暗い木のざわめきが頭上を覆う。硬い幹に打ち付けられる重たい音が四方から響き渡って、自分がどの道を辿って来たのかもわからないでいる。草むらが揺れ動くのは風かそれ以外か、目に涙を溜めたマサキには考える余裕もなかった。
姿を見せないズバットの羽音が梢の上で鋭く鳴る度に小さな肩が震え、とにかく足を動かしてこの恐ろしい森から抜け出そうとますます森の奥深くに分け入っていた。
マサキがこっそり家から連れ出したイーブイといつの間にかはぐれていたことに気がついたのは、いよいよ日中の暗さとは違う深い闇が広がり始めたときのことだった。寒さに震える体を温めようと足もとのぬくもりを抱き上げるために膝をついて、伸ばした腕のどこにもイーブイの姿が見つからなかった。ひえっとマサキの喉が引きつった。
帰り道を見失ったマサキの心の拠りどころは赤ん坊の頃から一緒に育ったイーブイの存在だけだった。マサキを自分の卵のようにふわふわの尻尾でくるみ、いつも傍に寄り添ってくれる。幼い子どもの向こう見ずな指示については全く聞くそぶりもないが、両親の言いつけを守ってすぐに泣きべそをかく弟分を悪いものから庇ってくれていた。
一人で遊びに行くのを禁じられているウバメの森へ勝手に入り込んだ挙句に、イーブイを残して帰ったと知られればどれほど怒られるだろうか。何よりこれだけ広い森の中にぽつんと佇む小さなイーブイを想像すると恐怖よりも心配が大きく勝った。
それでも今まさに木立の間から突き出たかぎ爪がマサキを森の奥深くに引きずり込んでいきそうで、マサキは心細さに目の前が涙で滲んできた。打たれ弱いマサキの心はとっくに限界をきたしている。
「もういややー! じぶんどこおるねん、先に帰ったるでー!」
地面から立ち込め始めた白い霧に声が吸い込まれ、マサキはいよいよ顔を青ざめさせた。
先ほどまで見ないふり気づかないふりを続けてきたが、目の端にずっと同じ形をした草むらの葉先が揺れている。どれだけ前に進んでも、体の向きをでたらめに変えても、いつまでも後をついてきていた。遂にはマサキの大声に反応して、擬態した草の下から丸い二つの足のような根が伸びている。あれを使って執念深く追いかけて来たのかと想像して、マサキは身震いした。
「ちゃうねん、わいを食べてもおいしくないねん……かんべんしてやあ」
あかん、と思ったときにはもうさめざめと泣いていた。自分でもよくここまで我慢できていたなとマサキは頭の隅で自画自賛して、このまま誰にも自慢することなくぺろりと食べられてしまうのかと思うと余計に泣けてきた。
恐ろしさに膝を抱えて縮こまるマサキのもとまで容赦なく距離を詰め、お気に入りのズボンに体を擦り付けられる。マーキングされている、とマサキはすぐに気がついた。マサキの家のイーブイも同じように首もとのふさふさとした白い毛を存分に擦り付けると、満足した証にぺろりと頬を舐めていく。
そう、まさに今のように。湿った肌がすうっと冷えた。
「ええ……?」
びっくりしてマサキは両膝の間から顔を上げた。つぶらな瞳がマサキを見つめ、早く泣き止めと鼻先をもう一度舐められた。
涙に濡れたマサキの視界にはイーブイがちょこんと足を揃えて座っているだけではなかった。マサキと同じ年頃の少年が無表情の顔つきで地べたにへたり込むマサキを上から見下ろしている。
驚きでマサキは言葉もなかったが、少年もじっと口を引き結んで黙っている。無言の二人の間を銀色を帯びた風が吹き流れ、その周りをナゾノクサが群れを成してぐるぐると歩き回っている。
「じぶんも、食べられるん?」
少年が首を傾げた。イーブイも同じように頭をぽてりと横に倒している。ナゾノクサたちが反対向きにぐるぐると回り始めた。
「わいはもう母ちゃんに会えへんの?」
少年は少しだけ目を見開いて今度は首をはっきりと横に振った。イーブイもまた同じように首を振って、マサキは状況を忘れてふてくされてしまった。初めて会ったはずなのに、イーブイがまるで少年に従っているように見えたからだ。ずっと一緒にいるマサキの指示は一向に聞かないというのに。
「……お前の母ちゃんどこ」
ぼそっとつぶやいた少年のぶっきらぼうな声にマサキもツンとして答えた。
「どこかてええやろ」
「会いたいんやないか」
「せやけど、ここがどこかわからへんもん。もう帰れへんのなら言うたってしょうもないやろ」
無茶苦茶な理論で胸を張るマサキに呆れたイーブイがどんと体をぶつけてくる。もう二度と家族に会えないのかと泣いていただけに、マサキはすっかり嬉しくなってぐいぐいと体を押し付けてくるイーブイをぎゅっと抱きしめた。
「どこ行っとたんや、寂しゅうなって戻ってきたんか? かわいいやっちゃなあ。ええ子ええ子や」
「……やかましい迷子や」
「イーブイ! あいつにたいあたりせえ……わいやない! あいつや!」
マサキの喚き声はイーブイと少年に揃って無視された。
少年が木立の間をすっと指差した。周りを取り囲むナゾノクサたちがゆさゆさと葉を揺らして彼の示す方向を中心に二手へ分かれた。
「……ヒワダタウンはあっちや」
「わいが田舎もんに見えるっちゅうことか」
少年は泥だらけのマサキを上から下まで眺めてちょっと口を閉じ、イーブイに甘噛みされているマサキの腕をつかんだ。
「
セージ」
「どこやそれ」
「……おれの名前」
マサキは目を丸くして、出会い頭から少しも表情の変わらない顔をまじまじと見つめた。彼の手を借りて立ち上がるとマサキの方が少しだけ目線が高くて、それだけで機嫌はもとに戻った。
「わいはマサキや。コガネシティのマサキ。よろしゅうな!」
セージはにこりともしないで頷くと、握手のために差し出された手を繋いだままためらいもなくヒワダタウンの方角に背を向けて歩き出した。向かう先は闇と霧に深く覆われて、マサキはその後を半歩遅れでおっかなびっくりついていった。
「わいのウチまでつれてってくれるん?」
「出口までや」
「こんな暗い道どうやってわかるんや。わいにはなんにも見えへん」
「木がちゃう」
「ちゃうことちゃう。どれも一緒や。それにこんなぎょうさん覚えられへんし」
「……ここはおれの庭や。なんでもわかる」
「なんやねん庭て、そんなんうそやん。なんでそんな見え見えのうそつくねん」
でこぼこした木の根もとを跨ぎながら、マサキは真面目な顔で大口を叩く
セージに肩の力を抜いて笑って、その笑みがふと凍りついた。まだ目の端に動く草むらがちらついている。
「
セージ、
セージ……! あいつらまだおるねんけど」
マサキがぐいっと繋がった手を引いても、
セージはちらりとナゾノクサに目をやるだけだった。
「わいら狙われてるで。ゆだんさせたすきに頭からぱっくり食うつもりや」
「そんなんうそや」
セージがマサキの真似をして唇の先でちょっと笑ったことに、このときのマサキは命の危機に怯えて見過ごしていた。マサキは大人たちがウバメの森を怖がらせるために吹き込んだ子ども向けの脅し文句を頭から信じていた。触れ合う手の指先まで冷たく震えている。
「マサキ」
急に名前を呼ばれてマサキはびくりと体をすくめた。
マサキの足もとをうろつくイーブイの両耳がまっすぐに立ち上がっている。自分の中から沸き起こる恐怖に手一杯で周囲への警戒を怠る弟分に代わって、イーブイは木の影から興味津々に見慣れない人間を観察する野生のポケモンたちを見張っている。
「よう見てみ」
セージの指差す先にはやはり霧深い森が広がっているばかりだった。背の高い木が白い霧の先からふっと現れたかと思うと瞬きのうちにかき消え、別の場所に現れたかと思うとまた消えている。冷気がマサキの首筋を通り過ぎざまに撫でていき、背筋がぞぞぞと泡立った。本当に森の出口に近づいているのか、マサキは
セージの表情の変わらない横顔を心もとなく思い始めていた。
「……もっと下見い」
「下かて言うたって、あいつらがおるやん。目と目が合ったら食われる合図や」
「食われん」
「うそや」
「うそやない。道案内や」
「なんやねん道案内て、そんな見え見えの……」
マサキが薄く開いた目でおそるおそる視線を下げると、ずらっと並んだナゾノクサの隊列が霧の先まで続いていた。二人と一匹が通り過ぎた後ろから足音が立ったかと思うと、彼らを追い越して霧の中に飛び込んでいる。行けども行けども途切れることのないある種の獣道に、マサキは
セージの道案内という言葉を反芻した。ごくりと唾を飲み込む。
「なんなん……これなんなん」
セージはちらりと木々の間に目をやった。薄闇の中を風に乗って鱗粉が舞い落ちる。それらはナゾノクサの葉の上にうっすらと積もっていた。
「道は合うとる」
「ウバメの森すごすぎや、こんなん地図いらずやん。こいつらなんて名前やったか、えらいかしこいなあ。ええやつらやなあ」
きらきらと目を輝かせるマサキに比べて、
セージはどこまでも淡々としている。
「お前を迷わせたのもこいつらや」
「そんなんうそや」
「うそやない。こいつらが道を作ったんや。後ろ見てみ、もうさっきの場所には戻れんで。ナゾノクサだけやない、ここらへんはズバットもちょうおんぱ出しながらあちこち飛び回っとる。まともに食らったらどれだけ森にくわしくても一人で抜けられん。でもスバットはおれらに向けてやっとるわけやない、そうやって暮らしとるだけや」
セージにしては長く口を開いてから、ふうと息をついた。
「ポケモンにええやつも悪いやつもない」
マサキは
セージの手をぎゅっと握り直した。
「……ウバメの森こわすぎやわあ」
マサキは
セージの言われるままに後ろを振り向くことはとても恐ろしくてできなかった。耳鳴りが翼の音のように聞こえ始めて寒気がした。何も視界に入れないようにとぼとぼとうつむいて歩くマサキをイーブイが心配そうに見上げながら体を寄せてくる。ぬくもりを足に感じながら、こいつはええやつやとマサキは思った。
「こんな遠くまで来るつもりやなかったんや」
セージは無言で前を向いて歩いている。聞いているのかいないのか、一瞥すらなくなった。
「友だちにな、言われたんや。森に入ってすぐに大きな池があるやろ? あそこをぐるっと半周したらでっかい木があるっちゅうてな、その枝を拾ってきたら仲間に入れてくれるんやって」
「池はずっと向こうや」
「ほなさいしょから道まちがえてんね」
「森を知らんやつが本道から外れたらあかん」
「……もう疲れたわあ」
昼間から薄暗い森の中をさ迷い歩き、影と音に怯えながら過ごしてきた。単なる風のざわめきも威勢の良い木挽き歌もマサキにとっては恐怖の対象でしかない。心も体もすっかり疲れきっていた。
「枝がほしいんか」
「もうええねん。どうせあいつらとは仲良くなれへん。わいかてあいつらの子分になるのはまっぴらごめんや。森に入ったのバレたら母ちゃんにもしこたま怒られるやろうし、もうええねん」
マサキは足もとの小石を蹴った。てんてんと転がって、木の根っこにこつんとあたって止まった。
セージがふと眉根を寄せる。
「マサキ」
「せやけどまたコケにされるのはいややわ。
セージはもうじぶんのポケモン持っとる? わいはまだや。こいつは家族みんなのポケモンやし、はようじぶんだけの相棒がほしいわあ。
セージもそう思うやろ……なんや
セージ」
話の途中で再び名前を静かに呼ばれ、マサキは立ち止まった。二人の間で繋がれた手を強く握られる。いつの間にか霧の中を抜け出してナゾノクサの隊列も消えていたが、森には変わらず暗く湿った空気が流れていた。
「上見たらあかんよ」
「上?」
そのまま素直に首を反らしたマサキは頭上の光景にぎょっとした。思わず逃げ腰になったマサキの体を
セージが引き止める。
「な、なんやあれ」
見える限りの木々の枝から松ぼっくりに似たポケモンたちが糸を引いて垂れ下がり、厚い木の皮から覗く双眼をきらめかせてじっと闖入者たちを見つめていた。一匹だけでも恐ろしいのに、それが何十匹と揺れていた。
「クヌギダマや」
「ぜんぶか? ぜんぶクヌギなんちゃらなんか?」
「そうや。こっちから手を出さんとおそってこん」
二人を守るように立ちはだかったイーブイが前足に気合を溜めて、いつでも飛びかかれる準備をした。
セージがその前を行くと続いて強制的にマサキが、その後ろからイーブイが警戒心を露わについていった。まるで
セージに従っているようだとマサキはまた思った。
「出口はもうすぐや」
「お、おん」
そのまま二人と一匹は慎重な足取りでクヌギダマの生息地を抜け、下生えのない広い道に出た。急に眩しい明かりがマサキの目を差して、すぐそこに34番道路とを結ぶ連絡ゲートがあったことを知る。
「ほんまにすぐやったわあ」
マサキはふらふらと足を踏み出して、ふと片手が軽くなったことに気がついた。振り返れば
セージが立ち止まってマサキを見ていた。暗がりの中で見慣れた無表情の横顔に光があたっている。
「
セージは帰らへんの。もう遅い時間やで」
セージは無言で首を横に振って、それから少し頭を傾げた。それがもうどことも知れない茂みの中で会ったときのようで、マサキは声に出して笑ってしまった。イーブイはマサキの傍で毛繕いしている。耳の先に枯葉が絡んでいて、マサキは優しい手つきで取ってやった。
「まだ遅うない」
「そんなんうそや。こんなに暗いで」
「森はいつも暗い」
「うそやないんか」
「うそやない」
くだらないことを話して、どちらもそこから動かなかった。マサキは何となく手持ち無沙汰になって土をつま先で掘り起こし、
セージの物言いたげな顔つきを見てやめた。
「ウバメの森は恐ろしいところやな」
「そうか」
「
セージはいつも恐ろしくあらへんのか」
「ポケモンおったら怖くない」
「……ポケモン持ってんか! なんでそれをはよう言わへんの!」
マサキは驚いて
セージの腰もとを見た。大人たちはいつもそこにモンスターボールをぶら下げている。近所の偉ぶっている友だちも珍しいヤンヤンマを相棒にしていて、誰彼となく見せびらかしていた。
セージはマサキの熱い視線にちょっと戸惑って、シャツをめくってベルトにかけたボールの一つを手に取った。
「ポケモンほしいんか」
「当たり前や!」
「……これやるわ」
マサキは差し出された風変わりなボールを言われるままに受け取って、一拍してから不機嫌な顔で突き返した。
「いらんわ! わいがいくらどん臭くてもなあ、さいしょのポケモンはじぶんで捕まえるんや」
「どん臭いならちょうどええ」
「なんやてえ!」
ええやつかと思っていたのにとんでもない、とマサキは憤慨した。
「開けてみい」
「いやや!」
「なんも入ってない」
「そんなんうそや!」
マサキは叫んでから、ちょっと考え込んだ。これまでの
セージとの会話を思い出して、何度この言葉を否定されただろうかと数えてみる。マサキは運動神経を母親のお腹の中に置いて生まれてきたと親戚によくからかわれるが、記憶力は抜群に長けていた。
「……うそやない?」
「うそやない」
マサキは手の中にある見慣れない模様の入ったボールをまじまじと見つめて、中央のボタンをおそるおそる押してみた。マサキの戸惑いとはうらはらにあっけなく開いたボールの中身は確かに空だった。
「なんやこれ」
「スピードボール」
「なんやそれ」
「……おれが作った」
「はあ?」
そんなんうそや、とは言わなかったが、マサキの顔にははっきりと書いてあった。
セージが気まずそうにうつむいた。
「ちょっとうそや。ほとんどはガンテツのおっちゃんが作った」
「ガンテツってだれや」
「おれに飯食わせてくれるひとや」
「父ちゃんとちゃうんか」
「父ちゃんはおらん」
「母ちゃんはおるんか」
「母ちゃんもおらん」
「
セージはひとりなんか」
「ひとりや」
子どもにだけ許された遠慮のなさで個人的な事情に踏み込んでおいて、マサキの関心は手もとのスピードボールにばかり注がれていた。
「これでポケモン捕まえられるんか」
「捕まえられる」
「ほんまに
セージが作ったんか」
「……いらんなら」
「そんなん言うてへんやろ。うそとちゃうんやな? ほなおおきにもらうわ。返せ言うてももう返さへんで」
マサキはにっこりと笑うと、大切にズボンのポケットに収めた。外から見ても膨らんでいて、母親にすぐに気づかれてしまうだろう。しかしマサキは嬉しくて仕方がなく、早く誰かに自慢したかった。今日の歩き疲れもこれまでのポケモンにまつわる嫌な思い出も全て吹き飛んでしまった。
セージとの出会いがなければマサキは今でも森のどこかでめそめそと泣いていたことだろう。
「
セージはウバメの森の神さまなん?」
セージはぎょっとして、慌てたように首を横に振った。あまり表情の変わらない中にもマサキには少しずつ喜怒哀楽が見え始めていて、それがまた嬉しかった。
「昔話を信じとんか」
「信じてへんわ。せやけど
セージが神さまやったら信じてもええ」
「……へんなやつやな」
セージは薄く唇の端を上げると、片足を後ろへ下げた。腰のボールがかたりと動いて、光の中から淡いピンク色のポケモンが飛び出した。
マサキは初めて見るポケモンに目を奪われた。ぼんやりと道に座り込む姿はマサキに負けず劣らず鈍臭そうで、イーブイに挨拶されていることにも気づかない。もしかしたらまだボールの中にいるつもりなのかもしれない。
「おれは神さまやない、
セージや。ヒワダタウンの
セージ。またな、マサキ」
セージのあるかなしかのほのかな笑みにマサキは大きく頷いた。
マサキがゲートから外へ出ると、久しぶりに見た空は驚くべきことにまだ明るかった。背後の鬱蒼とした森からはホーホーの低い鳴き声がかすかに聞こえるというのに、ラジオ塔は夕日に照って黄金色に輝いている。
「イーブイ、たまにはわいのこと手伝ってくれへんか?」
イーブイはいつものように体をぐいぐいとマサキの足に押し付けると、34番道路の草むらに駆け出していった。マサキはポケットの中のスピードボールを握りしめて、左右に揺れる尻尾を追いかけた。
1 / 2 / 3 / 4 / 5