明るい光が温室を満たしていた。ガラス張りの壁面から日が差して天井まで伸びた蔓に花を咲かせている。夏場でもあまり気温の上がらないセキエイ高原にあって、強い芳香を放つ花々の彩りは贅沢な眺めだが、そのほとんどの名前を温室の主人は知らなかった。
涼しい空気が頬を撫でて、
セージはベンチに寝転んだまま薄く目を開いた。ナッシーの葉の陰で休んでいたレディバが羽音を立てて奥へ逃げて行く。山岳地帯で遭難していた怪獣マニアともども昨夜遅くに救助したばかりのヒメグマは
セージの上で腹ばいになったまま、頭上を飛び交うスピアーの群れをよだれを垂らして眺めている。
「……ワタルか」
セージは起き抜けの掠れた声で来訪者に呼びかけた。葉先を掻き分ける音の後に重いブーツの踵が鳴って、赤い髪が
セージの顔の高さまで下がる。ヒメグマがふんふんとそのにおいを嗅いで、興味を失ったように
セージの手のひらに鼻面を押し付けた。
彼らの怠惰な態度に対しても、カントーが誇る四天王の大将は低姿勢で詫びの言葉すら口にした。
「お休みのところ申し訳ありません。早急にお耳に入れておきたい報告が」
ヒメグマの濡れた口もとを拭ってやりながら、
セージは目だけでワタルに続きを促した。これがキクコであればとっくに杖で滅多打ちにされているが、フスベシティの育ちの良い青年は真面目な顔を崩さなかった。
その口から深刻な話題がもたらされる。
「非公式ではありますが、国際警察からリーグ本部へ協力要請が打診されました。すでに捜査員がクチバシティ入りしているようです」
ヒメグマが喉を鳴らして鳴いた。昨夜の縄張り争いで負った怪我はすでに回復したようだった。床に飛び降りて一目散にスピアーの巣の下へ走るヒメグマを視界の端で見送ってから、
セージはようやく体を起こした。暴れるリングマとやり合った体がわずかに痛んだ。
セージがワタルから受け取った書類の束を関心の薄い目でめくると、日々の新聞でも見慣れた名前が至るところで言及されている。ここしばらくリーグ関係者一同が頭を悩ませている犯罪組織についての報告資料だった。
その最も新しい活動内容に
セージの眉がぴくりと動いた。
「……ハナダシティにロケット団やと」
「忌々しいことに強盗自ら誇らしげに名乗ったそうです。お月見山でも類似した特徴の集団が目撃されています。報告に上がっている被害額は依然として微々たるものですが、地元警察が手を焼いている点を考慮に入れると統制の取れた組織的犯行と見て十分でしょう」
「その程度で国際警察が出張るんか」
「金銭目的以外の線を疑っているようです。なにぶん彼らも秘密主義ですから、おそらく全ての情報を我々に開示しては来ないでしょう。リーグ主体でも踏み込んで調べてみるべきです」
残りのページを手早く読み流して
セージはひとつだけ尋ねた。ワタルは調査をと進言するが、すでに手回しを終えていると
セージは確信していた。
「ジムリーダーへの連絡は」
「これから通達を出します。国際警察の介入についてはまだ伏せておくつもりですが……それでよろしいですか」
全てお膳立てさせたものを差し出され、
セージはただ頷けば良かった。
セージは一礼して温室を立ち去る背中をしばらく見つめ、ふと声をかけた。再び戻ってきたレディバが空いたベンチの端で翅を休めている。臆病なレディバには彼にまとわりつくドラゴンの気配ですら敏感に反応して、なんてことをするんだと濡れたような黒い目で訴えられた。
「ワタル」
マントが柔らかく波打つ。振り向いた若い顔は才気煥発にあふれて、乱れた髪をそのままにベンチに寝そべる
セージのことを上役として仰ぐ立場に甘んじているとはとても思えなかった。
「まだおれと公式試合せんのか」
ワタルは意外なことを聞いたと言うように目を丸くして、それが冗談の類いではないと理解するや一転して挑発するように唇を吊り上げた。
「
セージさんはチャンピオンをお辞めになりたいのですか?」
セージは目を細めてワタルを見た。
彼がジョウト地方のジムバッジを集め終えた後に、故郷のフスベシティで順当にジムリーダーとなるところを横から勧誘したのは
セージだった。ポケモントレーナー同士、当然ながら口を使って穏便に説得したのではない。ドラゴンタイプがこの世で最も強く美しい生き物だと信じるワタルに世界の広さを教え諭し、お陰で
セージはフスベシティの長老たちから不評を買った。しかし四天王の一角を務める彼の想像以上の働きによって、
セージは滅多に人の立ち入らないセキエイ高原の温室でのゆるやかな暮らしを手に入れることができたのだ。それはあくまで副次的なものに過ぎなかったが、思わぬ恩恵に今では頭の先まで浸かっていた。
それでも近頃はとみに思うことがある。いつまでこの地位に座していられるのかと。もとより
セージがチャンピオンに相応しい振る舞いができたことは一度もなく、向いていないなとワタルを見る度につくづく感じる。そのために彼をジョウト地方から引き抜いたのだから、これは
セージにとって当然の願いであった。
「おれが辞める前に辞めさせや」
「いつでもそうしましょう。ですがまだ、俺はあなたに教えを乞いたい」
ワタルが少年のようにきらりと目を輝かせた。その感情が
セージには理解できない。
セージはポケモンバトルのいろはを故郷の森を手本に学んだが、一方で一族の貴種として大切に育てられたワタルは真っ向勝負を好んだ。
二人の気性の違いは生まれ育った土地の違いでもあった。フスベシティとヒワダタウンは同じ辺境の田舎町だが、営みをともにするポケモンのタイプが彼らの戦略性を分けていた。
ワタルが再び
セージの傍らで膝を折った。
「俺は自分自身がまだ未熟なミニリューに過ぎないと自覚しています。いずれあなたの代名詞をも超えて見せますが、それは今ではない。今ではないと誰よりもわかっています。そのときまでは、どうか
セージさんがチャンピオンとしての権勢を振るうための手伝いをさせてくれませんか」
「……気の長いことや」
相棒と一生をともに過ごすことを約束されたドラゴン使いの呑気さに
セージは呆れたが、ワタルには少しも通じていなかった。
「そうでもありません。最近になって立ち続けに見込みのある若いトレーナーが現れたとか。ジムリーダーたちから何かお聞きになっていませんか?」
セージは考えるまでもなく記憶になかった。挑戦者がリーグ本部の門を叩くことはほとんどなく、そのひと握りの存在もまたワタルを四天王に引き入れてからはますます
セージの前から遠ざかっていた。
果たして自分がチャンピオンであることを世間に認知されているのかどうかと、
セージは疑問に思うことがある。珍しいドラゴンタイプを使うワタルの方がよほど目立っている。
そのワタルの言葉に
セージの関心が引かれないでもなかった。
「お前より強いんか」
「……さあ、どうでしょう」
静かに笑ったワタルが
セージをまっすぐに見つめる。気高く獰猛な、出会った頃と変わらない眼差しが
セージの心を縫い止める。
幼いヒメグマの相手をしていたスピアーが膨らむ緊張を察知して二人の頭上を旋回し始めた。
セージは焼け付くほどの闘志に期待を寄せながらも、そんな顔をチャンピオンに向けておきながらいったい何を遠慮しているのかと理解に苦しんだ。目と目が合った瞬間から、ポケモントレーナーとしての本能はただ一点に駆り立てられる。それに抗う理由が
セージにはわからなかった。
この若きドラゴン使いこそが、
セージが自ら認めた挑戦者であるのだから。
そのワタルの眼差しがふっとゆるんだ。
「彼らが無事にチャンピオンロードを抜けられたところで、俺たち四天王が鎧袖一触してご覧に入れましょう」
あざやかにマントをひるがえして温室から立ち去る後ろ姿を
セージはいつものように黙って見送るほかない。ワタルから受ける高い評価は近頃の
セージの頭痛の種でもある。
鈴を転がすような笑い声がベンチの裏から聞こえたのはそのすぐ後だ。
「ワタルさんはほんとに
セージさんのことがお好きなのですね」
ナッシーの太い幹に寄り添って豊かな黒髮の女性が淑やかに笑っていた。
ワタルに負けず劣らずの箱入り娘は、普段から主人に無断で出入りしては植物に手を入れている。
セージは彼女が温室にいたことにいまさら驚きはなかった。
「……起きてたんか」
「まあ。殿方がいらっしゃるところでお昼寝なんてできませんわ」
セージは温室の奥でブランケットを丁寧に折り畳むキレイハナにちらりと目をやって、ただ黙って頷いた。
「今の話は」
「ワタルさんの弟子入り志願のことですか?」
「……ちゃうわ」
「そうですね、あれはどちらかと言えば生涯のライバル宣言でしょうか。殿方は誰が一番かと争うのがほんとにお好きですよね」
のほほんとした声に
セージはふっと息を吐いた。
「エリカ」
呼びかけると、眠たそうに目尻を下げていたエリカの顔に、ジムトレーナーを束ねる指導者としての色がちらりと過ぎる。美しいまつげが瞬いたときにはもうたおやかな淑女に戻っていたが、レディバを撫でようと伸ばされた繊手は行き場を失って胸もとに引き戻された。
「わたくしにも少し気になることがありますの」
エリカは逃げ去るレディバを名残惜しそうに見送って、
セージの手もとの報告書に流し目を送った。
無感動な顔つきながらも、
セージの資料を読み込む手は止まっていない。特に最後の目撃地点について気がかりに思っていることはエリカの目にも明らかなのだろう。
セージがエリカと気安い関係を築いているのは、何も彼女がジムリーダーであるだけではない。タマムシシティは言わずと知れた学術都市でもあった。
「この件はまだわたくしの胸のうちにだけ収めて、本部へは報告を上げておりません。軽々しく外へお話できることではありませんから」
それでもタマムシシティのジムリーダーはチャンピオンに助けを求めて訴えかけている。
セージが信じるに足りるとエリカが考えているのかはわからないが、カントーの頂点に立つ者として彼女の願いを受け入れる義務が
セージにはあった。
セージの無言の促しに、エリカはにっこりとほほえんだ。
「
セージさん、わたくしたちの懐深き平野の守護者。どうかわたくしの大切な街を守るために、その手をお貸しくださらないかしら」
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