良さそうな得物が見つかって、目下の方向性は定まった。この脆弱な体でどこまで戦えるのか、早く確かめたくてたまらなかった。
体が鋼鉄のように硬くとも、アスファルトの上を這い回る必要のある限りにおいて接地する瞬間の関節は柔らかく脆かった。実際に脚をもぎ取る苦労は並大抵ではなかったが、手に入れてしまえばそこから詳述するまでもない。横倒しの電柱から垂れた電線をトカゲもどきの手綱にしようとして頓挫し、体表の摩擦で簡単に切れてしまった失敗はあれど、街を闊歩する生命体の動きに個体差はなく、一度覚えてしまえば見切るのは簡単だった。
問題は相手にではなくどこまでも自分の体にあった。はじめに懸念した通り、激しい運動の連続に喉を通る空気が口笛を吹き始め、生命体の脚を握る軍手はとっくに擦り切れて白い骨が見えていた。
それでも体は動いていた。どうすれば損傷する体の被害を最小限に抑えられ、どうすれば甚大な被害を相手にもたらせるのか、試行錯誤した段階から体は覚えていた。身体能力に天地の差はあれど、基本的な肉体構造に変わりはない。小さな頃からなぞるように頭の中で体を動かして、現実の体で思うように動かせず生傷をこしらえたまま泣いた日々はさほど昔のことではない。そのときにはまさか、こうして現実の脅威に迫られるとは思ってもいなかったが。
喉が裂けるような感覚が走って、逆らわずに地面へ唾を吐いた。熱いものを飲み下したような火傷が体内をひりつかせたが、実際には鮮血の固まりが口から飛び出ていた。肉体は最後の悲鳴を上げていたが、街への蹂躙は一向に収まる気配もなく、いつだかに墜落したヘリコプター以来の静かな空には星が瞬いていた。地上の星は小火と生命体が発出する直線的な光ばかりで、それを人工的な明かりと言って良いものかどうかは悩ましい。
すっかり動かなくなったトカゲもどきの背中を滑り降りて、勢いのままに生命体の口内に同胞の鋭い脚を差し入れる。大した力を使わずとも活動を停止させられたが、抜き取る暇もなく背後に転がって頭を庇う。刹那の間に閃光が虚空を貫く。地面との隙間を通り抜けざまに生命体の後部を掴んで体を持ち上げ、大量に群がるその背面を足場に走り抜けた。道路には瓦礫が散乱し、アスファルトの下地は剥き出しで、むしろ未知の生命体の上でタップダンスを踊る方が安全とも言えるほど粉塵が舞っていた。背中いっぱいに刺さった金属片の痛みはもはや感覚を麻痺させるだけで、ランドセルはとっくに囮として使い果たしていた。
理想には程遠かったが、体は動いている。まだ動ける。もっと早く、強く、正確に。
四方から飛び交う攻撃を避け、跳ね、気まぐれに同士討ちを狙う。それは頭で思い描くよりもよほど困難だったが、少しずつ誤差は減っていた。
どうすればもっと理想に近づけるのか、思考はずっと走り続けている。もしかすると体よりもずっと早く走っていたのかもしれない。
だから右足で生命体の頭を蹴り上げたとき、周囲の他の生命体の動きは完璧に把握できていて、態勢にも無理がないはずだった。
はじめに、靴紐が切れたのかと思った。足首から凄まじい音がして、しかし何かに触れた感覚もなく、空中で夜空を背景に自分の足を見上げて、目を見開く。冷たい空気に素足が泳ぐ。お気に入りのスニーカーは靴下と一緒に随分と早い段階で脱いでいたと、そこまで記憶を辿って急に疲労が重力に引っ張られるようにして体に襲いかかった。
閃光が視界いっぱいを走って、これは死んだかもしれないと思った。
「やっと見えた……!」
人間の形をした新しい生命体がひと振りであたり一帯を殲滅し、今までの非効率的な自分の動きにちょっとした動揺を受けて、それが最後だった。
記憶が途切れる寸前に見た新種の生命体の瞳は無感動で、喜びも悲しみもそこにはなかった。
1 / 2 / 3 / 4 / 5