内部通話の不調はサイドエフェクトの影響によるものではないかと推測され、当面の間は防衛任務の参加禁止を言い渡された。そのことを積極的に吹聴して回ったわけではないが、そもそも話す相手もいないのだが、がサイドエフェクト保持者であることについていつの間にかボーダー内に知れ渡っていた。もちろんその状況を知ったのも、いつものように面白がったの師匠に教えられてのことだった。その上で余計なことを吹き込まれる前にと玉狛支部でありがたい宣託を授けられた。
「どんなサイドエフェクトを持っているのか周りに教えたところでの未来に影響は及ばないが、ボーダー全体への悪影響は免れないな」
 のサイドエフェクトはこの世のどこかで生きた近界民の経験を写しとったもので、持ち主の精神性を深く侵食していると考えられている。地球上で暮らす時間よりも長い人生を生まれたときから身につけて、果たしてが純粋な地球人だと言えるのか疑問があったが、そこまではっきりと言葉にされないまでものサイドエフェクトはその含有する情報の特殊さと膨大さから慎重に取り扱われていた。
 よってはサイドエフェクトの先輩の助言に素直に従った。
「迅に口止めされてるから」
 非常に効果的なその名前を口にすれば、菊地原の眉間に深い断崖が作られる。
「だからサイドエフェクトのことは誰にも言えない」
「部隊に所属しないで、防衛任務にも不参加? ボーダーは慈善団体じゃないんだけど」
「個人戦はやってるよ」
「しかも手がつけられないほどの戦闘狂だし。早く誰かに手綱を握らせないととんでもない問題起こすんじゃないの」
「そのためにも、おれのサイドエフェクトがどんなものか伝えないといけないのかな」
「……ぼくはおまえのそういうところが嫌い」
 菊地原は騒がしい昼休憩の教室の中にあって、ただひとり静かだった。口の中の咀嚼音も椅子の上での身じろぎも、その年齢の男性としては違和感を覚えるほどの静けさに満ちている。ともに昼食を取る歌川は素知らぬ顔でたちをそばから見守っている。
「隊長を信頼しようとしないやつに、誰も背中を預けようとは思わない」
「うん」
「おまえは自分自身のことも信頼してないだろ。そんな心理状態でよくこの先も戦っていけると思えるね」
 筋肉や関節の動かし方だけではない。菊地原にしろ歌川にしろ、平和な世の中で暮らすにはあまりに研ぎ澄まされ過ぎた感性を持っている。加えてボーダー組織内に言及すれば、彼ら以外にも他に何人か、が容易に背中を向けたいとは思えない人間が在籍している。が所属する支部の顔ぶれを考えればそれも今さらのように思えたが。
「おれのサイドエフェクトは」
 歌川がはっとしてを見た。菊地原は無関心を装っている。
「理想の戦い方を知ってるから」
 が口を閉じて、無意味な沈黙が流れた。
「ぼくたちのこと舐めてるの?」
「……それだけではさすがに無理があると思うな」
 歌川が遠慮がちに意見を述べた。
「ダメか」
「嘘をつくくらいなら黙ってる方が百倍マシ」
「嘘じゃないんだけど」
 予鈴が鳴って、は杖を片手に席を立った。パンの空袋をポケットにねじ込む。
「おまえもB級に上がったんだし、もういちいちご機嫌伺いに来ないでよ」
「でもレイジさんが友だちは大切にしろって」
「はあ?」
 素っ頓狂な声を菊地原が出して、煩いなとは思った。
 歌川がさりげなく間に割って入る。
「明日は俺たち防衛任務でいないけど、今度の帰りに駅前寄って行かないか? 新しい店が入ったって言ってたよな、菊地原」
「こいつ歩くの遅いんだよ」
 面と向かって右足の障害をあげつらえる人間もあまりいない。は学校と駅とボーダーの位置関係を思い描いて頷いた。
「菊地原がゆっくり歩くならいいよ」
 返事はなかったが、歌川がほほ笑んで手を振ったのでもそれに返して彼らの教室を後にした。

 ボーダーを除隊させられた隊員の件で若手たちの間に動揺が走っている。C級のうちに自ら辞めていく訓練生は多くいたが、名の知れた隊員の身分の剥奪に衝撃を受けた者は少なくないようだった。立て続けに起きた複数のA級部隊の降格による影響は、団体ランク戦に参加せず、人間関係にも希薄なにすら波及していた。
 ここでもやはりまた右足にまつわることだった。その隊員についてはもちろん詳しいところを知らないが、極限の戦闘状況を想定した中で目をつむるにはあまりにも重大な欠陥を抱えていたのだと言う。そのために予定していた任務を取り消され、部隊は降格を余儀なくされた。後にこの情報は玉狛支部の夕食の席でいくつか修正されたが、の置かれた状況に変わるところはなかった。
 個人戦ですら他の隊員から避けられるようになったのだ。が誤った事実を鵜呑みにしたように、他の隊員の間でも情報が錯綜していた。何が正しく誰を信じるべきなのかわからないところに、最近では見慣れた光景となっていたの右足に再び注目が集まり始めた。曰く、除隊された隊員と同じ問題を久下も抱えているのではないか。身体に問題のある隊員は除隊されるのではないかとの先走った憶測までが流された。それが根も葉もない噂であるのかすらには判別のしようもなかったが、部隊に引き入れられることはもちろんのこと、個人戦で相対することですら避けられるようになっていた。そして重要なのはそれだけでなく、この時期にわざわざを模擬戦相手に選ぶような隊員は総じて優秀な兵士ばかりであるにも関わらず、どことなくの様子を伺うような臆病なほどの慎重さを見せていた。
「単なる一過性でしょ。恐怖心の強い負け犬は、記憶力にも乏しい」
 学校の同級生は一言で切って捨てたが、は珍しく真剣に悩んでいた。
「太刀川さんの弟子をやめたい」
「あ?」
「おれたち、殺し合いの方が向いてる関係性だと思う」
「過激だなあ」
 少しも過激だと思っていない口ぶりで、太刀川は噛んだ餅を伸ばした。
「欲求不満か?」
「うん」
「よし、殺し合うか」
「うん」
 太刀川が冗談だと言う前に、の背後から衝撃が襲った。瞬間的に杖を持つ手に力が入り、ゆっくりと弱める。ボーダー本部のロビーでは相変わらずふたりは遠巻きに見られていたが、第二陣の到来はなさそうだった。近頃の場合、遠巻きにされているのは太刀川ではなく自身に理由があるのだろう。
「小南?」
「絶対にダメだからね」
 前に回された手がぎゅっと制服のネクタイを掴む。この数ヶ月間、ほとんど毎日顔を見合わせている小南が錯乱したように叫んだ。
「もう生身で戦わないって約束したでしょ!」
「そうだっけ」
「してないけど! したってことにして!」
「やべえ、あの小南が他人を騙そうとしてる」
 太刀川はそのまま第三者の気楽さと無責任さで傍観の姿勢を決め込み、小南はの体を離さないまま顔だけ後ろを振り返った。
「殺し合うって、今度こそが死んだらどうしよう!?」
 もそちらを見てみれば、迅が頬をかきながら立っていた。周りと同じように、どことなく巻き込まれたくないと主張するような及び腰だった。
「これが一番まともな未来だったの?」
「ははは……」
! 約束!」
「する。死なない」
「そうじゃなくて」
 小南の声はほとんど涙まじりだった。本当に泣いているのか確かめようと右手を上げて、そっとその手を掴まれる。手のひらに指が這って、消えない傷跡を探り当てられる。
 一本道だと言う。迅がの未来を指して言った言葉だ。だからここで何かを約束しても、の未来は頭の中と同じように揺るがない。どんな未来でも変わらずボーダーに所属して、何かをためらいもなく殺している。早くその未来をこの目でも見たかった。
「生身で戦わない。そう約束したよ、えっと、たぶん。四年くらい前に?」
「……約束破ったら首ちょんぱの刑だからね」
「小南がおれと殺し合うの?」
 容赦なくネクタイを締められて、はさっそく約束を反故にしかけた。
 あと少し我慢してくれ、と迅に言われている。だから防衛任務には出ないし、個人戦も自重している。そうでなければとっくに満足を覚えていたはずだ。満足して、新しい戦場に身を投じていたことだろう。
 は迅を信頼している。だからこれは、感覚のない右足をくれたお礼だった。他人はを憐れむが、はこの右足のお陰で理想に近づけたのだから、頭の中の愛しい何かを思うように大切に抱きしめている。

ムネモシュネの接吻・了 1 / 2 / 3 / 4 / 5