久下陸は見慣れない高校の校舎を上階から順に眺めながら地上へと目線を下ろして、最後に校庭に渦巻く悲喜交々を眺めた。
親子で顔を見合わせて、抱きついたり慰められたり、友人同士で首を伸ばして、自分の番号だけを見つけて気まずくなったり。掲示板の前の冬の風物詩の中にあって、母親の横顔だけは異質だった。我が子の合格を示す番号が張り出されているにも関わらず、強張った表情を隠し通せていなかった。
「母さん」
陸の呼びかけに母親はふっとこの世に焦点があったようだった。
「トイレ行ってくる」
「あら、それなら私も……」
「いいよ、春からひとりで生活するんだから」
また揺れ始めた瞳から目を逸らして、
陸は一歩ずつ校舎へと近づいた。杖を打つ音が人間の声に混じって、遠巻きに気配が流れていく。周りの視線ばかりが右足を突き刺して、それも校舎裏の陰に遮られると糸が切れるように途絶えた。
フェンスにもたれて息をつく。すくそばの道路を自動車が走り去り、横断歩道でもない場所を老人がよろよろと渡りきる。まるで何事もなかったかのような日常が三門市の上空に横たわり、大した理由もなく人間が死にかけている。クラクションは挨拶のために鳴らされて、新しいサイレンの音は誰の注意も引きつけない。
「おーいお前ら、前見て走れ! ぶつかって泣いてる未来がおれには見えてるよ」
すぐそばの金網に指が絡む。走り抜けた遠くの方から「泣かないよーだ!」と叫んで笑う子どもたちの声がして、すぐに誰かが蹴つまずいて泣き出した。近くを通りかかった女性が驚いて、彼らにハンカチを差し出している。
その様子を見ていた
陸は思いつくままの言葉を口にした。
「ほんとうに泣くはずだったのは、あのひとの家族?」
陸の横に立つ迅はもう道路に背を向けていた。フェンスに寄りかかってぼんやりと目をつむっている。
「誰も不幸せにならなくて良かったね」
「……そうやって、お前はすぐに先回りするからさあ」
だからなんだと言うのだろうか。続きがなかなか始まらないので、
陸は勝手に話題を変えた。
「ここで迅に会えると思ったんだ。おれ、合格したよ」
「……うん、たくさん勉強してたな」
「死ぬかと思った。ここから煙出そう」
陸が耳の穴に指を差し入れると、迅がようやく目を開けて笑った。
「ま、残念ながら卒業するまで勉強漬けの毎日が待ってるから、覚悟しておきな」
「そうなの? いやな未来予知するね」
「
陸の脳みそが足らないから仕方ない」
「辛辣」
軽く笑って、ふと会話が途切れる。校舎を見上げる迅と誰かの視線が交わって、開いた窓から迅の名前が呼ばれていた。迅は手だけを振ってそこから動く様子を少しも見せない。廊下の人影も空気を察してすぐに離れていった。
「今の、
陸のボーダーの先輩にあたるから」
「ふうん」
「もっと興味持って」
「強いの?」
「いや、オペレーターはね、戦わない職種もありますから。みんなお前みたいに戦闘狂ばかりじゃないよ」
「また辛辣」
雑に会話を終わらせて、
陸は杖で地面に落書きを始めた。前に見た生命体を記憶の中から取り出して、どうしても実像と結びつかずに首を捻った。
「……もしかしてそれさ、バムスターか?」
「そんな名前だっけ」
生命体の総称がトリオン兵だと言うことは、三門市内で目覚めてから教えてもらっていた。もう三年以上も前になる。その間にもテレビのCMや報道特集などの背景にちらりと映っていたはずだが、家族がすぐにチャンネルを変えてしまうのであまりよく覚えていない。
迅が
陸の杖に横から手をかける。
「もっとこうだって。ほら、腹部が下に膨らんで……耳の形もこの方が近くないか」
「あれって耳なの? おれの記憶となんか違和感ある」
「おれの方が
陸よりたくさん見てるからな。むしろ今も見ちゃってるから」
「それずるくない?」
「ずるくない」
母親よりも焦点の合った視線で
陸を捉えるのに、同じだけ彼方の次元を見つめている。
未来が見える、と迅は言った。疲れきった目で
陸を見て、お前の未来が見えるのだと。
だから
陸は片足が不随になった。
「母さんが、六頴館に受かったらボーダー入っても良いって。おれは親不孝者なのかな」
地面の落書きが、まるで模写したように精緻なものへと上書きされていく。
「おれがここに来るまでに見たもうひとつの未来ではさ」
杖が
陸の手を離れていつの間にか魔法の杖に変わっていた。迅がバムスターの隣にもうひとつ見覚えのあるトリオン兵の輪郭をなぞっていく。
「
陸が俺を探しにひとり三門市を歩き回って、それでボーダー入隊は取り消しになる。お母さんは泣いていたよ」
「何それ最悪」
「でもありそうだろ」
「うん。入試のときには見て回れなかったから、復興した三門市ってやつ。今も気になってるけど、未来のおれがここで迅に会いたくて自分の未来を阻止したのかも」
「それはアクロバティックすぎるな」
そもそもここには片手で数えるほどしか来ていない。多くの日本人がそうであるように、三門市の存在を知ったのはあのテレビ中継でのことだった。はじめて現実に現れたトリオン兵に興奮して家を飛び出し、そのまま一週間近く行方不明になった小学生の息子に対して困惑を覚えない親はいない。ましてや大怪我を負った忌まわしい土地に進んで近づけようと思う人間でもなかった。
陸にとって、あるいはボーダーと言う組織にとっても、
陸の両親は幸か不幸かまともな神経の持ち主たちだった。
「父さん、レイジさんとはたまに会ってたみたいだけど。あと誰だっけ、もうひとりおじさんがいた」
「あー、ボスのことかな。林藤支部長ね。あとあと
陸の上司になるから覚えておこう」
「ふうん」
「自分のことにももっと興味持とうな……。ってこれほんとうはおれが言う役回りじゃないんだけど、でもなあ、あのひと少し……かなり、不安があるからなあ」
迅が遠い目をしたが、別に未来を見ているわけではないようだった。
未来を見る迅の目は、あのときのように疲れてはいなかった。それが疲れを隠すすべを覚えたからなのかどうか、
陸にはわからない。
未来が見える、と迅は言った。
「お前が見える未来をずっと探していた」
目覚めてすぐに、
陸はそばで座り込んでいた見知らぬ少女に泣きつかれた。やがて彼女が寝入った頃に、
陸が新種の生命体だと思っていた人間が現れて、自分は未来が見えるのだとのたまった。やはり新種のもので間違いないようにも思えたが、
陸は自分の体中に巻かれた包帯を見て、特に感覚のない右足を見てから、迅を見上げた。迅は疲れきった目で
陸を、ここにはいない
陸を見ていた。
「みらい……」
それは不思議な言葉だった。過去も、現在も、未来も、まだ若い
久下陸にとって区分けするべきほどのものではない。未来はいつでも現在になり、過去になり、また未来になる。少なくとも
陸の頭の中では。
「お前は自分が戦う未来と、戦わない未来。どっちがマシに見える?」
「おれには何も見えないよ」
「うん。代わりにおれが見るから気にしないで」
不思議な言葉に、不思議な問答だった。迅は
陸に聞いておきながらほとんど答えを決めているようでもあった。
陸の答えもはじめから決まっている。
包帯の下の四肢も内蔵も背骨も、あるいは
陸の意識下にない神経すべてがとてつもない痛みを我先にと主張し合っていたが、
陸はそれらすべてを無視して言った。
「戦うよ。何と戦うか知らないけど、戦える未来があるならおれはそれが欲しい」
「……右足が、動かなくなったとしても?」
陸は笑った。そんなことが聞きたくて尻込みしていたのかと、迅を笑い飛ばしていた。
「いいよ、そんなこと。足がなくても戦えるってことなら、おれはそっちを選びたい。その代わりにさっきの、おれが倒れる前にばっさりやっつけてたあの戦い方を教えてよ」
疲れた目をした迅の顔を覗き込み、
陸はもうひとつのことをついでのように聞いてみた。右足を自由に動かせるかもしれない未来については、もう欠けらも思いを寄せてはいなかった。
「未来が……未来が見えるなら過去も見えることってある? それともあれは、未来の記憶になるのかな。もしあれがおれの未来でも過去でもないとしたら、それは誰の人生になる?」
会話の途中から半覚醒していた少女が叫び出して、
陸のまとまりのない質問に対する答えをその場で得ることは叶わなかった。それがもしかするとサイドエフェクトと名のつくものであるかもしれないと知ったのは、ボーダーに入隊してからだ。
陸の頭の中にだけ存在するはずの記憶が、ボーダー内部で具体的にどのような名称を与えられ、どのような型に分類されたのかを
陸は知らない。
のちに第一次近界民侵攻と呼ばれるその間に失われた命の数を、行方知れずとなった命の数を、
陸は正しく数えていない。あのとき
陸が三門市まで辿り着くことのできなかった、もう失われた未来よりもその数が多いのか少ないのか、
陸の無鉄砲な力試しによって救われた命があったかもしれないし、
陸の持つトリオンに引き寄せられたトリオン兵によって轢き殺された命があったかもしれないが、それらはどこまでも
陸の知るところではなかった。
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