同じC級隊員から避けられていると知らされたのは、にやついた顔の太刀川からだった。いつもの十本勝負が終わって、最後の一本だけが取った後に肩を組まれてささやかれた。
「お前さ、もしかして嫌われてないか」
 それは立派な体格の大学生が、まだ高校に入ったばかりの年下の少年に楽しそうな顔で吹き込んで良い言葉ではなかった。ここに太刀川の知り合いがいれば渋面でたしなめられただろうが、残念ながら周りには、ふたりを遠巻きに眺めて視線を合わせない、曖昧に作られた人垣しかなかった。確かに避けられているかもしれない、とは思った。少なくとも太刀川については。目の端で見かけた隊員の中には専用の隊服を身につけている者もいたからだ。については知らないが、太刀川が避けられているのははるか格下のC級隊員ばかりではない。攻撃手の一番手を張る太刀川の訓練の様子は気になるが、進んで関わりたいとも思わない、そんな空気が辺りに漂っていた。
「……おれも嫌われるのはいやだな」
「おっ、そんなふうに思うわけ? 久下は気にしないやつかと思ったけど」
「うん。だって太刀川さんがいないとき、個人戦してくれる相手が欲しいから」
 そっちか、と笑って太刀川は掴んでいたの肩を離した。バランスを崩したがぶさまに尻もちをつく姿を見下ろしてまた楽しそうに笑う。
「その前にさっさと正隊員になっちまえよ。そうすればいくらでも俺がポイント食ってやるからさ。ま、お前を地下通路あたりで奇襲すればC級程度でも簡単に憂さ晴らしなんてできそうだけど」
 物騒なことをボーダー本部の真ん中で憚ることなく言い放って、用件の済んだ太刀川は次の獲物を探しにぶらぶらと歩き去った。ここはC級ランク戦用のブース前で、間違ってもA級隊員が出入りするような場所ではない。太刀川の背中が遠ざかってロビーにはほっとした空気が流れた。
 は立ち上がるのも面倒で、そのまま床に座り込んで大型ディスプレイを見上げた。太刀川との訓練は一戦ごとが長いため、終わる頃にはもう帰宅の時間が迫っている。表示される目ぼしい番号をいくつかノートに書きつけて、はさっそく太刀川の要望に応えることにした。にも太刀川にも自覚はないが、彼らが師弟関係として一括りにされていることはもはやボーダー内のほとんどの者にとって共通の認識事項となっていた。
 ボーダーを続けたいが親から絶対条件として提示された学業成績を維持するためには、日頃の勉強時間の確保も大切になる。そうでなくともひと一倍移動に時間がかかり、ボーダー本部にいる間はほとんど太刀川との訓練に明け暮れている。誰かと世間話をする暇は少しもなく、高校入学前から合わせるとすでに三ヶ月近く過ごしていながら太刀川以外の本部隊員の名前をひとりでも把握しているのかすら怪しかった。
 トリオン体を解除したのブレザーの制服姿だけでもこの数週間で人目を集めるには十分なものとなっていたが、障害者として他人の視線に慣れているにはその隔意も些細なことだった。

 トリオン体と称される仮想の肉体を手に入れてがまず困ったことは、右足の自由さだった。不自由な体にいったん慣れてしまうと、むしろ簡単に自らの意思に従う右足の扱いは難解なものとなった。
 訓練室に転送されて、向かい合った対戦相手がの姿を認めて焦ったように銃型の訓練用トリガーを構える。その照準が定まる前に、はあえて右足で地面を蹴っていた。体が頭の中で思い描く理想よりも大幅な前傾姿勢をとらされる。修正点はいつも同じで、だからはお互いの手の内を晒し合っている太刀川にいつまで経っても初戦をあっさりと落としている。はじめは怪訝な顔をされたものだったが、今となっては準備運動か挨拶代わりとでも思っているのだろう。C級隊員が相手ではポイントの変動もつかないから、太刀川にとっては気だるい時間でしかない。
 いくつか体の動きを修正して、太刀川よりもはるかに反応の遅い首筋に弧月を通し、は今日の一戦目を一分にも満たない時間で終えた。同じように手応えのない試合を何度か済ませてブースの端末を確認すれば、B級隊員まであともう少しで、これに合同訓練でのポイントを加味すれば今月中に昇格することも可能だろう。それが早いのか遅いのか、には比較の対象もない。
 金曜日はいつも早めにボーダー本部を退出している。父親が車で迎えに来て、週末を実家で過ごすからだ。の両親には、それがボーダー隊員の本分であるとは言え、警戒区域内で過ごすことにもあまり良い顔をされない。そのためにはボーダー本部ではなくわざわざ玉狛支部まで帰って寝起きし、バスで高校に通っている。不自由な体でのひとり暮らしなどもってのほかだった。
 あるいは迅には、別の理由のために玉狛支部を推薦したのかもしれない。数年前に顔を合わせたきりの城戸たちの思惑についてはもはやの考えの及ぶところではないが、危険なボーダーへの入隊を反対する両親と、即戦力かつ重要な研究対象であるのサイドエフェクトを手放し難いボーダーとの綱引きが、結果として現在のを取り巻く環境へと帰結させている。
 の頭の中だけにある世界が、近界と呼ばれるいくつもの場所のひとつを表しているかもしれない。その可能性を提示したのは白衣を着たボーダーの大人たちで、に大した驚きをもたらさなかった。ボーダーが持つ先進的なトリガーチップには今でも対応に苦慮しているが、地球上では持ち得ない圧倒的な膂力や幅広い関節の活動領域はに馴染みのあるものだった。幼い頃から真似をして、いつまでも近づけないと悔しがる。その理由が知れてむしろ納得していた。
 金曜日の夕方のまだ早い時間帯、どこを行っても隊員で混雑していた。は杖を片手にひょこひょこと歩いて、先方から道を開けられる快適さで悠々と人波を泳いでいた。
 ラウンジを横切る一団の中に珍しく知った顔があって、声をかける前に気づいた相手がの名前を呼んだ。
「今から帰りか」
 同じ玉狛支部所属の烏丸が集団に断ってから近づいてくる。は立ち止まって、もっさりとした同級生の髪を見た。いつかそこに手を突っ込んでみて、中に何か入っていないか確かめてみたいとひそかに思っている。
「まだもう少しいるけど。何かリクエストある?」
 毎週末、は大量の洗濯物を抱えて隣県にある実家に帰省し、大量の惣菜を持たされて玉狛支部に戻っている。不便な体を持つ息子の面倒を見てくれているからとささやかながらのお礼のつもりらしい。惣菜のメニューをとりあえず聞いてみるが答えはいつも決まっている。
「肉」
「伝えとく」
 ただし十全に叶った試しはあまりない。世の母親たちは押し並べてそうなのか、とかく偏りがちな男どもの茶色い食生活を緑の葉物で彩らせたいらしい。
 烏丸が振り返って、それで会話は終了したと思っていた。ソファで雑談していた集団の中からひとりが抜け出したのを見て、は杖を持つ手の力を抜いた。ゆっくりと体勢を整えて、右ではなく左の足に配られた視線に呼吸が深くなる。
「……誰?」
 つぶやきに、烏丸がの肩を軽く殴って答えた。の重心が動いて、視線が気まずそうに逸らされる。
「すみません、米屋先輩。こいつ頭が弱いんで、失礼なこと言っても気にしないでください」
「ふーん? 仲良いな、お前ら。京介にそこまで言わせるなんてある意味すげーよ」
 この辺りでは有名な進学校の制服にちらりと目を戻して、の前に立つ米屋が笑った。一瞬前まであった感情は飲み込まれ、笑う顔に敵意はない。それでもの体は繰り返される深い呼吸を止めなかった。
「玉狛も人員が増えて楽しそうじゃん。同い年だっけ」
「支部では俺の方が先輩なんで。そうだよな、久下
 烏丸も所属を玉狛支部に移して日が浅いと聞くが、確かにが引っ越ししてきたときにはすでに馴染んでいた。
「そうかも。お前のこと烏丸先輩って呼ばないといけないかな?」
「見ての通りこんなやつなんで」
 あまり表情を変えない高校一年生ふたり組の前で、米屋が後ろに向かって意味深にハンドサインを送った。が視線だけ送ると知らない誰かから指を二本立てられる。
「オッケー、わかった。噂のサイボーグも人間だって、他のやつらに伝えとく」
「馬鹿だってこともお願いします」
「お前らマジで仲良いな」
 砕けた笑いの余韻の中に、は意識だけを一歩踏み込んだ。
「米屋先輩はよく動けそう」
 トリオン体の隊服の下で盛り上がった筋肉をつぶさに観察する。力が指先に伝わって、すぐに流れが止められる。惜しかったなとは思って、米屋の目を覗き込んだ。流れる感情だけは止められない。
「……太刀川さんの弟子って噂だけは、マジみたいだな」
「馬鹿なんすよ」
「京介のそれ、太刀川さんのことも含んでないか?」
 知った名前が出されて、は顎を引いて時計を確認した。気づけば約束の時刻が迫っていた。
「おれ太刀川さんに呼ばれてるんだった。あのひとのとこの作戦室どこにあるか知ってる?」
「今日はC級用の訓練室でやらないのか」
「うん。おれに勉強教えてくれるんだって」
 そのとき、三人の会話にこっそりと聞き耳を立てていた周囲の人間ですらぎょっとした顔であからさまにを見て、ずっとゆるい笑みを浮かべていた米屋はぽかんと口を開け、烏丸はすでに携帯電話を取り出していた。
「迅さん。久下がとんでもないこと言ってますが、これ放っておいて大丈夫なやつですか。……はい、……わかりました。ラウンジで待機させます」
「やっべ、俺すごいこと聞いちゃった。サイボーグくんさあ、もう一回言ってくんない? 太刀川さんが何してくれるって?」
「先輩、本気でやめてください。こいつが救いようのない馬鹿なのわかったでしょう」
 学校の試験でひとつでも赤点を取ればボーダーを辞めさせられる未来があって、太刀川の大学の課題を手伝う選択肢はその最短コースを突っ走るらしい。迅がを無事に回収した後で教えてくれた。
「ひとつでもダメって、おれの親厳しくない?」
「その辺のトリオン兵より強敵かもな」
「この間さっそく実力テストがあったんだけど、もうすでに難しかったんだよ。おれ絶対に入る学校間違えた」
「まあまあ、一応ちゃんと卒業できる未来も見えてるから頑張りな」
 ぽんち揚げの個包装を渡されて、はポケットにそのまま入れた。
 迅によると、の未来は他者よりも単純化されているらしい。何事もなくボーダーを続けられているか、親の反対により辞めているか。親からの妨害さえなければ、ほとんど一本道だと言う。らしいな、と迅からは言われた。褒め言葉かどうかはわからない。
「それからもうひとつ、太刀川さんが余計なこと言ってたと思うけど」
「なんだっけ」
「正確には、どれだっけ、だからな。B級に上がるまでは学校の友人と一緒にボーダーまで来て欲しい。特に地下通路では注意して歩いて」
「……そういえば奇襲がどうとか、太刀川さん話してたかも。おれそんなに弱くないけど」
「知ってる知ってる。いくら正当防衛でも許される範囲ってものがあってさ……」
「ふうん」
「返事は?」
久下、了解」
 ほんとうかなあと言う顔で見られて、は同級生のボーダー隊員の名前をひとりでも挙げようとして失敗した。迅の出す課題はきっと太刀川のものよりもずっと難易度が高いのだろう。

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