男の顔、女の顔、歪んだ鏡に映る自分の顔。迅の未来視は複数の分岐した可能性を提示すると言うが、の頭の中には常にたったひとつの未来、たったひとつの過去、たったひとつの現在だけが存在する。その虚像が揺れることはこれまで一度たりともありえなかった。どのような未来が待っているのかわかっていようとも、選択される行動にの介入する余地はない。
 新たに誕生する生命への喜び、永遠の別れに悲嘆する静かな痛み。その者の認識する世界の外については、どうあってもに知るすべはない。の頭の中はそうやっていつも輪のように閉ざされている。
 十戦続けて体を動かしていると、なめらかな軌道を描くトリオン体と反比例するように、今度は現実の肉体に差し障りがあった。トリオン体を解除した瞬間から体は警鐘を鳴らしているが、頭はそれをすぐには考慮に入れられない。
 かくんと傾いた体が前を行く背中にぶつかる。驚いた体が振り向いて、はまたしても支えを失った。宙に泳いだの腕を、伸ばされた手が掴む。とん、と地面を杖で叩いて、そう言えば補助の必要な体だったことを今さらのように思い出す。この繰り返しがのボーダーでの日常となっていた。
「離しても大丈夫か?」
 鋼、と相手が誰かに呼ばれて、は自分から後ろへ下がった。支えられた手を失っても、もうバランスを崩すことはない。
「うん、ありがとう」
「いや……」
「鋼、どうした。何か問題でもあったか?」
「そうじゃないんだ。少し、気になって」
 は交わされる会話を耳で流してブースを振り返り、太刀川に気づかれるまでそこでぼんやりと突っ立っていた。武装した兵士に背を向けるという行為にも慣れ始め、ボーダーの仲間意識に少しだけ身を浸している。誰かが勝って、誰かが負けて、そこに命のやり取りを前提とした緊迫感はまるでなく、空気よりも軽い電子の数字だけが目まぐるしく飛び交っている。
 を見つけた太刀川が、珍しく気の抜けたの肩をつついた。
「俺に負け越してふてくされてんの?」
 そうかもしれない、とは思った。B級に上がっても、いまだにのトリガーセットはがら空きで、もとから選んでいた弧月以外には新たにシールドが加わっただけだ。頭の中の理想に近づくために相応しいと思えるようなものがまだ見つかっていなかった。
「うん……ちょっと疲れたかも」
 四月が終わり、五月が始まった。学校も、ボーダーも、玉狛支部での生活すらも、少しずつの心身を圧迫していた。太刀川に勝てない苛立ちはあまりないが、せっかく手に入れたトリオン体を十全に扱えない不甲斐なさは右足に覚えのない痛みをもたらしていた。
「何度もトリオン体と切り替えてるから疲れるんだろ。こっちにいる間はずっと換装しとけば良いじゃねえか」
「でもそれは、母さんが嫌がって。おれに怪我のこと忘れるなって言うから」
「それ普通は逆じゃねえの? 怪我する前の体を手に入れるためにボーダー入ったんだろ」
 太刀川の指摘は正しく、トリオン体と生身の切り替えによって必然的に弧月を新しく生成し直しており、平均よりもトリオン量の豊富なであっても疲労は着実に蓄積していた。それでもは母親の言いつけを忠実に守っている。彼女が息子にそのような不便を強いているとは思いもよらないだろうが、だからと言っても細かく説明するつもりはなかった。
「しゃあねえなあ、ほらよ。師匠が特別に手えつないでやるから元気出せって」
 揶揄うために差し出された太刀川の手を見つめて、は照れることもなくその上に手を重ね、ふたりは握手を交わした。
「いや、なんでだよ。そっちじゃねえよ」
「やだよ。利き手が塞がれるから、太刀川さんが右手貸してよ」
「おれもやだ」
 やだやだと子どものように言い合いながら、お互いに向かい合った形で左手を抜き差ししながらロビーを通り抜ける。たまにバランスを崩すの肩を太刀川がにやにやと笑いながら支えたりつついたりしている。
 その横顔を、遠くで見つめる目のいくつかには感情がある。にとって望ましい、戦ってその実力を確かめてみたいと願う感情が、隠されることなく流れている。
 早く戦いたいな、とは思った。早く戦場に出て、電子以外の感触を手に入れてみたい。

「太刀川さんっておれの師匠だったの?」
「すごーく気づくのが遅いねえ。さすが久下くん」
 防衛任務のためにバスの始発からボーダー本部に詰めていたが、学校から与えられた宿題の応用問題に頭を悩ませながらふと思い出した先日の太刀川とのやり取りをぽろりとこぼした。その隣でテレビゲームのコントローラーを握る国近はゆるく笑い声を上げた。その目は少しもテレビ画面から離されない。
「太刀川先生って呼ぶべきなのかな」
「お姉さんからアドバイスするとね、それは絶対にやめた方がいいよ」
 わかった、とは素直に頷いた。
「ところで久下くん。オペレーター仲間に聞いたんだけど、久下くんは内部通話するのがすごーく苦手なんだって?」
 国近は何の理由もなく平日の真っ只中から徹夜でゲームに興じているわけではない。玉狛支部の宇佐美に頼まれて、の本部内でのフォローを担っていた。あえて国近が指名されているところには太刀川が一枚噛んでいるのだろうと思っている。太刀川は烏丸が抜けた穴をで埋めようとしている節がある。
 仮に久下が太刀川隊の新しい四人目の候補だとして、国近との性格面での相性には特に問題がなく、ログを流し見る限りにおいては能力面でも驚くほどA級部隊の攻撃手を務めるにあたって問題がなさそうに見えた。噂に違わず、B級に昇格したばかりとは思えないほど戦いに身を馴染ませている。
 しかしどうあってもA級太刀川隊に相応しくないと確信する、ただひとつの欠点がにはあった。右足の障害だ。トリオン体であれば何の瑕疵にも当たらないそれは、いかな状況下でも対応しなければならない遠征においては無視できない、深刻な欠点と目されている。訓練用トリガーで太刀川から一本を取るというシステム・エラーを疑うような奇跡を何度となく起こしていながらも、現実には表立って勧誘に動く上位部隊が未だに現れていないところがその証左だ。ただし、我が太刀川隊を除いては。自らの部隊の隊長の思惑についてはさしもの国近にも計れないでいた。何も考えていないようでいて、何も考えていないのが太刀川たる所以だ。
 そうした精鋭部隊の裏事情はともかくとして、国近が個人的に見た場合、はいちボーダー隊員として大変に将来有望な若者だった。短期間のうちに高い実力を示していながら驕るところがなく、太刀川のわかりやすい口車にも簡単に騙される可愛げがあって、何よりボーダーの任務に真摯に取り組もうとする姿勢がある。先輩オペレーターとして手を貸してあげたいと思うのが人情だろう。
「今、試しに内部通話やってみる? 現地の音と通話の声が選り分けられないとか、そういう感じなのかなあ」
「それなんだけど」
 はシャーペンのノックをとん、と自らのこめかみに押し当てて、これまで知られていなかった新たな欠点を口にした。
「通信がそもそも聞き取れない」
「うわあ、そこからかあ。先は長そう」
 後になって、本当にを勧誘したと太刀川から聞かされて国近は驚き、その断られた理由については自分でも笑ってしまった。
「どっかの部隊に入るなら六頴館の連中のいるところが良いんだと。うちじゃ逆立ちしたって無理だったな」
「無理だったねえ」
 国近はあははと笑って、何よりもあの迅が数年越しに口説き落としたと言う彼を玉狛支部からやすやすと手放すだろうかと考えた。あるいは太刀川の狙いは、はじめからそこにあったのかもしれない。

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